第22回 山津波に遭った現場-富士フイルム本社工場増築工事

昭和12(1937)年7月、それまで降り続いていた雨によって発生した土石流が、富士写真フイルムの本社工場(現・神奈川工場足柄サイト)を押し流そうとしていた。
その流れを命がけで変えたのは、当時増築工事に携わっていた鹿島組の社員たちであった。

昭和12年頃の世情

昭和6(1931)年9月に満州事変が勃発し、昭和7(1932)年1月には上海事変も起こる。同年3月には満州国が建国、5月には五・一五事件がおき、犬養首相が暗殺されたことによって政党内閣は終わりを告げた。昭和8(1933)年2月、満州国を否認された日本は常任理事国であったにもかかわらず国際連盟を脱退し、世界から孤立していく。同じ2月には作家・小林多喜二が特高警察による拷問で殺されるなど、治安維持法や特高警察が人々を脅かす。昭和11(1936)年2月の二・二六事件の後、ファシズムへの道は加速していった。昭和12(1937)年7月の盧溝橋事件によって、くすぶっていたきな臭さは一挙に噴き上がることとなる。「政府は国民精神総動員を協調し、長期戦に対する国民の覚悟を教え、各種の産業事業は統制させられた。」(*1)そして、軍国主義とさまざまな統制は昭和20(1945)年の終戦まで続いた。

庶民を脅かしたのは軍国主義や言論統制といった政情だけではなかった。昭和8(1933)年3月には高さ28.7mの大津波が三陸地方を襲い、村々を呑み込んだ(*2)。3月初旬の東北地方はまだ冬で、気温は-10℃。小雪が舞い散る中、地震と津波が村々を襲撃する。地震の約30分後から青森・岩手・宮城の海岸を、多いところでは7回も津波が襲ったといわれる。死者・行方不明者約22,000人、流出・破壊家屋約1万戸を出した37年前の大津波(*3)を記憶していた人々も多かったため、すぐに山に逃げたものの、死者・行方不明者は3,064人を数えた。岩手県田老村(現・宮古市)では、人口2,773人のうち901人の命が失われた。

また、昭和9(1934)年9月には中心気圧911.9hpの室戸台風が西日本を襲い、死者・行方不明者3,036人、負傷者約1万5千人、家屋の全半壊88,046戸という被害を出す。瀬田川鉄橋(滋賀県大津市)では突風によって列車が横転した。強風が電線を寸断し、気象電報は届かなかった。関西地区の人々は大型台風への備えなく、通常通りに登校・出勤していた。午前8時、大阪港で風速60mの強風が起き、送電塔や四天王寺の五重塔をなぎ倒す。高潮が時速13kmという速さで川を逆流し、5mの高波が人々を呑み込んだ。明治時代に建てられた木造校舎が多かったため、たくさんの小学校がたちまちのうちに崩壊した(*4)。

当時は水害が多かったらしく、「鹿島組月報」にも水害被害の報告が多く見られる。予報技術もほとんどなく、予報に対する概念も、治水に関する知識も薄かった上、ダム建設や河川の護岸整備なども今ほど進んでいなかったため、台風や暴風雨があるとあちこちで川の水が溢れ、土砂崩れが起きていた。

*1 作者不詳『わが鹿島組』(1938年)
*2 昭和三陸地震 昭和8(1933)年3月3日 M8.1 田老にはその後「田老万里の長城」といわれる高さ10m総延長2400mの防潮堤が建設された。
*3 明治三陸地震 明治29(1896)年6月15日 M8.5 震度は4程度だったが、岩手県三陸町では最大高さ38.2mの津波が襲った。この津波が『稲村の火』の原点になったといわれる。
*4 これらの小学校の建替え工事を、当時の鹿島組大阪営業所が数多く請け負っている。また、この室戸台風の被害によって気象警報の重要性が改めて認識され、気象特報(現在の注意報)が発令されるようになった。

昭和12年ごろの鹿島

政府の「国民精神総動員」という趣旨を受け、鹿島組も統制に務め、「整然たる組織の元に一糸乱れず各現場を統制しつつ、ますますその実を挙げて」(*5)いた。『わが鹿島組』には、施工中の100万円以上の工事として、東京高速鉄道・地下鉄工事(鹿島の軌跡第18回参照)、東京横浜電鉄・東横百貨店増築、東北振興電力・閉伊川第三発電所、ラサ工業・田老鉱山開発、北海炭鉱汽船・虻田発電所、広島電気・打梨発電所、朝鮮鉄道局・中央線南部第11工区、朝鮮鉄道局・東海中部線第9工区、富寧水力電気・富寧水力電気などがあった。日本銀行調査統計局の企業物価戦前基準指数で見ると、当時の100万円は、現在の5億3,647万円程度である(*6)。ほかにも日本橋クラブや、富士写真フイルム各工場、日本鋼管鶴見工場、オーチスエレベータ工場など、工場の工事も多数あり、社員数300人弱の当時の鹿島組にとってはかなりの工事量であった。特に満州の鉄道工事には多くの社員が送られたが、治安が悪く寒さも厳しく、社員の間では外地ならマラリア、アメーバ赤痢、ツツガムシの南(台湾)に行くか、伝染病の心配はないが極寒で盗賊に襲われる可能性のある北(満州)に行くか、いずれにしても命の危険にさらされる究極の選択が待っていた。

*5 作者不詳『わが鹿島組』(1938年)
*6 新聞代(90銭)や映画代(55銭)を元に換算すると30億円以上になる。

国産フィルムを目指して

写真や映画フィルムの日本での歴史は、今から90年ほど前にさかのぼる。大正8(1919)年2月、東洋乾板の創立に端を発し、同年9月、大日本セルロイド(*7)が創立される。日本ではまだ写真フィルムの製造も研究もされていない時代だった。大正10(1921)年にはアメリカのコダック社、ドイツのアグファ社が日本に進出してくる。活動写真と呼ばれていた映画は、大衆娯楽のひとつであったが、映画の原板はアメリカやドイツからの輸入に頼っていたため、非常に高価だった。

セルロイドの新しい需要先として写真や映画のフィルム国産化を考えた大日本セルロイドは、大正15(1926)年、フィルム事業自立計画を決定する。写真乳剤の研究は東洋乾板と提携、昭和3(1928)年には、フイルム試験所(当時はフヰルム試験所)を東京都板橋区志村の大日本セルロイド東京工場内に創設した。さまざまな試行錯誤と商工省の金銭的援助もあって、昭和7(1932)年秋には映画用ポジフィルムが完成する。同年3月にはフィルム工場の建設計画に乗り出した。北は北海道、南は九州までのいくつかの候補地の中から、(1)良質な冷たい地下水が大量に確保できる (2)塵埃のない清澄な空気が得られる (3)従業員の確保ができ、交通が至便 などの理由で神奈川県足柄上郡南足柄村が選ばれた。しかし、農家の人々の土地に対する愛着や、環境破壊の問題に加え、フィルム工場というのが「何の工場かよくわからない」という声もあがる。南足柄村側は村の発展のために工場誘致の話をまとめるべく尽力し、10万m²の用地買収はほどなくまとまった。並行して進められた工場建設計画もまとまり、昭和8(1933)年1月、新工場建設工事の地鎮祭が行われた。フィルムベース工場、乾板工場、フィルム工場、印画紙工場などの各工場が建設され、竣工間近の同年11月、大日本セルロイドは総合写真感光材料工業会社「富士写真フイルム株式会社」の設立を決定する。創立総会は昭和9(1934)年1月に開かれ、資本金300万円、本社及び工場を南足柄村に置くこととなった。6月には東洋乾板を統合。昭和8(1933)年12月から試運転を開始する。しかし創立当初の2年間は赤字続き。新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムや新製品が続々と完成し、累積赤字が一掃できたのは、昭和12(1937)年4月のことだった。同年5月には第一回増資と、工場拡張を実施することとなる。

*7 現・ダイセル化学工業。第一次世界大戦後のセルロイド需要低迷による共倒れを防ぐため、日本セルロイド人造絹糸(創業1908年。兵庫県網干町)と堺セルロイド(創業1908年。大阪府堺市)ら8社が合体して設立。

地図:富士写真フイルム足柄工場

土石流、現場を襲う

この本社工場(現・足柄工場)増築工事を受注したのが鹿島組だった。実は、富士写真フイルム本社工場の記念すべき第一期工事は、鹿島組の施工ではなかった。それを鹿島の営業陣が盛り返し、受注にこぎつけた工事であった。工期は昭和12(1937)年4月から翌年3月までの12か月。はじめての得意先でもあり、後に建築部長となる鹿児島原人を主任(所長のこと)に、11名の社員を置いて全力で工事にかかった。初めての場所で初めての得意先だったが精鋭を送り込んだこともあり、ともかくも7月までは工事は順調に進んだ。ところが、7月10日ごろから連日の豪雨が降り続く。雨は工事を遅らせるだけではなく、盛土が崩れる心配もあるほどの雨量であった。15日未明には、静岡県下に稀有の豪雨が襲来し、なだれ込んだ土砂が東海道線の線路をふさいで水溜りを作り、電車が不通となる。

7月16日、山津波(土石流)が発生する。明神岳南側下方の山から土砂が泉川へ押し寄せた。泉川は工場の中央を流れる小川で、普段は川上に水はなく、工場用水が流れる程度の水量しかない。そこへ、山から流れ出た土砂が流れ込み、田畑も道路もすべてを覆いつくし、土砂で埋め立てられたその上を泥水が流れていく。翌昭和13(1938)年の同じ頃には、隣町の吉田島で酒匂川(*8)の九十間土手が決壊する。上流の三保ダム(1978年鹿島施工)はもちろんまだ作られていない。川が6月からの雨で3m増水していたところへ豪雨が襲ったため、本堤防が決壊。東京から来た赤羽工兵隊110名が付近の松や蛇籠を投入して、10日近くかかって水田3000余町歩の流出を防いだ。

出典: 「開成町50周年の歩み写真集」(開成町ホームページ)
*8 さかわがわ 静岡・神奈川両県を流れる2級河川 御殿場市に水源を置き、静岡県内では鮎沢川。丹沢山中が源流の河内川・玄倉川が丹沢湖から流れ、鮎沢川と合流。箱根山に源流を置く狩川は下流の小田原市内で酒匂川と合流する。

身を挺して守る

昭和12年7月の豪雨により、神奈川県下では山崩れによって3戸が埋没し、県北地域では土砂崩れで20数名が生き埋めになった。道路・線路の不通、川の大増水などが特に多く発生。この豪雨での死者42名のうち30名は神奈川県の被害者だった。ほかにも不明者4名、家屋倒壊12、浸水、山崩れなどの被害が県下で発生した。幸い、鹿島組の現場では協力会社も含めて死者は出なかったが、順調に進んでいた工事は中断せざるを得ない状況であった。

鹿島組の現場にあった木材、仮枠材などの大半は流出し、鉄筋作業場、置物下小屋などの上を90cm以上土砂が覆い尽くしていた。なぜ鹿島の現場がこれほどまでに被害を受けたのかといえば、鹿島組と協力会社が力を合わせ、富士写真フイルムの工場内に土石流が流れないよう、その流れを鹿島の現場がある側へ切り替えたからである。工場の地下室に入水すれば機械は全滅し、工場はストップしてしまう。全員召集した鹿島組員、協力会社が職種を超えて、土嚢を盛って工場への入水を防ぎ、鹿島組の材料置き場へと水を誘導し、施主の工場を、文字通り捨て身で土砂災害から守った結果であった。
鹿島組の現場所長だった鹿児島は後に「あのときの山津波のことを思い出すと今でもぞっとする」と語っている。

鉄骨・鉄筋などが土砂に埋もれ、大損害となったことは直ちに東京にいる組長・鹿島精一に伝えられた。精一の「損害は施主に言ってはならぬ。それより一日も早く埋まった材料を掘り出し、工場の工程に間に合うようにせよ」との言葉を受け、土砂をかぶった資機材を掘り起こし、流された資材を新たに集めるなど、全員が全力であたったが、土砂災害の後始末にはそれから一か月を要した。富士写真フイルムの工場長・春木栄(後の社長)は、鹿児島に、「君のお陰で工場も助かった。ありがとう。自分の身が富士にあるうちは仕事は必ず君にお願いする」と、身を挺して工場を守った鹿島組に大変感謝して、損害の一部を補償してくれたという。10月21日には上棟式が行われ、施主側から浅野社長をはじめ、技師が多数参列し、鹿島からは現場担当者のほかに、当時建築系トップであった竹内重役、奥寺理事、小野理事が本社から出席した。工事は予定通り昭和13(1938)年3月末に終わる。施主は鹿島の努力に感謝し、その後、鹿島は特命で工事を受注することとなった。足柄工場、小田原工場(*9)において多数の工事を当社が施工している。富士フイルム本社ビル(現・西麻布本社)はその象徴ともいえる。

増築後の足柄工場 増築後の足柄工場 クリックすると拡大します

*9 足柄工場、小田原工場はその後組織が統一され、2005年10月に「神奈川工場」となっている。

その後

その後、富士写真フイルム足柄工場は戦争という時節柄、軍需工場として稼動と増築を続ける。鹿島組がそのほとんどを請負っていた。すべての資材が配給制度という時代、昭和18(1943)年11月には陸海軍需工場として飛行機防弾硝子を製造する目的で建設が続けられる。しかし昭和20(1945)年8月5日と7日、機銃掃射を受け、進捗率70%で終戦を迎えると、すべての工事は中止された。

この工事に昭和18(1943)年から携わっていた鹿島組の土岐博は、その後昭和50(1975)年に小田原営業所長として定年退職を迎えるまで、富士写真フイルムの各工場と歩みを共にしていた。

昭和29年ごろの足柄工場 昭和29年ごろの足柄工場 クリックすると拡大します

南足柄村(当時)を襲った山津波のことは、富士写真フイルムの社史にも南足柄市史にも一行も出てこない。所長だった鹿児島の建築工事記録に残っている回想録と、当時現場にいた阿部勲の手記に、鹿児島原人、池田弘、藤原文雄、滝瀬清永、佐々木勘一郎、松井吉彦、内藤栄吉、山下勲、浦和正雄、伊藤勇三、浜口弘の鹿島組組員たちが、協力会社の末次鉄工所と共に、川の切り替え作業を行ったことが記されているのみである。しかしそれが事実であったことは、富士写真フイルムとのほぼ創業期からのかかわりと、当時の新聞に掲載されている豪雨による被害の記事が証明している。

参考図書
富士写真フイルム『創業25年の歩み』(1960年)
富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)
南足柄市編『南足柄市史7』(1998年)
作者不詳『わが鹿島組』(1938年)
東京朝日新聞昭和12年7月縮刷版
春木栄「富士フイルム設立当時の思い出」足柄史談会『史談足柄 第12集』(1974年)
本多秀雄「酒匂川の災害と水利開発の歴史的研究(2)」足柄史談会『史談足柄 第10集』(1972年)
本多秀雄「酒匂川の災害と水利開発の歴史的研究(4)」足柄史談会『史談足柄 第12集』(1974年)

(2008年10月27日公開)

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