第27回 満州での工事と満州鹿島組

鹿島組は昭和15(1940、満州国康徳7)年2月23日に満州鹿島組を設立し、首都・新京(*1)に本社を置いて全満州の土木建築工事を統括した。今回は、国のため、会社のため、家族を連れ、あるいは学校卒業と同時に大陸へ渡り、満州鹿島組を支えた人々と工事について取り上げる。

*1 しんきょう。中国吉林省の省都長春(ちょうしゅん)の別名。満州国設立時に首都として新京と名づけられ、大規模な都市計画に基づく開発が進められた。200平方kmに大同広場(直径300m)と大同大街(全長7.5km)を中心に幹線道路が放射状に配置された近代都市。1948年に長春の原名に復す。

旅順陥落

鹿島組が満州(中国北東部)で工事を始めたのは、明治38(1905)年である。

明治38(1905)年1月1日、ロシア軍の旅順要塞が陥落する。日本陸軍は旅順要塞司令部を設置。日本海軍は旅順港に旅順鎮守府を設置した。日露戦争で勝利を収めた日本は同年、ポーツマス条約によってロシアから東清鉄道(*2)とそれに付随する炭鉱採掘権、及び南樺太を獲得する。

日本政府は満州内部への輸送増強を図るため鉄路修復、新設、管内諸工事などを鹿島組に特命で発注する。組長鹿島岩蔵の命令で弱冠25歳の鹿島新吉(*3)が旅順に乗り込んだのは陥落からわずか10日後。旅順港には沈没船の残骸が横たわり、地面は戦闘の余熱でまだ熱かった。

日を置かず旅順口(*4)に鹿島組の管轄工事を統括する出張所が設けられ、同年4月に発注された砲台修理工事などの旅順港鎮守府管内所工事の拠点となった。そのほか南満州鉄道(*5)本線複線工事、満鉄社宅、発電所、倉庫などの建築工事、満鉄安奉線福金嶺隧道工事などを次々と施工する。政情不安と馬賊の横行から、当時の現場では所長クラスはサーベルを下げ、社員は皆拳銃1丁を身につけるという物々しさだった。

大正4(1915)年、日本と中華民国との条約で中国東北部地域は99年間日本が統治することとなった。国を挙げて移民が奨励され、昭和6(1931)年までに移住した日本人は23万人。昭和11(1936)年8月には広田弘毅内閣が「国策の基準」を決定し、中国大陸への移民を20年間に100万戸、500万人と計画した。満州での鉄道経営、炭鉱開発、牧畜農工業の施設建造などにより、「10年を出でざるに50万の国民を満州に移入すること」を発表したのである。(後藤新平「満鉄総裁就任情由書」)

満州進出が推奨される中、鹿島組は大正8(1919)年8月、大連に出張所を設置する。続いて安東、大石橋に工事拠点としての派出所を、大正9(1920)年から11(1922)年には奉天、撫順、鞍山、長春に相次いで派出所を設け、鉄道建設に伴う橋梁や隧道(トンネル)、工場などを次々と施工していった。しかし大正12(1923)年夏以降、満州・北支間に第二次奉直戦争(*6)が始まり、中国全土にわたって政権争奪戦が展開される。満州地方の秩序維持は見通し困難となり、大正13(1924)年1月、鹿島組はすべての出張所を閉鎖して日本に引き揚げる。

*2 とうしんてつどう 中国東北部の鉄道。現・長春鉄路。日清戦争後、ロシアが建設した。日本では東支鉄道と呼ばれた。日露戦争後、長春以南が日本に譲渡され、南満州鉄道ができた。
*3 かじましんきち 1880-1952 鹿島組初代・鹿島岩吉の妹たみの孫。2代目組長岩蔵の妹いその養子となる。慶応義塾卒業後鹿島組に入社し、3代目組長鹿島精一の片腕となって活躍した。
*4 りょじゅんこう 遼東半島の突端部にある軍港都市。現在は中華人民共和国遼寧省大連市に編入され「旅順口区」となっている。
*5 南満州鉄道株式会社(満鉄) 明治39(1906)年11月に創立された日本最大の株式会社。日露戦争で獲得した東清鉄道(長春‐旅順間)、支線、炭鉱などを経営し、満州支配を拡大するための国策会社。イギリスの東インド会社をモデルとしたといわれる。資本金2億円(昭和4年には8億円)。昭和7(1932)年には満州全土の鉄道と40以上の関連会社を傘下に収める。鉄道総延長は終戦時17000kmになった。
*6 ほうちょくせんそう 中国の軍閥戦争。1922、24年の二度にわたって戦われた。

地図(満州交通図) 地図(満州交通図) クリックすると拡大します

再び満州へ

昭和に入っても満州の政情は不安定だった。昭和6(1931)年9月18日、満州事変(*7)が勃発する。満鉄は関東軍の物資・兵員の輸送のため満州の原野に新しい路線を伸ばし、沿線の駅を中心に満州の都市を築こうとしていた。そして半年後の昭和7(1932)年3月1日、中国東北部に新国家・満州国が誕生する。大正13(1924)年の撤退以降静観を続けていた鹿島組は、満州国が設立されるに至り、再び大連に出張所を設立することとなる。

まず、鹿島組京城出張所から小川成一が乗り込んだ。同年7月には松井眞吾以下8名が第一陣として赴任、大連市攝津町に鹿島組の出張所を開設する。満州国熱河国道工事、満鉄拉浜線工事、満鉄図寧線工事を次々と受注し、これらの工事に従事する社員が日本各地や台湾・朝鮮の現場から続々と赴任する。奉天、新京などにも出張所を開設すると同時に満鉄各建設事務所関係地にも出張所・派出所・連絡所を作り、満州再進出の第一歩を踏み出した。

しかし現場では反政府組織のテロ集団(「匪賊」と呼ばれていた)が反満抗日運動を行い、列車や駅を襲撃していた。背の高い高粱畑に隠れて襲撃するため、鉄道の両側1kmには高粱の作付が禁止されたほどである。匪賊には元々いた馬賊の匪賊と新興の朝鮮匪賊がおり、満州事変前に満州全域で約5万人、最盛期には36万人いたといわれる。山岳地帯を根城に鉄道建設現場に出没し、資材や食糧、武器を狙った。昭和6(1931)年11月から19(1944)年4月までに鉄道建設現場への匪賊の襲来は、1500件近くもあった。

*7 まんしゅうじへん 昭和6(1931)年9月18日、奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で満州鉄道の線路爆破事件を契機として始まった日本軍の侵略戦争。当時の若槻内閣は不拡大方針を取ったが、関東軍は東北三省を占領し、翌年の満州国樹立につながる。以降終戦まで15年に及ぶ日中戦争の発端となった。(出典:大辞林)

匪賊被害が請負金額を上回る

昭和7(1932)年5月、満州で再開した最初の鉄道工事は満州中央部の北半分を縦断する拉賓線(*8)だった。匪賊の襲撃を恐れ、塹壕を掘って鉄条網で囲んだ中に独立守備隊一個中隊、満鉄の工事区、鹿島組の出張所がひとつになっていた。拉賓線工事が全満州で一番匪賊の被害が多く、軍の人間でさえ行くのを嫌がった地域だった。鹿島組の社員たちは予備知識がなかったから赴任できたようなものだとのちに言われた。

第3工区の大平嶺隧道は全長690m。東口の工事に着手しても、西口は匪賊が多くて着手できない。山の頂上に兵隊が山砲を抱えて詰めていたが、それでも匪賊に度々襲撃された。守備隊が匪賊の討伐に行く時には鹿島組からも野砲の弾運びを手伝う人間が駆り出された。匪賊被害が工事の請負金額を上回り、特に鹿島組現場の被害が一番多かった。匪賊は鹿島組の所長・松井の首に10万円、他の社員にも3万円から5万円の懸賞をかけていた。

*8 拉法駅を起点とし、ハルピン市賓江駅を終点とする271.7km。全線を14工区に分け、鹿島は大平嶺隧道を含む第3工区および第4工区を担当した。この線の開通で朝鮮半島と満州奥地が鉄路で結ばれ、農作物輸送、国防の重要路線となった。

悪路の中資材を運ぶ 悪路の中資材を運ぶ クリックすると拡大します

悪路の中資材を運ぶ 悪路の中資材を運ぶ クリックすると拡大します

拉賓線現場にて。右から4人目から、小川、松井、鹿島新吉 拉賓線現場にて。右から4人目から、小川、松井、鹿島新吉 クリックすると拡大します

拉賓線森林地帯での土木工事v 拉賓線森林地帯での土木工事 クリックすると拡大します

大平嶺隧道 大平嶺隧道 クリックすると拡大します

休みなし、電報一つで満州へ

鹿島組の内藤関は、拉賓線工事が終わった昭和8(1933)年の大晦日に家族が待つ大連に帰った。ほぼ一年ぶりだった。翌日、鹿島組大連出張所に元旦の挨拶に行く。すると、所長の松井に明日から哈爾浜(ハルピン)の測量に行くように言われる。1月2日、大連駅のホームで皆に送られて旅立った。当時ハルピンまでは奉天と新京に一泊ずつして3日かかった。

同じ昭和9(1934)年4月、29歳の戸田主雄は島根の鉄道工事の現場にいた。そこに「ハルピン行きのために急行すべし。東京に帰るべからず」という電報が届く。正月に東京に戻った際に母親から縁談を持ち出されていて逃げ出したかった戸田は、実家のある東京へ戻らずさっそく満州へ旅立った。しかし同様の電報を受けた飯田という社員は「長男なので甲府の実家に帰って両親と相談してくる」と実家に帰ったところ会社から「以後出社に及ばず」と電報が届いたという。電報一つでどこへでも行かされ、首を切られた時代だった。

一日3円の危険手当

図寧線は、朝鮮との国境東端に位置する図們から580km北上した佳木斯(チヤムス)まで伸びる図佳鉄道の一部で、昭和8(1933)年4月に着工した。 戸田は、新京から図寧線の現場まで、1日1本の朝7時発の汽車に乗り、昼に吉林に着いてから、自分で布団を軽便列車の貨車に積み込み、自分で担いで現場へ乗り込んだ。当時満州の軽便鉄道は、雪の上に枕木を置き、その上にレールを2本敷いて、ガタガタと走るもので、線路がなくなったところが終点。鹿島の担当は一番奥の7工区だった。鹿島組のような再進出組や新参者は、長く満州に留まって苦労をしてきた企業から「内地組」と呼ばれ、奥地の難工事を割り振られることが多かった。隣の6工区は飛島組が担当。ほかの工区は平原だったが第6、第7両工区とも、昼なお暗いうっそうとした密林が続く地域だった。

工事開始間もない昭和8(1933)年7月5日、2000人の朝鮮匪賊が鹿島組現場に攻め込み、軍関係者を中心に38名の死者が出た。施工は密林の伐採に時間を取られ、急峻な谷も多く、予定工程よりも遅れていた。10月に入るともう寒くなり、11月中旬には全く作業不能となってしまう。

10月12日午後3時ごろ、図寧線工事で最大の難所とされる老松嶺隧道を担当していた24歳の大隈六三郎は、削岩機のコンプレッサーの部品を急いで町まで取りにいくため、トラックで現場を出る。冬が間近のため至急削岩機を修理したかった。妻の兄宅を訪問する大工の福田宗太郎夫妻も一緒だった。匪賊のいる付近を避けて山腹を回ったところ、匪賊100人の襲撃を受ける。山陰から急襲されてトラックは横転。朝鮮人運転手を含め4人は脱出するが、大隈は拳銃6発を連射後、装填中に背中を撃たれた。発見された時は眼鏡も時計も洋服も身ぐるみはがれており、遺体の確認に手間取った。大工夫妻は匪賊に囚われ、連れ去られる。撃たれて気を失った運転手だけが残された。後日、朝鮮匪賊の頭目の一人が、背中に穴があいたカシミアのジャケットを着ていたという。襟には鹿島のバッチがあった。大隈のジャケットだった。この図寧線の頃からは会社から1日3円(現在の金額で約2300円)の危険手当が出て、ひとり3000円(独身者1000円)の生命保険が掛けられたという。拉致された大工夫妻はある日匪賊に「お前の手は俺たちと同じ労働者の手をしている」と言われ、数か月後に解放された。

鉄道工事のほとんどは春、解氷と同時に着工する。結氷前には線路を敷設して汽車を通さないとならない。1、2月に現場説明があり、結氷中に資材をどんどん送り込む。夏の間に工事を終わらせないと、作業員の衣服代もかかる。7、8月に工事がどのくらい進捗しているかで、赤字になるかどうかがわかった。図寧線の工事が終わったのは翌年11月のことだった。

起工式で祝辞を朗読する松井 起工式で祝辞を朗読する松井 クリックすると拡大します

「匪賊」として捕まる

大連から1,670km、満州北東部のチヤムスには昭和7(1932)年、日本の移民団が入植している。鹿島は昭和11(1936)年1月からチヤムスの駅舎と橋梁2か所を含む林佳線(図佳線の一部)33kmを10カ月の短工期で施工。この駅舎は1990年代に建て替えられるまで使用されていた。工事資材、食糧は牡丹江、勃利などからトラックで輸送したが、梅雨期で運行がストップすることも多かった。労賃の支払い資金の受領は、銀行振り込みだと現金化するのに日数がかかるために現金を運ぶ。牡丹江からチヤムスへ、飛行機を利用することもたびたびあった。

満州の奥地は道路がほとんどなく、鉄道工事現場同士の連絡には飛行機の使用が許されていた。満州航空会社が設立され、昭和7(1932)年以降満鉄の各建設事務所に従業員の専属使用として飛行機を配置。僻地の工事警備や匪賊襲撃などの連絡、水害で孤立した場合の食料投下、死傷者の救援輸送に利用、また航空写真測量などにも使われた。建設会社(当時は請負人)も現場労賃の支払いや突発的な急を要する連絡などに利用していた。

昭和11(1936)年頃には社員は内々に「拳銃は持たず、短刀だけを常に持つよう」に言われた。拳銃1丁と弾36発が支給されていたが、匪賊は持っている武器によって階級が上がるため、その拳銃ほしさに命が狙われる。短刀は襲われた際の自殺用だった。現場のコンクリートを打つにも、一個小隊が付いていく。前日に中隊に行き「明日どことどこの現場に兵隊さんをお願いします」とお願いする。朝になると作業員と一緒に一個小隊がついて現場に出る。しかし事務所で急ぎの用事ができたとき、急な話で援護の兵隊がいない。馬で飛ばすと望楼で見ていた兵隊が中隊長に報告し、怒られた。

満州奥地は原野が多かったため、鉄道を作る前に治安維持のために道路も作った。サソリが出る場所もあった。月夜の晩はがさごそ出てくる。家の中にはヤモリが出た。壁にたくさんいて、刺されると全身がしびれた。

勃利出張所(チャムスから南に約200km)主任の平林は満州語も朝鮮語も達者な人物で、近くの大盛山山中にいた匪賊の頭目と話をつけ、山の原木を近くの鉄道駅まで搬出する仕事を与える。しかし駐屯中の守備隊長が鹿島組の3名を「匪賊の疑いあり」とハルピン憲兵隊本部へ移送、所長の松井に吉林旅団本部への出頭を命じる電報が届く。松井は旅団長に彼らの解放を依頼、旅団長もハルピン憲兵隊長に3人の釈放を命じるが、憲兵隊は拒否する。2月26日に新京ヤマトホテル(*9)で鹿島組の会議が行われるが、私服憲兵が会議室を包囲して、議事次第を見ている。しかし会議が終わる頃、急に憲兵たちがいなくなった。そこへハルピン出張所から3人が解放されたという通知が入る。事情はわからぬまま解放を喜んだが、後に守備隊長は2.26事件の幹部で、木材を売却した金を2.26事件の資金として内地へ送金していたことがわかったため、関係者の処分をしたと旅団長から謝罪の挨拶があった。鹿島組は木材代を損したが、その後関東軍の工事が次々と特命発注されたという。

小城子出張所前で 小城子出張所前で クリックすると拡大します

小城子飛行場 小城子飛行場 クリックすると拡大します

*9 南満州鉄道が経営する高級ホテル。満鉄沿線の大都市各地にあった。明治42(1909)年、帝政ロシアと清国との交渉のため南満州鉄道と東清鉄道との接続点である長春駅前に新築された。アール・ヌーヴォー様式の装飾で客室25室。現在は春誼賓館旧館。

雨は降る降る苦力(*10)は逃げる

昭和12(1937)年8月、承古線の突貫工事が始まる。承古線は承徳起点万里の長城を経て北方へ通じる軍事線で、満州南西部・承徳から北京までの420kmのうち、満州分古北口から承徳までの106kmに6か月で鉄道を通すもので、全17工区のうち鹿島組は第6工区26kmを担当した。熱河省南部の山岳地帯を貫く工区には、隧道や橋梁が至る所にあった。

匪賊の襲撃が多い場所では、軍隊に守られながら機関銃の援護の下、鉄路を敷く。軍隊と一緒に朝7時に現場に行って工事を開始する。当時の鉄道建設は人海戦術のため、苦力は一つの現場で2000人~4000人必要だった。明治期からずっと満州で仕事をしていた各社にはその蓄積の苦力と苦力頭がいたが、鹿島には苦力の蓄積がなかった。匪賊が苦力を散らし、苦力が逃げてしまうため、毎日苦力頭に募集費を手渡して苦力を集めるしかない。そのうち苦力が逃げたように装い、募集費をせしめる苦力頭が出る始末だった。
「雨は降る降る 苦力は逃げる パイメン二千ウナ送れ」(*11)と電報を打ったほどである。

島根で鉄道工事に携わっていた田村和三は、昭和12(1937)年8月25日、本社に寄った際、支配人から「松井んとこへ行け」と突然言われ、その足ですぐ満州へ発った。奉天営業所到着が27日。そのまま承古線の現場に赴任した。現場では夜中でもセメントや丸太杭を運んで来るので、寝る暇がなかった。満鉄の職員が足りず、鹿島組で心得のある者は満鉄の測量隊に組み込まれ、田村も測量隊で毎日測量をする。細かいルートは決まっていないが、期限だけは決まっているという状態だった。参謀本部の地図に線を引いてそれが鉄道の計画となり、○のついたところが停車場になっていった。昼間満鉄を手伝って測量をし、夜中、満鉄職員が眠っている間に図面を引いて翌朝鹿島組の社員や苦力頭、世話係などに渡し、満鉄の測量隊と車に乗って次の場所へ行くということを繰り返した。

また、水害の復旧工事中には「鹿島の倉庫にはコメがある」という流言飛語が飛んだ。陸の孤島となった現場では、手紙も電話も道路も使えず、援軍を呼ぶすべもない。鹿島組の小川良知と田村は3日かかって120kmを歩き、援軍を求めた。昭和13(1938)年2月の竣工までに4000人以上の作業員と一緒に、この超突貫工事を仕上げた。「丹那トンネルを開通させた鹿島組にできないはずはない」と満鉄副総裁から言われ、「眠ることも入浴も休養も全くなく無茶苦茶であった」が、施工スピードは東洋レコードだと関東軍に褒め称えられた。

満州は内地と比べて施工の悪条件、異常な短工期で現場の社員は苦労の連続だったが、内地でも不況で厳しい現況だったため、「満州なかりせば」と鹿島組本社では言われていた。苦力問題も落ち着き、工事が黒字になったのは満州で工事を再開して5年ぐらいたってからのことだった。

*10 クーリー。作業員のこと。
*11 パイメン 苦力の主食の小麦粉のこと。 「パイメン二千ウナ送れ」とは、「小麦粉2000至急送れ」の意味。単位は不明。

満州鹿島組設立

昭和11(1936)年2月、新京ヤマトホテルにおいて全満州社員懇談会が開催された。鹿島組組長・鹿島精一の訓示ののち、大連に満州営業所を設置、大連に事務、奉天(現・瀋陽)に建築、新京に土木の拠点を配し、満州再進出に対しての拡充強化を図る。

昭和15(1940)年2月23日満州国法人株式会社満州鹿島組を新京に創立。資本金200万円(*12)。満州での工事量増大という理由に加え、日本国と陸軍が、満州国の法人にならなければ工事は発注しない、内地の支店、出張所は認めないという方針を打ち出したことにもよる。日本資本の企業はほとんど同じ時期満州国法人を設立している。

満州鹿島組の工事は、土木では関東軍の軍備工事、満鉄の新線増線工事、鉱山工事、建築では関東軍の兵舎、満鉄の宿舎、特殊会社(*13)の工場などだったが、施工当時は関東軍が軍事上名前をつけてはいけないということで、○○線、○○工事、あるいは符号によるイ工事、ロ工事などとしか記載されないことが多かった。工事量は年々増加し、昭和17(1942)年10月には資本金を増資、300万円とした。当時の満州国では、大連では日本の「金」勘定で、その奥ではすべて「銀勘定」だった。そのため事務系社員は支払いの計算が大変だったという。

満州鹿島組本社前にて。前列中央が松井 満州鹿島組本社前にて。前列中央が松井 クリックすると拡大します

満州鹿島組株式台帳 満州鹿島組株式台帳 クリックすると拡大します

*12 日本銀行企業物価指数による換算では現在の価値で約9億円。当時鹿島組本体の資本金が350万円(昭和16年9月に増資して550万円)だったことを考えると、満州鹿島組の大きさがわかる。
*13 鉱山(金属・石炭)、金属工業・機械工業・化学工業系の軍需産業の国策会社。満鉄の経営になるものも多かった。

三つの太陽、西にあった「東部特殊工事」

通臨線は、通化(平壌の北約300km)を起点として大栗子までの約200kmを結ぶ鉄道。東辺道(通化省)一体は満州で最も開発の遅れた地下資源森林資源の宝庫であり、満州一の高峰長白山(朝鮮名は白頭山という民族の聖山。3744m)に源流を持つ鴨緑江が朝鮮との国境に横たわり、地形は厳しい。複雑な地形と川の氾濫、酷寒豪雪、匪賊が絶え間なく現場を襲った。

昭和12(1937)年6月20日、通臨線第3工区の鹿島の現場が匪賊に襲われた。午前0時20分、150人の匪賊が隧道の東西両詰所を一斉に襲撃。2時間にわたり食糧衣類その他を略奪、詰所に放火して逃走した。作業員3名が重傷、200名が拉致された。この襲撃では社員の精神面での影響が大きく、3工区の社員を全員入れ替えることになった。その後も小さい襲撃は続いたため、事務所と宿舎を地下道でつなぎ、夜は全員でダイナマイトなど火器の準備をして、交代で翌朝まで警戒した。また、周辺には狼が出るため車での移動にも棍棒が必需品で、狼を追い払うのに使った。

昭和14(1939)年から16(1941)年にかけては朝鮮との国境近くの通臨線第11工区を施工したが、現場から現場事務所までの避難用の地下道を掘り、夜寝るときは一晩中、木魚を叩くようなカンカンという音が響いた。これを叩いている間は匪賊に襲われていない、安全ですよ、生きていますよという合図で、工事が終わるまで続いた。また、夏は酷暑で、太陽の光、川に反射した光、切取法面に反射した光の3つの太陽が灼熱地獄を作って作業員を苦しめた。

昭和14(1939)年~15(1940)年にかけての安奉線工事では、明治42(1909)年に安奉線の工事を施工した当時鹿島組の事務所があり、居住者も多かったことから、橋頭街の町名に「鹿島町」というところが残っていた。

昭和16(1941)年から17(1942)年の満鉄東部特殊工事は、黒河省の奥山神府から450kmの地点からアムール(黒竜江)に向って23km、うち木造橋梁2か所、谷間を埋める盛土5万m²の工事で対岸はロシア領である。そこから先までより深く鉄道を伸ばす秘命を帯び、奉天で水杯を交わして出発した。西部の奥深い場所での工事を「東部特殊工事」として取り扱ったことからも、この工事の秘匿性がわかる。一触即発、死ぬ覚悟で臨んだ現場のため、鹿島組はぜんざいやキャラメルなど1年分の甘味、味噌、醤油、煙草などを持ってきていた。兵隊の食事は現場の食事よりも粗末だったという。地下4mまで堀った中に天幕を張るだけの事務所で毛布をかぶり、ろうそくを立てて仕事をした。10、11月になると気温は零下50度まで下がる。ストーブをたいても後ろの壁は凍っていた。工事ができ次第、天幕を畳み、倉庫を畳み、材料を移動させる。入浴はほとんどできず、シラミにたかられ、夜は狼の遠吠えが聞こえる生活が工事終了まで続いた。

満州鉄道工事施工は全満州にわたった。終戦までに鹿島組が施工した鉄道は、長大橋、長大隧道も含み総延長1000kmに及ぶ。ほかに、建築の工事も数多く手がけた。

終戦までの工事。 終戦までの工事。 クリックすると拡大します

終戦、食堂経営、引き揚げ

満州鹿島組の実質的な責任者だった常務の松井眞吾は、終戦の一週間前に重役会で東京へ戻ってきていた。海軍の軍人から「できたら満州の方を呼んだ方がいいですよ」という助言を受ける。終戦を知って「無理してでも大連へ帰る」という松井を鹿島守之助は「それよりも引揚者受け入れ態勢を整える方が大切だ」と止めた。

昭和20(1945)年8月7日、ハイラル建設事務所へ内藤を訪ねた光義炭鉱工事現場の三浦完司は、ソ連軍が国境を越えて満州へ進撃してきたことを知る。国境近くの現場に戻ることを諦め、満鉄奉天総局へ赴き、工事金45万円を受け取る。日本人が皆逃げているときに金の話などとんでもないといわれたが、この金がのちに皆の給料の一部になった。奉天に2日滞在して新京の満州鹿島組本社へ戻ると、軍、満鉄、官公吏、大きな商社の家族はほとんど朝鮮方面に引き揚げており、鹿島組の家族たちも引き上げるところだった。三浦は荷物運びを手伝い、自分の家族と水杯を交わす。幹部社宅には彼も含めて3人だけ残った。

8月15日、新京の本社で終戦の放送を聞く。南下した家族たちは奉天で終戦を聞き、列車が動かず新京に戻ってきた。途中指輪や時計などめぼしいものははぎ取られたという。

鹿島組の社員は現地で次々と応召され、留守家族だけが残っている地域もあった。五十嵐健はハイラルから逃げてきた2家族を家に引き取り、10人で暮らした。おむすびを満州国の国債で包んできた人もいたという。新京では、市街戦が繰り広げられた。蒋介石→八路軍→ソ連→八路軍→アメリカ・・・占領軍が目まぐるしく変わり、その都度紙幣も変わる。社宅の天井裏に布団を敷き、ソ連兵が扉を叩いた瞬間に女子供は天井裏に隠れた。五十嵐の妻は泣き出す小さい子供の口をギュッと塞ぎ、「殺しても仕方がない」という切羽詰まった気持ちになった。

街を歩くだけで着ているものをはぎ取られる。日本人は街を歩けなかった。新京郊外の日本人は襲撃に遭って家財道具を略奪され、市内の日本人街に集まってきた。秋になると給料もなくなり、衣類や家財道具を売り食いすることになる。社宅は日本人街の賑やかな場所にあったため、臨時の店を開き、各家庭のものを売った。そのうち界隈が商店街となったため、社宅の8軒が共同で食堂を始める。カレーライス、おでん、焼き鳥、お汁粉などを各戸で作って持ち寄った。最後には各自で商売をすることになり食堂、小間物屋、八百屋、酒屋を経営し、皆で帰るまで頑張って命をつないだ。この間本国の情報は入手できず、新聞も手に入らず、人々の風聞で、連合国の占領下に置かれていることや、非常な食糧不足であること、内情不安定なことを聞き、すぐ帰国しない方がむしろ良いのではないかと話し合ったりした。

わずかな暖房用石炭で1年目の冬を越し、6月ごろになってようやく引き揚げの話が出てきた。まず大連在住者から始まり、錦県、遼陽、奉天、四平街の日本人が引き揚げ、新京も7月に入って中心街から引き揚げが始められた。引き揚げ時、持ち帰り金は大人も子供も一人1000円と限定され、洋服・シャツ各1着、靴1足、着物1枚、食糧は10日分用意した。

満州鹿島組関係者のうち60人は一週間かけて葫蘆(コロ)島まで出て、引き揚げ船に乗ることができた。一週間で佐世保港に着くが、なかなか船から降ろしてくれない。鹿島組九州支店が引き揚げ船に差し入れをいれてくれた。1000人も乗っている船でほかにそういうことはなく、誇らしかった。

新京の五十嵐らは引き揚げ一週間前にコレラ患者が出て、引き揚げが無期延期となり、ようやく1か月後に出発した。社宅の人35名だけで1両割り振られた無蓋車に乗り、真ん中に荷物と女子供、外側に男性が立ち、4日間身動き一つできなかった。途中三浦は自分が施工した奉山線暁陽河の鉄橋を見る。線路は外され、コンクリートの橋脚約100基が残っているのみだった。

1週間野営してようやく引き揚げ船に乗る。米国籍貨物船の船倉は深く、真っ暗だった。高粱だけの夕食。博多を目前にして3日間船中で滞留。鹿島組がつぶれていないかどうかも気がかりだった。満鉄も満州電業も会社がないのだ。鹿島は無事だと聞いた時は胸の奥が震えるほどの喜びを感じたとのちに五十嵐は語っている。上陸してから九州支店の世話で寮に一泊、真っ白い握り飯を口にする。

鹿島卯女は、非戦災地区の鹿島婦人会員に呼びかけ、衣類、寝具など余裕があれば供出するように依頼する。全国各地から救援生活物資が続々と届けられ、引揚者を中心に割り振った。

昭和22(1947)年11月、満州から引き揚げた社員と家族が新橋に着いた。モンペ姿で顔をまっ黒にした夫人たちは男装で、頭は坊主にしていた。松井の妻はまは、駅で皆に食べてもらおうと、裏の畑で取ったさつま芋をふかし、リュック一杯に詰めて持っていったが、皆、涙で言葉にならなかった。

鹿島組の海外からの引揚者は、昭和23(1948)年11月までで239名、未帰還者71名に達した。元部署への復帰だけでは賄い切れず、昭和21(1946)年1月1日付で名古屋支店、九州支店が新設され、満州からの引揚者は名古屋支店、朝鮮半島からの引揚者は九州支店へそれぞれ割り振られた。東京出張中に終戦を迎えた満州鹿島組常務・松井眞吾は昭和20(1945)年11月に取締役名古屋支店長として赴任し、満州時代の仲間たちと名古屋支店の礎を築いていった。

<参考資料>
松井大作『松井眞吾追想録』(1963年)
山本保義『満州からシベリアへ―ある兵隊の体験』(1982年)
PHP研究所「月刊歴史街道平成19年6月号」
峯崎淳「日本を軌道に乗せた人たち―榊谷仙次郎と南満州鉄道株式会社」『建設業界』(日本土木工業協会2007年8月号~)
VTR「中国鉄道の旅 大連発旧満州郷愁の旅」『世界の車窓から』(テレビ朝日)
VTR「中国・モンゴル鉄道の旅 遥かなる草原の旅」『世界の車窓から』(テレビ朝日)

(2009年12月14日公開)

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