第37回
幻の小湊鉄道小湊駅―大正時代から続く鹿島とのつながり―
小湊鉄道は、東京湾岸の市原市から房総半島のほぼ中央まで伸びる39.1kmの路線である。全線単線非電化のため、完成当時の姿を残している場所が多い。鹿島は、大正期から現在まで小湊鉄道線のほとんどすべての施工にかかわっているが、このたび小湊鉄道と鹿島の資料から、幻の小湊駅の存在が明らかになった。
鉄道路線の発達
明治5(1872)年に日本初の鉄道が新橋―横浜間に敷設される。それから40年の間に、日本列島の鉄路の8割(*1)が完成した。当初、鉄道敷設は官営を原則とし、新橋―横浜間、大津―神戸間、敦賀―大垣間などが建設されたが、現在の東北本線、山陽本線をはじめとするいくつかの幹線は、民間の手で建設された。こうして民間主導で建設された鉄道は、日露戦争を機に国有化(*2)へと流れを変える。目的は軍事輸送路の整備だった。明治後期には朝鮮半島、台湾、中国大陸でも日本の力で鉄道が敷設され、鹿島はそれぞれの地域で施工に携わった。特に朝鮮半島初の鉄道・京仁線は、アメリカの実業家が施工を投げ出したものを、フランス、ロシアと競って施工の権利を日本が取得し、鹿島が特命で施工している。
また、道路事情が整っていなかった地域と幹線をつなぐための私鉄が、有志を中心にどんどん作られ、中には私財を投げ打って鉄道敷設に命をかける者もいた。大正時代に入っても既設主要幹線の複線化、主要幹線同士の連絡のための鉄道敷設が進む一方で、幹線から分岐する地方開発線などの敷設などまだまだ鉄道網を張り巡らせる必要がある地域は数多く存在していた。
*1 | 日本の国内旅客営業総キロ数が最長だった昭和52(1977)年12月の20,795.4kmを元に計算 |
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*2 | 明治39(1906)年3月31日、鉄道国有法公布。17社、当時の鉄道の9割、3,200kmの私設鉄道が買収された |
房総半島の鉄道網
房総半島で最初に鉄道が敷設されたのは、房総鉄道(現・外房線)の千葉―大網間で、明治29(1896)年のことだった。明治32(1899)年には外房の大原まで、大正2(1913)年には勝浦まで延伸している。また、東京湾側の内房では明治45(1912)年3月、木更津線(現・内房線)の蘇我―姉ヶ崎間が開通している。内房線は大正元(1912)年に木更津まで伸びた後、毎年のように延伸し、大正14(1925)年、館山を通って安房鴨川まで開通した。昭和4(1929)年には勝浦から伸びて来た外房線と繋がり、房総半島の外周を網羅する形となる。
一方、房総半島内陸部を貫く鉄道では、大正元(1912)年に木更津から半島のほぼ中央に位置する久留里まで久留里線が開通している。建設当時は千葉県営久留里軽便鉄道(*3)といった。千葉県が道路事情の悪さを補うために建設した鉄道で、建設工事は大日本帝国陸軍の鉄道連隊が行っている。名前の通り「軽便」で、その速度は自転車に負けるほどだった。大正12(1923)年に国に無償譲渡、昭和5(1930)年には軌道幅を広くして普通の鉄道になった。
また、外房の大原から内陸の大多喜へ延びる千葉県営大多喜人車軌道(後に夷隅軌道)は、大正元(1912)年12月に開通したが、赤字経営で昭和2(1927)年9月に廃止。昭和5(1930)年4月に大原―木更津間を結ぶ計画で国鉄木原線(後のいすみ鉄道)大原―大多喜間が開業する。
久留里線の北に位置する小湊鉄道線は、姉ヶ崎より東京寄りの、養老川河口の五井から養老川に沿って南下する形で半島を縦断し、外房の小湊へ抜けるルートで計画された。大正14(1925)年から昭和3(1928)年にかけて上総中野まで39.1kmが開通する。
昭和4(1929)年の房総半島の鉄道網 クリックすると拡大します
*3 | けいべんてつどう 一般的な鉄道よりも規格が低く、安価に建設された鉄道。軌間や設備、車両を簡易なものにすることで鉄道敷設を推進する目的があった。 |
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小湊鉄道線の計画
小湊鉄道線は、大正時代初期に養老川流域の地主や裕福な農家が中心となり、房総半島内陸部の振興を図るために鉄道敷設を計画したことに始まる。現在の内房線五井駅(市原市)から鶴舞を経て外房の小湊(鴨川市)に至るルートの免許が大正2(1913)年に認可された。
当時、沿線で最も栄えていたのが城下町鶴舞(現・市原市鶴舞)である。
鶴舞には、明治初期に鶴舞藩庁が置かれていた。明治2(1869)年徳川家が駿府藩を作って静岡に移ったことにより、浜松藩は転封。藩主・井上正直は家老・伏谷如水らを連れて鶴舞に来る。鶴舞という名前は、この地に着いた井上公が、高台から見た景色が鶴が両翼を広げて舞っている姿に似ていると、名付けた。明治4(1871)年の廃藩置県で鶴舞藩6万石は鶴舞県となり、木更津県を経て千葉県に編入される。
小湊鉄道線の建設に最も熱心だったのが、この鶴舞の地主層だった。彼等が中心的株主となり、大正6(1917)年5月、資本金150万円(現在の価値で約2億7500万円)の小湊鉄道株式会社が設立された。当初目標とした資本金は220万円(現在の価値で約4億円)だったが、第一次世界大戦の影響で資金調達は思うに任せず、資本金を下げて設立している。しかし、それでも資金は集まらなかった。沿線に当たる場所には山林地主はたくさんいたが、大株主となるような大金持ちはいない。小湊鉄道線の最終目的地である小湊の誕生寺(*4)は、当初千葉・東京方面からの参詣客を期待して大口の株を引き受けていたが、国鉄外房線(当時は房総線)が大正2(1913)年に勝浦まで開通しており、いずれ小湊を経由して鴨川まで延伸の計画(*5)があったこともあり、早々に撤退してしまう。
このままでは資金を集めることができない。鶴舞出身の奥村三郎が安田財閥系の九十八銀行(後の千葉銀行)頭取だった縁から、大正9(1920)年3月、安田善次郎(*6)宛の紹介状を書いてもらい、発起人の一人、永島勘左衛門が安田邸に日参、懇願し、ようやく出資してもらえることとなった。安田は信仰深かったので、この鉄路が誕生寺への参詣客を運ぶことを目的にしている事を聞いて、採算を度外視して出資したようである。大正13(1924)年には安田一族が小湊鉄道会社の6割以上の株を保有していた。
大正13(1924)年1月11日の起工式の時点では、当初計画された大正2(1913)年当時の発起人の大半は名義を下り、ほとんどが入れ替わっていた。
誕生寺の山門(左)と本堂(右) クリックすると拡大します
*4 | たんじょうじ 小湊は日蓮聖人が1222年に降誕した地で、1276年に弟子の日家上人が日蓮の生家跡に寺を建立したのが誕生寺の始まり。明応、元禄の大地震、大津波に遭い、現在の地に移る。日蓮宗の大本山。 |
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*5 | 昭和4(1929)年安房鴨川まで開通 |
*6 | やすだぜんじろう 1838-1921 富山生まれ。実業家。安田財閥の創設者。17歳で江戸に出、丁稚奉公の後元治元 (1864)年両替店安田屋を開業。太政官札・公債などの取引、官公預金などで蓄財し、東京屈指の金融業者となる。明治9(1876) 年第三国立銀行の創立に参加、13(1880) 年に安田銀行を開業。15(1882) 年日本銀行の理事に就任、生命保険・損害保険業にも進出した。晩年東京大学安田講堂、日比谷公会堂を寄付。大正10(1921) 年国粋主義者朝日平吾に暗殺された。そのため小湊鉄道の完成は目にしていない。 |
総力を挙げて受注
この小湊鉄道の工事を受注したのが鹿島組だった。
「五井町出津(現・市原市出津)が浜田慶造の郷里だったから入手した」と後に鹿島の社員が書いている。当時は第一次世界大戦後の不況で、丹那トンネル以外目立った工事もなく、地の利のある浜田がいれば受注に有利と踏んだのかもしれない。浜田慶造は元軍人で、鹿島組にいつ入社したかは定かではないが大正期に鉄道工事現場を歴任、津和野線などの施工に携わっていた。小湊鉄道線工事受注のため本店の工務係に所属。工事が始まると、五井出張所の助役(所長)として赴任している。
小湊鉄道線工事起工の4か月前、関東大震災が起こる。大礒や房総半島南端で1~2mの地殻変動があったと国土地理院のホームページには書かれている。「房総半島は平均1.8mも隆起し、南東方向へ2~3m移動した。線路も動き、軟弱地盤では排水用の土管が陥没(土地が隆起したため陥没したように見える)、橋台は倒れ、橋脚は折れ曲がった」と手記を残した鹿島組社員もいた。この当時房総半島の鉄道で鹿島が施工した区間はなかったが、社員は鉄道復旧工事や海底が押し上げられた港湾の排水、締切、掘り下げ工事などに駆り出された。
小湊鉄道会社で一年半にわたり測量を手伝った内藤関は、「小湊鉄道会社の波田技師長ほか皆いい人で、明るく楽しく仕事をすることができた」と後に語っている。それが、現在まで続く小湊鉄道と鹿島の繋がりのもとになっているのかもしれない。内藤は、1年半一緒に机を並べて測量や設計をしていた高田利三とは特に親しくしていたが、後に高田が小湊鉄道の建設部長になったと聞き、嬉しかったという。
大正13(1924)年1月11日、起工式が挙行され、小湊鉄道線の施工が始まった。
海から山に向かって
第一期工事区間の五井―里見間25.8kmは、養老川沿いの起伏の少ない場所であった。しかし距離が長いため、鹿島組はここを4工区に分け、それぞれに事務所を構えた。起点となる五井の出張所が一番大きく、そこに総括の真田三千蔵、助役の浜田慶造他、工務、倉庫、経理の担当者を配した。また8.6km地点の養老村山田に山田派出所、16.4km地点の明治村牛久に牛久派出所、23.8km地点の高滝村に高滝派出所を設置し、それぞれ工務担当1~2名を配した。請負金額は376,173円(現在の価値で約49億円)とある。五井は当時静かな漁村で、夏には海水浴の小屋がわずかに2,3立つ程度の場所だったが、今は東京湾岸の埋立地に連なる京葉工業地帯の一部である。
小湊鉄道線の第一期工事区間は、平坦とはいえ川沿いの鉄道である。この区間だけで大小合わせて26もの橋が架けられた。最長は第一養老川橋梁の93.3m(現在は架替で第三養老川橋梁が103.6mで最長となっている)。昭和38(1963)年まで日本最長だった阿賀野川橋梁(1,366m 新潟県。明治44・1911年)をはじめ数多くの鉄道橋梁を施工している鹿島にとっては、特に技術を要する難しい橋梁があったわけではないが、大日本帝国陸軍千葉第一鉄道連隊が訓練を兼ねて架橋を応援したという。橋脚は鹿島が施工し、上部工を鉄道連隊が人海戦術で施工した。
鉄道敷設工事は同年10月に終わり、追加工事として停車場(駅)の土木・建築工事、鶴舞発電所建物、五井停車場待合所、鶴舞停車場構内社宅などの工事を請け負っている。鶴舞の駅は、市街地から外れた田んぼの中に作られた。駅舎は海士有木(あまありき)駅から里見駅までの7駅は同じスタイルで作られた。小湊鉄道会社には、その設計図面が今も残っている。
また、鶴舞駅近くには現在でも発電所の建物が残っている。当時はまだ電気が広く普及しておらず、自前で発電所を作って駅舎などへ電気を供給するためだった。鶴舞発電所は大正14(1925)年3月に完成し、ディーゼルエンジンによる75kWの発電機が2機備え付けられ、小湊鉄道の駅舎などに電気を供給していた。昭和2(1927)年11月には近隣9か村に3,300灯を提供するが、昭和17(1942)年の配電統制令により、発電を終える。発電所の建屋としては20年足らずの使用だったが、しっかりした鉄骨造の建物はそのまま資材庫、休憩所などとして使われたとのこと。現在も当時の面影を保っている。
鹿島組五井出張所前で クリックすると拡大します
第一養老川橋梁コンクリート作業 クリックすると拡大します
第二養老川橋梁基礎工 クリックすると拡大します
鶴舞停車場付近土工事 クリックすると拡大します
駅舎設計図(海士有木―里見間) クリックすると拡大します
関東の駅百選に選ばれた鶴舞駅 クリックすると拡大します
鶴舞発電所設計図 クリックすると拡大します
鶴舞発電所施工 クリックすると拡大します
鶴舞駅の向かいに現在も残る発電所建屋 クリックすると拡大します
13哩10鎖付近土工 クリックすると拡大します
現在の13哩10鎖付近 クリックすると拡大します
里見駅 クリックすると拡大します
客車の倍以上の貨車を連ねて
里見駅までの第一期工事区間は大正14(1925)年3月7日に完成し、営業を開始した。
鹿島は追加工事で砂利線鉄道工事、砂利採取も請け負っている。これは、第一期工事の終点の里見から砂利山までの支線のこと。当時は鉄道省が砂利を大量に使用していたため、山砂利の需要が大変多かった。本線に先立ち大正13(1924)年12月30日に運送が開始される。
この、砂利を採取して運搬する事業が、小湊鉄道線を活気づける。無蓋車には山砂利、木材、竹を、有蓋車には炭、薪、農作物を詰め込み、帰りには沿線住民のための肥料、衣料、塩、砂糖、酒、農機具、食糧などを積み込んだ。客車6両に、貨車が16両というありさまで、鉄道収入のうち貨物輸送運賃が全体の6割を占めたほどである。砂利山への支線が出る里見駅では、機関車が砂利山まで貨車を取りに行って戻る40分位の間、客は停車した列車の中でただ待っていたという。のんびりした古き良き時代であった。
砂利採取採掘現場(昭和38・1963年廃止) クリックすると拡大します
小湊鉄道路線図(竣工時) クリックすると拡大します
トンネルをつないで山越えを
第二期工事は里見駅から月崎駅までの2駅4.1kmで、大正15(1926)年9月1日に開通した。この区間には第一月崎トンネル(134.7m)があり、次の第三期工事の月崎から上総中野までの9.3kmには、房総半島最長の大久保トンネル(421.5m)を含む4つのトンネルがある。最後のトンネル・板谷トンネルは房総半島の分水嶺の下を通っている。
房総半島の内陸部を走る鉄道で、トンネルがあるのは小湊鉄道線だけである。内房の木更津から外房の大原まで房総半島を横断の予定だった久留里線は、清澄山系の山々に阻まれて上総亀山駅までで断念。外房から久留里線とつなぐ予定だった木原線(後のいすみ鉄道)も山越えを断念している。小湊鉄道だけが費用のかかるトンネルを通し、鉄路を延ばしていた。
月崎停車場そばの大築堤の工事では、切り取った土砂を使って大築堤の盛土としたが、それでも土砂が足りなく、近くの山を切り取ってもまだ足りなかったという。そのため遠く里見方面より列車で運搬した。切り取り作業では当初は手押しトロリーを使用したが、のちには3トンの小型蒸気機関車が使用された。
千葉鉄道第一連隊岩盤爆破作業記念写真
最前列・小湊鉄道監督官、その左上の二人、前列左の3名は鹿島組組員 クリックすると拡大します
月崎隧道前大築堤 クリックすると拡大します
月崎隧道工事 クリックすると拡大します
土工用小型機関車の組み立て クリックすると拡大します
苔むした橋台が時代を感じさせる クリックすると拡大します
緑茂る築堤には竣工直後の面影が残る クリックすると拡大します
施工中の月崎駅 クリックすると拡大します
現在の月崎駅 クリックすると拡大します
小湊鉄道に残る隧道図 クリックすると拡大します
幻の小湊停車場
昭和3(1928)年5月16日には、小湊鉄道線は上総中野駅まで開通するが、昭和初期の金融恐慌などでその先の計画は中断したと小湊鉄道会社のホームページには書かれている。上総中野駅から小湊までは直線距離で15kmほどであるが、間に標高377mの清澄山が聳える。愛宕山(408m)、鹿野山(379m)に次ぐ房総半島3番目の山である。恐慌による資金不足に加え、この山越えができずに断念したと一般には思われていた。しかし当時の『鹿島組月報』で見ると、昭和3(1928)年5月22日に月崎出張所が西畑出張所(西畑村中野)に移転している。つまり、上総中野以降の工事の準備が始まっていたのである。
昭和3(1928)年~4(1929)年にかけて『鹿島組月報』にはほぼ毎月、小湊土地埋立工事、小湊鉄道小湊本線終点工事の進捗が掲載されている。工期は、埋立工事が昭和3(1928)年6月~9月、終点工事は昭和4(1929)年4月20日までで、本線切取、盛土、停車場地築、道路付替、側溝の工事等が行われ、毎月の出来高数量が報告、掲載されている。小湊鉄道小湊停車場一部土工工事も昭和3(1928)年12月8日に開始される。同じ頃小湊停車場構内社宅新築工事の工事契約を締結している。昭和4(1929)年5月号の月報には、社員有志の房総旅行記が掲載され、小湊出張所に寄ってご馳走になったと書かれている。
小湊鉄道会社では昭和11(1936)年までに工事竣工期限の延長を9回繰り返した。しかしそれでも開業の見込みが立たず、とうとう鉄道省が同年11月28日に残り区間の免許を取り消したことが当時の官報に掲載されている。小湊で、小湊鉄道線の工事が進められたというのは『鹿島組月報』に残る記録のみであった。
ところが、今回取材した小湊鉄道の鉄道部長・黒川雄次氏によると、小湊駅付近の土木工事と上総中野駅より先の一部の土木工事は、確かに行われていた。当時の図面が残っていると言う。「小湊終点付近本線及び埋築地平面図 縮尺六百分の一」と書かれたその図面には、外房線安房小湊駅に沿った線路が色鮮やかに描かれている。また、小湊鉄道社長の石川晋平氏の話では、JR安房小湊駅の脇からずーっと延びている土地があるのが、現地で見るとよくわかるとのこと。橋脚の下部工も川の底に見えるところがあるらしいという。確かに空撮で見ると、廃線跡のように盛土がしっかり残っているのが分かる。
小湊鉄道会社では、小湊まで鉄道を通すために努力をしていた。
帝国興信所『財閥研究』の安田財閥、小湊鉄道の章によると、昭和4(1929)年当時「収益を上げるには是非とも全線を開通せしめる必要があるので、当社では中野小湊間十余哩の開通を極力急いでいる。全線開通の上は、東京方面と外房州方面はほとんど一直線に貫通せられ、両国橋・小湊間は67哩(=107.8km)となり(中略)全線開通後は当社の業績は著しく改善する」(P131帝国興信所『財閥研究』)と今後の延伸に意欲的であることが伺える。
黒川部長によると、小湊付近での工事は先行して行われ、中野から先の工事も進められていたが、昭和9(1934)年には外房からの木原線(後のいすみ鉄道)が中野まで伸びることがわかり、小湊までの開通を断念したとのことである。
空撮で見ると駅の北側から東に延びる遺構がはっきりわかる
養老渓谷駅と名を変えて
小湊鉄道は大正13(1924)年の開業当時、従業員130名、機関車3両、客車16両、貨車16両で一日平均乗降客は930人だった。輸送のピークは昭和48(1973)年度の1日当たり12,000人だったが、現在は従業員数577人、車両14両、一日平均乗降客4,000人である。
保線の職員は13名。養老渓谷駅から上総中野駅までの4.2kmは、開業以来の10mレールが使われている。五井―養老渓谷間を25mレールに変えた時に取っておいたレールを現在も使いまわしているという。保線の手間がかかるレールだがモノを大切にする小湊鉄道の精神が鉄道マニア垂涎のレールを淡々と使用しているのだ。同社にはまだ1923年製のアメリカ・カーネギー社製のレールも残っているという。また鉄道部には1932年製のアメリカ・サンプル・モービル社製のレールの一部が飾られている。
開業当時、地名から朝生原と名付けられていた駅名を、小湊鉄道会社が養老渓谷駅と改めたのは昭和29(1954)年のことだった。『財閥研究』で沿線に「ほとんど見るべきものはない」(P130)と自称した小湊鉄道線だが、昭和25(1950)年、千葉新聞社(現・千葉日報)が公募した房総十二景に、小湊鉄道会社は養老川上流の優れた風景を「養老八景」と名付けて応募し、付近を「養老渓谷」と名づけた。養老渓谷は、昭和39(1964)年に県立養老渓谷奥清澄自然公園に指定され、今では千葉県有数の景勝地として知られるようになった。桜の季節、新緑の時期、関東地方で一番遅い紅葉の季節には、普段の数倍の観光客が訪れる。また、昭和のまま残っている沿線風景を撮るファンは多く、週末には山あいの駅ごとに、数十人単位がカメラを構えているらしい。
房総半島を縦断する夢を持った小湊鉄道線は、外房・小湊へ行きつくことはできなかったが、社名に小湊を残し、今に至っている。JR安房小湊駅に隣接する多分ここに小湊鉄道会社小湊鉄道線小湊駅を作る予定だったのだと思える場所に立つと、昭和の初め、鹿島の先人達が小湊鉄道会社の人々と鉄路を開こうとした気概を感じることができる。
雨の平日でもにぎわう養老渓谷駅。右奥に足湯がある クリックすると拡大します
鉄路を阻む硬い岩盤の山だが紅葉は美しい クリックすると拡大します
<協力>
小湊鉄道株式会社
<参考資料>
石本巳四雄『地震とその研究』(1936年)
白戸貞夫『ちばの鉄道一世紀』(1996年)
鈴木文彦「地方鉄道レポート37 小湊鉄道」『鉄道ジャーナル2007年5月号』
遠山あき『小湊鉄道の今昔』(2004年)
鈴木信雄「小湊鉄道」『週刊歴史をめぐる鉄道全路線15』(2011年)
今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳3関東1』(2008年)
白戸貞夫「小湊鉄道の知られざる歴史」『第二回鉄道茶論講演資料』(2010年)
土木工業協会・電力建設業協会『日本土木建設業史』(1976年)
帝國興信所日報部編『財閥研究第一輯』(1929年)
金額の換算には、日本銀行ホームページの企業物価戦前基準指数を使用
(2012年12月27日公開)