第40回 昭和27年の越前屋ビルのアルバム

東京駅八重洲口の正面に伸びる八重洲通と中央通との交差点に「越前屋ビル」がある。鹿島東京建築支店の営業担当者が、このビルの施工当時のアルバムを借りて来た。そこには、戦後復興に立ち向かい、新たな時代を切り広げようとする息吹が感じられた。

慶応元年創業の越前屋

越前屋ビルのオーナーは多崎興業株式会社。株式会社越前屋の資産管理会社で、越前屋は手芸用品の老舗である。もともとは慶応元(1865)年、越前(現在の福井県)から江戸へ出てきた越前屋忠七が、江戸・中橋に越前屋という和装小物の店を出したことに始まる。越前屋が店を構えた中橋あたりは日本橋から京橋まで続く江戸のメインストリートの一角だった。鹿島の発祥の地はそのすぐそば、中橋正木町。越前屋とは直線距離で150mほどのところにあった。

鹿島は、江戸で大名屋敷のお出入り大工として腕を振るっていたが、越前屋開業の数年前に江戸を離れ、開港を控えて賑わう横浜に移転する。横浜初の外国商館・英一番館を建設、しばらくの間横浜を本拠地として横浜や神戸で洋館建設に従事して「洋館の鹿島」として名を馳せる。一方越前屋は、真田紐を中心にした和装小物の販売で実績を上げていく。真田紐とは、太い木綿糸で平たく厚く織る紐のことで、もともとは戦国武将真田昌幸(1547-1611)が刀の柄(つか)を巻くのに使ったことからその名がついたといわれている。伸びにくく丈夫で、兜の紐、茶道具の桐箱などに使用されていた。これが和装小物、すなわち帯留、帯締めなどにも使用されるようになっていく。明治に入り、越前屋は帝国陸海軍に制服の小付属・刺繍・蛇腹・ボタンなどの付属品、軍刀の紐などを納めるようになり、発展していく。明治10(1877)年に刷られている「流行糸物類栄」という東京の糸商人の番付には、東の前頭に「中橋 越前屋忠七」の名前を見ることができる。越前屋は順調に商売を続け、店は大きくなっていった。

昭和に入り、人びとの間に洋装が広がっていくにつれ、越前屋の取扱商品にも変化が生まれる。イギリス製の手編み系や、刺繍糸を輸入し、その業容を拡大していく。明治期から始まった制服や制帽の刺繍は、現在も続けられている。その流れをくんで現在でも自衛隊や警察の制服の刺繍を納入している。また、戦後は手芸用品店として全国に名が知られるようになっていった。

昭和26年、27年という時代

昭和20(1945)年の終戦からしばらく続いていた飢餓の時代がようやく終わり、社会も落ち着いてきたのが、昭和26(1951)年頃のことである。10月には主食の統制が撤廃される。9月8日にはサンフランシスコ平和条約が調印され、戦争は正式に終わり、翌年4月28日の発効をもって日本は占領下から独立することになる。黒沢明監督の「羅生門」がベネチア国際映画祭でグランプリを受賞したのもこの年のことであった。

昭和25(1950)年に勃発した朝鮮戦争の特需は、糸へん景気、金へん景気と呼ばれ、主要製品の価格は急上昇した。鹿島では、昭和26(1951)年2月2日付で各部所長あてに「工事入手方針に関する件」、2月15日には「緊急金融対策に関する件」という通達を相次いで発信している。その内容は、鹿島の厳しい懐事情を象徴している。金融界の引締措置に伴い、資金調達はますます困難の見通しであるから、工事入手にあたっては前渡金の交付を受けられるものを選抜すること、契約条件で物価変動による請負金額の変更を認めてもらうこと、得意先の信用を十分調査することなどを求めるものだった。

当時の通達では朝鮮戦争ではなく「朝鮮動乱」という言葉が用いられている。朝鮮動乱によって物価労銀(=労賃)が高騰しているが、日銀統計局が作成した資料などを利用して、企業者の説得に努めるよう新たな通達が発信された。米軍工事のクレーム問題(*1)などもあり、鹿島の資金繰りは切迫していた。メインバンクだった第一銀行からの借入金を返済するために、常に会社全体の資金繰りを根本において事業遂行にあたるように各部所長へ通達が発信された。社報には日銀統計局発行の「東京闇及び自由物価指数」や「東京卸売物価指数」、労働省告示「標準労務賃金」が掲載される。その高騰率は想像を絶するもので、昭和25(1950)年5月を基準にして7か月後の12月には木材61%、釘117%、鋼材72%、亜鉛鉄板72%に上っていた。

苦しい資金繰りについて、昭和26(1951)年1月に通産省を退官して常務取締役として鹿島に入社した渥美健夫(*2)は「本社の預金残高が100万円を切ったことがあるくらい苦しい時代だった」(*3)と後に語っている。各支店の経理担当課長たちが集まる毎月の資金査定会議では、大きな現場の八百屋や魚屋への支払いまでチェックして査定を行い、支店の総収入、支出を計算し、赤字工事は個別に査定する。銀行から借りてもまだ資金が足りないときは、本社から送る。駐留軍工事のクレームに勝つまでの間の資金繰りは本当に大変で「企業というものは、お金がなければだめだということで、せっかく入ったからには何とか鹿島建設に資金的な力をつけなければいけないと思った。月給日の前日になると社長から『明日の給料は大丈夫か』という電話があって、『まあ何とか払えます』といったやり取りがあったくらい厳しかった。」(*4)という。

鹿島が、木挽町(現在の中央区銀座7丁目)から東京駅八重洲口の現在の八重洲ブックセンターの場所に移転したのは昭和4(1929)年のことである。その後赤坂に移るまでの約40年間、鹿島の本社ビルは八重洲にあった。戦後は社員がどんどん増えて本社ビルだけでは収容しきれなくなり、近隣のオフィスビルに間借りをするようになる。若手の社員たちは、休みの日には外堀(現在の外堀通り)で30円の手漕ぎの貸ボートに乗って、鍛冶橋、八重洲橋、呉服橋、日本橋川などを周遊したという。ヤンマービルからブリヂストンビルにかけての八重洲通にはトーチランプの屋台が並び、升酒30円、焼鳥10円という手軽な値段で楽しむことができた。

*1 米軍厚木飛行場工事(昭和25・1950年着工)で米軍担当将校の不当な対応により砂利関係4000万円(現在の価値で1.1億円)、造成関係6000万円(現在の価値で1.6億円)の損失を出していた。鹿島の資本金は当時8000万円(現在の価値で2.2億円)であった。昭和27(1952)年11月勝訴。敗戦国が戦勝国にクレームを出して主張が認められ、勝利したことは高く評価された。
*2 あつみたけお(1919-1993)東京生まれ。昭和18(1943)年東京帝国大学法学部政治学科卒業、海軍主計大尉、昭和20(1945)年商工省、昭和26(1951)年鹿島建設常務、昭和31(1956)年副社長、昭和41(1966)年社長、昭和53(1978)年会長、昭和59(1984)年名誉会長
*3 渥美健夫『つれづれの記』(1995年)P51
*4 渥美健夫『つれづれの記』(1995年)P54

社報 昭和26(1951)年2月11日号 社報 昭和26(1951)年2月11日号 クリックすると拡大します

越前屋ビル新築工事

そういう時代背景における昭和26(1951)年の「越前屋ビル新築工事」である。戦後のビル建設ラッシュで都内に建築中の大規模なビルは50棟以上あったという。ただしこの当時の「大規模なビル」とは、鉄骨鉄筋コンクリート造で5階建て以上のビルを指していた。

工事前の写真で見ると、越前屋がもともと大きな交差点の角地にあった商店であることがわかる。周りの土地建物を買収し、ビルを建てる敷地を確保して設計中山克己建築設計事務所、施工鹿島建設で、敷地面積548.329m2、地下2階地上8階搭屋2階の越前屋ビルの施工が開始される。当時の社長・鹿島守之助が入手した工事だったという話も聞くが、工事入手の経緯については定かではない。

当時の鹿島にとって越前屋ビルは大型工事のひとつで、「鹿島建設百三十年史」では「第8章建築ブーム始まる」の章で、「戦後の国土復興時代を経て、当社建築部門では昭和25(1950)年頃より、本格的なビル建築、工場建築工事が始まり、先に述べた中央合同庁舎第一号館、三井別館、福岡東邦生命ビルをはじめ、官庁、民間の諸工事など数多くを施工したが、これらの主要な工事をあげれば次のとおりである。」(*5)として、後楽園スケート場、東京厚生年金病院、日本楽器製造東京支店(ヤマハ)などと共に「越前屋ビル」が紹介されている。「平和復帰以来東京駅八重洲口には、戦後のビルブームにより続々新しい建物が建築されたが、それらの中でも一際目立った本ビルは、昭和26(1951)年7月着工、28(1953)年4月に竣工した。鉄骨鉄筋コンクリート造、地下2階地上8階建、延べ5160平方メートル、仕上げは外壁タイル張り、一部ガラスブロックおよび議院石張りによる近代的建築である。」(*6)とある。議院石とは御影石のなかでも広島県倉橋島の桜御影と呼ばれる桜色をした御影石のことで、国会議事堂に使われたことからこの名がついた。ちなみに鹿島の八重洲本社ビルには稲田石という茨城県産の御影石が使われていた。稲田石はのちに最高裁判所にも使用された。

また、『写真月報』にも越前屋ビルは掲載されている。「KAJIMA1952」に模型が、「KAJIMA1953」には「越前屋ビル完成」の写真が1頁に大きく載り、「外装の連続窓、タイルの色調その他内部に至るまで設計者の苦心が表れている。」と紹介されている。
明治期からほぼ毎月発行されていた『鹿島組月報』は、昭和22(1947)年に通達や人事異動などを載せる旬刊の「社報」に変わった。『写真月報』は、『鹿島建設月報』が昭和34(1959)年に発行されるまでの昭和25(1950)年から昭和30(1955)年までの6年間に年1回発行された6冊の冊子である。表紙にKAJIMAとあるだけで特にタイトルのある冊子ではなかった。その後の『鹿島建設月報』が、文字が多かったことに比較して『写真月報』という言葉が生まれたと考えられる。西暦表記で英語が多用されており、時代背景がしのばれる。サイズはB5版、20頁足らずの冊子である。その中で2回掲載され、これだけの大きさで紹介されていることでも越前屋ビルが当時の鹿島の主力工事の一つだったことがわかる。

*5 『鹿島建設百三十年史 上』P446
*6 『鹿島建設百三十年史 上』P448

工事着工前の越前屋(八重洲通から) 工事着工前の越前屋(八重洲通から) クリックすると拡大します

写真月報1953 写真月報1953 クリックすると拡大します

設計中山克己、施工鹿島建設

越前屋ビルのアルバムには、中表紙に「越前屋ビル建設記録」とあり、設計者中山克己、施工鹿島建設とある。中山克己(*7)は、1950~60年代に体育施設やオフィスビルを数多く手がけた建築家で、昭和2(1927)年に早稲田大学を卒業後、渡辺仁建築工務所に勤務。このときベルリンオリンピック競技場の施設全般を調査し、ロサンゼルスオリンピック競技場と比較研究し、幻の東京オリンピックの会場構想図をまとめあげた。昭和13(1938)年には、満州国の首都新京(現在の長春)を中心に満州各地の体育保健施設計画を推進する満州国体育保健協会建築委員に就任し、終戦までに病院、運動場、展覧会場、水泳場、植物園、事務所、住宅などさまざまな設計にかかわる。終戦引き揚げ後、昭和23(1948)年春、中山克己建築設計事務所を立ち上げ、スポーツ施設に限らずオフィスビル、商店、銀行、病院、住宅など幅広い分野の建築を手掛けていた。

鹿島建設の現場所長は白井正明。白井の下に建築系社員が6名ほどおり、一番若かったのが昭和3(1928)年生まれの梅津辰治だった。彼は、昭和19(1944)年に入社して、越前屋ビルが7番目の現場である。当時若手は防護構台の上の現場事務所に住んだ。食堂もあり、賄の女性もそこに住んでいた。快適に過ごすことができたがただ一つ、朝6時になると構台下の広告塔のスピーカーから中華料理店のコマーシャルが大きな音で流れてくるのが難だったという。椎名町(東京都豊島区南長崎)の現在鹿島の社宅がある場所が当時は機材センターで、ここがミキサー、ウィンチ、ワイヤなどの基地になっていた。八重洲本社の隣にはガソリンスタンドがあり、いつもそこでガソリンを入れて車を走らせたという。

梅津は越前屋ビルの後も銀座、新橋など都心の現場に勤め、1970年代からは数々の現場の所長を歴任。昭和63(1988)年に定年退職した。彼によると特に新橋から銀座、京橋、日本橋までの地域は関東大震災後に区画整理をしていて、民々境界を計測してみると実測の方が3cmくらいずつ広い場合が多かったとのこと。越前屋ビルの敷地も例外ではなく、隣接地との境界線を改めて引き直すための打ち合わせが必要だった。

*7 なかやまかつみ(1901-1987)国立競技場の建設にかかわる。井上宇一と共に「オリンピック代々木競技場および駒沢公園の企画設計並びに監理」で日本建築学会賞特別賞受賞(昭和39・1964年)。主な作品に筑波カントリークラブクラブハウス(昭和23・1948年)、大和証券本社ビル(昭和31・1956年)、コマツビル(昭和41・1966年)、真駒内屋内スケート競技場(昭和45・1970年)などがある。弟は、元日本興業銀行頭取、財界の鞍馬天狗と言われた中山素平。

タワークレーンのない時代

現在のビル建設では、資機材の上げ下ろしにタワークレーンが使われるのが普通である。
しかしこの時代の建築現場ではデリックという揚重機が使用された。日本では「坊主」とも呼ばれていた。3本以上のガイロープでマストを支え、ウィンチでワイヤーを巻き上げて資機材を揚重する。小型のクレーンはマストが丸太だったので坊主丸太と呼ばれた。現在のように無線で指示ができるわけではないので、笛と手で合図して作業を進めたという。これらのデリック類は昭和37(1962)年頃から徐々にタワークレーンにとってかわられた。

作業風景 昭和26(1951)年8月10日。この時代の建築現場ではヘルメットをかぶることはない。 作業風景 昭和26(1951)年8月10日。
この時代の建築現場ではヘルメットをかぶることはない。
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デリック デリック クリックすると拡大します

坊主丸太 坊主丸太 クリックすると拡大します

鉄骨建方用デリック(右) 鉄骨建方用デリック(右) クリックすると拡大します

デリックの足元 デリックの足元 クリックすると拡大します

地下2階まで掘る

越前屋ビルは、地下に「ニュース映画劇場」を作ったために、当時にしては珍しく地下2階まであった。ニュース映画劇場の座席数は50席くらいあったようである。竣工時の写真で見ると建物右側の八重洲通りに面して「ニュース映画劇場」と赤字で書かれた看板を見ることができる。当時はニュース映画専門の映画館があちこちにあった。有楽町の日劇(現・マリオン)にもあり、ニュース映画とディズニーのアニメ映画を上映していたという。テレビの普及によって縮小し、その後ニュースから離れていく。越前屋ビルのニュース映画劇場の場所は、学習塾などが入ったこともあったが、時代は流れ、現在は居酒屋が営業している。

根切(地下の掘削)はもちろん手掘りである。機械化されたのは70年代に入ってからだという。山留壁には鋼製のシートパイル(矢板)が用いられた。越前屋ビルに用いられたのはIII型と呼ばれるものだった。シートパイルは現在はVI型が主流で、強度は3倍ぐらいまで高くなっている。矢板が崩れないように抑える「腹起し」や切り梁には300×300の松材が使用された。

人の手による掘削作業 人の手による掘削作業 クリックすると拡大します

既存建物松杭回りの掘削 昭和26(1951)年12月18日 既存建物松杭回りの掘削
昭和26(1951)年12月18日
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切梁のジョイント(300×300の松) 切梁のジョイント(300×300の松) クリックすると拡大します

丸太材の吊足場。荒縄でジョイント部を結束している。冬場の作業員は帽子をかぶり手ぬぐいを首に巻き、厚着だが寒そうだ。 丸太材の吊足場。荒縄でジョイント部を結束している。冬場の作業員は帽子をかぶり手ぬぐいを首に巻き、厚着だが寒そうだ。 クリックすると拡大します

シートパイル、切梁、腹起し、火打ち。画面奥の道路から伸びる桟橋は、搬出入のトラックを入れるための乗入構台。100×100の端角を繋いだ覆工板の下は、300×300の根太。300×300の大引が、構台支柱と根太をつなぐ。 シートパイル、切梁、腹起し、火打ち。画面奥の道路から伸びる桟橋は、搬出入のトラックを入れるための乗入構台。100×100の端角を繋いだ覆工板の下は、300×300の根太。300×300の大引が、構台支柱と根太をつなぐ。 クリックすると拡大します

柱用の鉄骨。鉄板表面にリベットが見える。現在はリベットではなく溶接や高力ボルトで組み立てる。 柱用の鉄骨。鉄板表面にリベットが見える。現在はリベットではなく溶接や高力ボルトで組み立てる。 クリックすると拡大します

鉄骨建方。昭和27(1952)年2月22日。奥に1月に竣工したブリヂストンビルが見える。 鉄骨建方。昭和27(1952)年2月22日。奥に1月に竣工したブリヂストンビルが見える。 クリックすると拡大します

鉄骨建方用デリックのウィンチ。ウィンチの大きさがわかる。 鉄骨建方用デリックのウィンチ。ウィンチの大きさがわかる。 クリックすると拡大します

鉄骨建方。 昭和27(1952)年4月8日。中央通を挟んだブリヂストンビルから撮ったものか。丸太の外足場と梁鉄骨のフィーレンデールがよく見える。 鉄骨建方。 昭和27(1952)年4月8日。中央通を挟んだブリヂストンビルから撮ったものか。丸太の外足場と梁鉄骨のフィーレンデールがよく見える。 クリックすると拡大します

中央通から見た越前屋ビルの鉄骨建方。右は、現在の同じ場所。西勘、千疋屋、入船はそれぞれビルになっているが同じ場所にある。 中央通から見た越前屋ビルの鉄骨建方。右は、現在の同じ場所。
西勘、千疋屋、入船はそれぞれビルになっているが同じ場所にある。
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床の型枠とスラブ配筋。鉄筋に丸鋼(でこぼこがない)が使われ、型枠はベニヤではなく木板を使っている。 床の型枠とスラブ配筋。鉄筋に丸鋼(でこぼこがない)が使われ、型枠はベニヤではなく木板を使っている。 クリックすると拡大します

外足場に旧社章と鹿島建設の文字。昭和27年6月12日 外足場に旧社章と鹿島建設の文字。昭和27年6月12日 クリックすると拡大します

越前屋ビルの竣工

昭和28(1953)年4月、越前屋ビルは竣工する。1階には東京銀行と越前屋のショールームがあった。昭和30年代に開かれたファッションショーの様子が越前屋ビルのホームページに掲載されている。

昭和58(1983)年のタイル張り替え時の写真には、竣工当時には見られなかった大きな大丸の看板が屋上に掲げられているのを見ることができる。1998年に再度外壁の改修工事が行われ、竣工時の色に近い外壁に戻る。現在は、1階から4階までを借りているワタベウエディングの広告がかかっている。 越前屋ビルのショーウインドウとなっている1階の角には色とりどりの手の込んだ手芸作品が展示され、特に日本や世界の名所を刺繍で絵画のように表現し、額装した展示品には、道行く人が思わず足を止めて見入っていた。

お客様からお借りした一冊の古いアルバムは、私たちにさまざまなことを教えてくれた。発注者、設計者、施工者などビルを作った人びとのいろいろな思いを感じることができる。写真の一枚一枚から、当時の苦労を偲ぶことができる。新たなビルを作る誇りを感じることができる。

* 金額の換算は、日本銀行企業物価戦前基準指数を使用。昭和25(1950)年の場合約2.73倍になる。消費者物価指数で換算すると7.87倍になるが、「企業間取引」と考え、企業物価戦前基準指数を使用している。しかし公立小学校教員初任給36倍、都知事の給料と全企業平均初任給は20倍、国家予算は114倍(森永卓郎『物価の文化史事典』)と、何を基準にするかで違ってくる。

<参考図書>
渥美健夫『つれづれの記』(1995年)
小倉好雄『タワークレーン今昔』(2000年)
武村雅之『天災日記』(2008年)
森永卓郎『物価の文化史事典』(2008年)

<協力>
多崎興業株式会社
中山克己建築設計事務所
東京都中央区立郷土天文館

(2013年11月27日公開)

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