第50回 肥薩線矢嶽隧道 -難渋する隧道工事が生み出した「矢嶽越え」

九州南部、肥後、日向、薩摩の国境に矢嶽峠がある。この急峻な峠はその昔、薩摩側から戻ってくることができた客人は柳生十兵衛一人しかいなかったと言われる場所である。明治の鹿島が施工した矢嶽隧道(矢岳第一トンネル)が開通したことにより、青森から鹿児島までが鉄路で結ばれた。明治42(1909)年のことであった。施工当時は鹿児島線、現在は肥薩線と呼ばれる路線である。

九州地方の鉄道建設

明治14(1881)年11月、東京から東北方面への鉄道建設のために日本鉄道会社が誕生する。すると、明治15(1882)年、福岡県内の有志が「もともと我が国の文化はまず西南日本に輸入され、東漸北進する形式をとったものだが、新文明の大動脈ともいうべき鉄道敷設事業に於いて東北地方に先鞭をつけられ、その後塵を拝する形となることを大いに遺憾となし」と立ち上がり、門司・熊本間の鉄道建設実現に向けて運動を開始した。

しかし、政府は日本鉄道会社誕生後、全国の鉄道線路を幹線と支線に分けて考え、地勢上支線となる路線は民間会社の敷設を許可し、幹線となる路線は官設とする方針を取ろうとしていた。門司・熊本間は九州の大幹線となる路線のため、政府は自ら建設すべきと判断。民間で建設することを却下したのである。ところが当時鉄道局は繁忙を極め、新たな路線建設の余裕はなかった。九州地方に鉄道建設を希望する有志は、福岡、佐賀、熊本、長崎の各県に及び、政府に建設を何度も上申したが、当時中山道線工事計画中の鉄道省には九州に回せる技術者はいなかった。紆余曲折ののち、明治21(1888)年6月、有志が設立した九州鉄道会社への鉄道敷設の免状が下付された。13工区271哩余(434km)。現在の鹿児島本線、日豊本線の一部、長崎本線・佐世保線などがこれにあたる。ドイツ人技術者を招聘し、明治21(1888)年9月から工事を始める。ほとんどを日本土木会社(*1)が施工した。

九州鉄道会社は門司から熊本までの熊本線に加え、鳥栖から分岐し、佐賀までの佐賀線約25kmをあわせた220kmを明治24(1891)年8月までに施工するが、金融ひっ迫で建設工事は一時中止。翌明治25(1892)年4月から再始動し、松橋(まつばせ)線(熊本・松橋間16km)、武雄線(佐賀・武雄間25.6km)、行事線(小倉・行橋間24km)を次々と施工、門司・小倉間の複線化工事を明治30(1897)年2月に竣工してすべてを終えた。

また、九州地方の石炭産業の中心である筑豊地方では、石炭輸送を目的として筑豊興業鉄道が明治23(1890)年から36(1903)年にかけて本支線合わせて約113kmを通している。鹿島もこのうちのいくつかの工区を施工した。

一方、本州の鉄道との連絡のために、関門連絡船が開通している。山陽鉄道の子会社山陽汽船が明治31(1898)年に徳山と下関、門司を結ぶ鉄道連絡船の運航を開始し、急行列車と接続させていた。明治34(1901)年には関門連絡船が運航。明治44(1911)年には貨物列車をそのまま船に乗せて運ぶ貨車航送船が運航を開始する。

*1 日本土木会社は大倉喜八郎、渋沢栄一、藤田伝三郎の発起で明治20(1887)年に誕生した代表的な土木請負会社であったが、明治26(1893)年7月に解散した。これは、同年1月に鉄道会計法が公布されて鉄道工事が自由競争となり、業者の信用、経験、資力、実力に関係なく競争入札によってのみ工事請負業者を決定することになったためである。解散後大倉土木が継承している。

鹿児島線の建設

このように九州北部の鉄道網は、九州鉄道会社によって整備され、門司から熊本までが九州北部の幹線鉄道となったが、熊本から鹿児島までの南北縦貫線は未整備だった。もともと九州地方は中央部に九州山地が構えていたため南北の交流はほとんどなかった。九州北部は大陸や畿内文化圏との交流によって発展し、九州南部、特に薩摩は薩南諸島や沖縄との交流が盛んだった。また、宮崎は海路での畿内との交流があった。

南北九州を鉄路で結ぶ計画は、明治25(1892)年6月の鉄道敷設法ですでに決まっていた。「熊本県下熊本より三角に至る鉄道および宇土より分岐して八代を経て鹿児島県下鹿児島に至る鉄道」が九州地方の予定線として含められる。鹿児島までの鉄路が延長されれば鹿児島と中央の距離感がなくなり、経済効果も期待された。しかし熊本以南は第一期線(緊急と認められる線路)からは除外されていた。どこに鉄道を通すのが一番適切か、区間、距離、建設費はもちろん、最急勾配も重要なチェックポイントだった。結局九州を縦貫する鉄道の敷設決定には至らず、明治27(1894)年5月の第4回帝国議会まで持ち越された。ここで鹿児島線は、鉄道敷設法改正法律案法律第11号として第一期線に編入され、早急に建設を進めることが決まった。

松橋(まつばせ)・八代間20kmは、九州鉄道会社が敷設することとなっていたが、八代から鹿児島まで人吉・加治木を経由する152.4kmを鉄道局が建設することとなった。決定した路線は、球磨川に沿って進んだ後に県境の険しい山を越えて鹿児島に下るものだった。当時は海岸側を通ると海から攻撃されやすいという考え方から鉄路は山側に作るという方針だった。

鹿児島線は八代から鹿児島までを八代・人吉間、人吉・吉松間、吉松・鹿児島間の3区分に分けて建設される。明治32(1899)年8月に鹿児島側から、明治34(1901)年1月に八代側から、それぞれ工事開始。鹿児島・吉松間64.8kmの最急勾配は40分の1。短い隧道が16か所あった。順調に進んでいた工事は明治35(1902)年夏の水害で復旧作業が必要になったが、明治36(1903)年9月までに順次開通した。

また、八代・人吉間53kmは、日本三大急流の一つ球磨川に沿ってのぼる工区で急流に妨げられて施工は困難を極めた。球磨川に注ぐ大小の支流を渡る橋梁は23を数え、本流も2度横断している。第一、第二球磨川橋梁は、直営施工で行われた。加えて隧道も23計画された。当時の建設技術と蒸気機関車の排煙対策から、隧道建設はなるべく避けて、掘るとしても極力短く、そのためには距離が増しても山裾を縫ってくねくねと走る路線が多かったのだが、この路線では隧道を施工して進むしかなかった。宮松隧道(191.1m)は軟岩で施工が容易だったが、他の隧道は地質が固く施工は困難だった。瀬比良山隧道(132.6m)は河川近くで地盤がもろく、隧道前後の切取崩壊が2度おこり、設計変更せざるを得なかった。また、一勝地近くの清正公岩付近は昔から交通の難所で、90.5mの短い隧道があったが、岩が堅く、掘削に苦労した。加えて日露戦争(1904-1905)により工事は中止され、開通したのは明治41(1908)年6月だった。

人吉・吉松間の工事

八代から鹿児島までの3区分のうち真ん中の人吉・吉松間は、34.1kmと距離はそれほど長くないが、九州山脈を横断する最難関箇所である。熊本県人吉市は、江戸時代相良藩2万2,000石の城下町で、相良家は始祖頼景が1193年に入国以来約700年の間、国替えもなくこの地を治めてきた。そのため周りを山々に囲まれた人吉盆地には独自の文化圏が築かれている。西南戦争の時には西郷軍の本陣が置かれ、人吉盆地とその周りの山々は戦場となったという場所でもある。

工事はその人吉の東部から南に進むのだが、ここが難所であった。人吉から矢嶽までは直線距離では12.9km、高低差は426.7mあり、勾配を緩やかにするためにできるだけ距離を取って進むしかなかった。まず、第三球磨川橋梁を渡り、そのあと8kmにわたって1,000分の25の上り勾配が続き、横平隧道(502.9m)からは半径300~400mのループを描き、隧道の上が大畑(おこば)駅となる。日本初のループ線である。ここまでで人吉駅から10.5kmの距離を186.2m上っているのだが、蒸気機関車が走るときには1トンもの石炭が必要だったそうである。大畑駅では石炭と水を補給し、スイッチバック、そのあと谷間を埋める高さ35.1mの大築堤(約30万㎥)を築き、次に1,000分の30.3の急勾配が設けられた。人吉駅から矢嶽駅(矢岳駅)までの間に高さは430mも上がる。その標高差は東京タワー(333m)よりも高い。矢嶽駅は標高537m、この路線の最高地点である。そしてここからは下り坂になる。矢嶽隧道は1,000分の25の片勾配。そこから鹿児島県吉松村(現・湧水町)まで一気に下がる。

このように山々の間を縫う21の隧道、急勾配、ループ線、スイッチバック、大築堤、路線中最長の矢嶽隧道を持つこの区間は、全部で6工区に分けられた。鹿児島県の吉松側から1、2工区が橋口組、次の矢嶽隧道から矢嶽駅付近までの3、4工区が鹿島組、5工区は橋口組、大畑のループ線から人吉までの6工区が間組と、それぞれ入札によって請負者が決まった。

工事は明治40(1907)年8月に開始される。間組はこの工事で初めて官営鉄道に進出している。間組工区の大畑駅のあたりは堅い岩盤で、施工は難航した。蒸気機関車の給水用の引水設備は大河間川から4,526mを引いて整備された。ループ線は、まず横平隧道(503m)を掘り、山の裏側の大畑に出る。大畑駅でスイッチバックして、半径300~400mの環状に山腹を回り、横平隧道の上を通って矢嶽駅に向かうものであった。当時の蒸気機関車が列車をけん引して登るほぼ限界の勾配だったと言われる。通常ならループ線の前で駅や信号所など蒸気機関車が一旦休憩できる場所を設けるのだが、ここではそのような平坦な場所を確保できないため、ループ線の途中に大畑駅という拠点を作り、水と石炭の補給をし、スイッチバックをする必要があったのである。ループの長さは約20km、交錯点の高低差約52m、勾配1,000分の33.3。『間組百年史1889-1945』(1989)には、「山中の工事のため材料の運搬に不便をきわめた。そのため、山腹に仮道を開鑿したり絶壁に桟道を架けたりして、牛馬や人の肩で材料を運んだ。(中略)また、完全な山間僻地で人家もまれな地帯のため、人夫の確保にも苦労した」とある。これらの工事は明治42(1909)年9月に竣工した。

橋口組は、5工区の大畑・矢嶽間の大築堤を施工している。もともとこのあたりから南側は一帯が草原で、馬の放牧地であった。土取りは容易で、土砂容量が30万㎥(東京ドームの約4分の1)という割に工事は簡単だったようである。しかし高さ31mの大築堤は壮観で、谷間に顕れた山のように見えた。

横平隧道の上を通る工事用列車 横平隧道の上を通る工事用列車クリックすると拡大します

現在も残る大畑駅前の給水塔現在も残る大畑駅前の給水塔クリックすると拡大します

第3、第4工区矢嶽隧道

鹿島が施工する第3、第4工区は、矢嶽隧道(2,096.1m)から矢嶽駅手前までの約3.6kmの区間である。矢嶽駅を出るとすぐ宮崎県に入り、それから矢嶽隧道に入る。隧道全体が片勾配になっており、東口(人吉側)から西口(吉松側)へとずっと下り坂になっている。また、隧道は直線ではなく東口は半径300m、西口は半径400mの曲線になっている。そのほか東口では岩石切取3,000坪余りの工事や深さ10mの竪坑の工事が、西口では延長228.6mの横坑の工事が行われ、通風やズリ搬出に利用することとなった。

明治39(1906)年9月掘削着手。人吉側工区(東口、熊本側)は真田三千蔵が、吉松側工区(西口、鹿児島側)は勝田末吉がそれぞれ代人(現場責任者、所長)を務めた。真田三千蔵は学校を卒業してすぐに京都鉄道(明治32・1899年開通)の現場に配属になったので、この頃は30歳前後であろうか。京都の後は朝鮮半島の京義線の工事を担当している。勝田末吉は中央東線第27工区で現場主任を務め、その後京都鉄道の監督を務めたのちに矢嶽に赴任した。年齢はわからないが、中央東線工事の際にすでに現場主任になっていることから、鹿島では古株だったと思われる。

坑内で雨が降り、魚が泳ぐ東口

東口の地質はすべて凝灰岩で、水分を包含する岩の層は湧水がひどく、掘削当初、坑口から200mほどはほとんど豪雨のようであった。しかしそのような中でも工程は予想外に進捗し、半年で導坑は500mほども掘削したのである。このころ、この東口の排水量の多さに目を付けた役所側が、隧道のそばにある球磨川支流の大河間川の水流を利用して発電所を設置することにした。412mの導水路を建設して発電と排水、点燈、送風にも利用しようとしたのである。水は隧道から出ていき、電力は得られるはずだった。家庭用としても工業用としても電気が珍しかった時代である。

当初東口の排水にポンプ2台を設置したが、それらのポンプだけでは排水能力が追い付かず、明治41(1908)年4月に発電機が故障してしまう。湧水はすぐに坑内に満ち、工事は一時中止、東口の坑内一面水浸しとなり、その中を小魚が泳ぐ奇観が見られたという。小魚が泳いでいたということから考えられるのは、川の水の流入である。東口(人吉側)の坑口近くには大河間川が流れ、隧道はその直下を小さな土被りで斜め横断している。そのため、この横断部から水が出た。期せずして川の下を川沿いに掘削する形になっていたのである。この出水によって逆に発電所は水不足に陥り発電不能になってしまう。このため、水力発電の不足を補う火力発電3基を増設し、排水用ポンプ5台を増設して7台のポンプで排水しながら掘削を進めた。

坑内で馬がおぼれた西口

一方西口でも同じく明治39(1906)年9月27日、坑門口及び横坑口より工事に着手する。当初は地質が良好で、半年ほどは一日平均2.4mのスピードで掘削が進められた。しかし、明治40(1907)年5月から湧水が出始める。一番激しかったのは明治40(1907)年10月の導坑670m付近での出水で、毎秒300リットル(=18㎥/分)近くにもなった。その後1,067m付近、1,280m付近でも湧水は噴水のように吹き出し、坑内は一大河川のようになってしまう。下り勾配40分の1の隧道は、激しい水勢が岩片や砂礫を流し、支保工を破壊するなどし、現場は騒然となった。坑内の排水が最緊急事態であるから、とにかくまずは排水路工事を進める。その後側壁の掘削と畳築工事(=巻立工事)を行うのだが、畳築は掘削からかなり遅れ、貫通の際には拱煉瓦石積みは500m、側壁作業は300mあとを作業していたほどだった。

湧水の激しい箇所は水量が多く、排水できないため、片側に排水溝を作る。湧水は常に上から噴出し、全身が浸水してまるで水中作業をしているかのようである。そのため長時間の労働に耐えられないばかりか、作業もなかなか思い通りにならず、これが工事の障害になった。噴き出す水が最も多い時には1か月全く工事ができないこともあった。湧水が多かった数か月の間は掘削は一日に50~60cmしか進まなかった。

その水量は当時の新記録となった。このころは資材の運搬には馬を利用していたが、ある時その馬のうち1頭が足を滑らせ、坑内の中央排水溝に倒れこんだ。湧水は倒れた馬を超えて流れる。倒れた馬はその水流の速さに飲まれ、起き上がることができない。結局救出することができないまま、馬は溺れ死んでしまったという。この逸話は、矢嶽隧道がいかに湧水量の多い場所かを物語っている。このあたりの地質は岩石に土砂層や火山灰が交ったもので、軟弱で掘削はたびたび困難になった。

薄い空気との闘い

坑口から500m近くも掘り進むと、空気はかなり薄くなってくる。ただ、275m付近に横坑があったため、これで自然換気できた部分もあった。坑外の渓流と坑内の湧水を利用して送風を開始。空気圧搾機を運転するまではこの方法で対応した。明治41(1908)年11月には動力を水力から火力に変えた。その頃導坑は1,220mも掘り進んでおり、毎分5~7㎥の量の送風を行っていたが換気は不十分に感じるようになった。その原因は、それまでは水が自然通風作用によって、坑内の煤煙やガスを洗浄していたからだと思われた。また支保工を省略したため換気を阻害せずに坑内の空気を比較的良好に保つことができた。

明治42(1909)年5月10日、ついに貫通した。貫通地点は西口から1,569m、東口からは418mの地点だった。東口は621日、一日平均85cm、西口は955日、一日平均1.65m。東口から掘り進めた導坑と、西口から掘り進めた導坑のずれは、上下3mあったため、導坑の上断面外掘削を行った。

導坑貫通は、喜ばしいことであったのだが、東口の湧水が奔流となって西口へ流れ出し、西口の下水渠が破壊されてしまう。開業期日が迫っていたため昼夜兼行で復旧した。一方で東口ではあれだけ大変だった排水の必要はなくなった。

資材運搬のための軽便鉄道

大畑も矢嶽も道路から遠く、資材や日用品などの運搬手段は一から考えなければいけなかった。間組では「山中の工事のため材料の運搬に不便をきわめ」、道を作り桟道を架け、牛馬や人が材料を運んだが、鹿島の工区はそれでは間に合わず、山中に専用の軽便鉄道(=工事用軌道)を敷いて資材運搬に対応した。その距離は19kmにも及んだ。しかし、敷設不可能な個所もあり、そういう個所は従来のように牛馬や人間が運ばざるを得なかった。また、人口も少ない場所のため作業員の手配は、常に大問題だった。

掘削で出るズリは、坑門口の付近ではこの軽便線上に馬車を使用して矢嶽駅付近まで搬出したが、それ以上奥のズリは第二竪坑の巻上機を使用した。この巻上設備は当初は手巻きだったが、その後石油発動機に、最終的には電動機に変わっていった。坑内では20台近くの手押し車が行き交い、昼夜の区別なくズリ出しを行っていた。

隧道覆工のための煉瓦は近くの工場で製造したが、それでは足りず、泉州の煉瓦会社から取り寄せたという。石材や木材は付近の山で調達、砂は真幸川の川砂を調達してきた。トンネル上部のアーチ部分は煉瓦積み、側壁は石積みの構造である。

赤い線が軽便鉄道 赤い線が軽便鉄道クリックすると拡大します

苦しむ所長

この工事は湧水をはじめとする難工事だった。しかしそれだけではない所長を悩ませるもう一つの理由があった。

この3、4工区入札の際に鹿島組は金額の高い札と低い札の2枚を用意していた。高い方の札で大丈夫という見通しだったのだが、もし入札できなかったらと考えた勝田は低い方の札を投じて落札。この金額は2番札よりも2割も低い金額だった。そのため難工事に加えて予算不足で苦しむのである。鹿島の経理台帳には、明治43(1910)年の工事損失欄に、鹿児島線26,739円とある。これは鉄道工事では破格の数字である。当時工事損失金が出る工事は少なく、経理台帳には年に1~4件の記載があるが、この前後数年を見ると損失金額は数百円からせいぜい2,000円くらいまでである。明治41(1908)年の韓国の鉄道工事での損失が13,760円とあるのが一番近い数字なので、いかにこの損失金額が大きかったかがわかる。当時鹿島組は匿名組合で資本金は10万円。この年の利益金は98,074円、損失金は28,233円だった。

もともと自分が安い方の札で落札した工事である。うまくいけばぎりぎり収支はとんとんくらいになるかもしれないと考えていたのに、工事は湧水が多く、進捗率ははかばかしくない。勝田は、中途解約をしたほうが会社のためにはいいのではないかと考えてしまう。

星野鏡三郎の説得

この時勝田を説得したのが、鹿島の三部長の一人だった星野鏡三郎である。勝田と真田の京都時代の上司であった。

星野は、明治30(1897)年に鹿島から独立し(独立のいきさつは「こぼれ話」参照)星野組を創立。篠ノ井線などを施工し、京都鉄道線では鹿島岩蔵を助け、この鹿児島線では鹿児島・吉松間の第1工区鹿児島付近を受注していた。明治32(1899)年8月着工、明治33(1900)年7月竣工後、8月から12月までは第6工区、嘉例川付近を施工している。そして、鹿島組が工事の途中で中途解約をしようとしたときに、星野は「ここで工事を投げ出しては、今まで築いてきた鹿島組の信用を失うことになるから絶対にだめだ」と昔の部下であった勝田を説得し、工区を折半して工事に当ったのである。難工事の上に予算不足であったから、竣工しても鹿島も星野も損失はあっても利益はない。しかし、難工事を無事に竣工させ、責任を遂行したことを唯一の誇りとしようではないかと叱咤激励して一緒に工事に当ったのであった。

星野率いる星野組が施工した嘉例川駅は、明治36(1903)年に竣工し、美しい木造平屋切妻づくりのほぼ当時のままの姿を残している。2006年に登録有形文化財に指定されている。

現在の嘉例川駅 現在の嘉例川駅クリックすると拡大します

「矢嶽越え」の実現

矢嶽隧道の竣工によって日本列島は、北は青森から南は鹿児島までが鉄路で結ばれた。
明治42(1909)年11月20日、鹿児島停車場構内で鉄道院主催の開通式が厳かに行われた。

開通式に参列する一行を載せた臨時列車は八代を出発し、沿道の主な駅から参列者総勢500名を載せて進む。その中には貴族院や衆議院の議員、鹿児島出身の新聞記者や通信記者もいた。列車は予定時刻のとおり午後3時50分に鹿児島駅に到着した。沿線の各駅ではプラットフォームで踊りを踊ったり、生徒が整列して万歳を唱えたりして開通を歓迎した。また鹿児島市では至る所に壮麗な歓迎門を作って町中で喜んだ。交通上では永い間離島的であった鹿児島県民の喜びと期待は大きく、天気が快晴だったこともあり、鹿児島市内は喜ぶ人々で近来まれにみる賑わいだった。開通式の祝辞では、帝国鉄道協会の末延副会長が井上勝会長の祝辞を代読した。「矢嶽の険しい山々、球磨川の激流が交通を遮断していたこの地に11年前に鉄道を敷くことを決定し、それ以来苦労に苦労を重ね、財界の風波を凌ぎ、今日の成功を見ることになりました。(中略)今全国の縦貫線路を見ると東は釧路の港より西は鹿児島の浜に至るその里程約2,000哩(=3,200km)がこの数十哩の連絡で開通を遂げています。これからは全国どこへでも鉄道を使って旅行ができます。」

開通式の折の鉄道院鹿児島出張所長伊地知壮熊の報告によると着手から完成まで10年3か月、工程94哩余(150km)停車場16、隧道60、(橋梁については触れられていないが89)、総工費1,582万余円であった。日本銀行の企業物価指数で現在の金額に換算すると26億8,750万円であるが、もちろん単純に金額だけを比較することはできない。土木学会の九州の近代土木遺産のホームページでは、矢岳隧道のことを「当時の技術力からいえば現在の青函トンネルに匹敵する大工事であったと言われている」と紹介している。

矢嶽隧道の坑口にはそれぞれ2m×1mの扁額(へんがく)が掛けられている。東口(人吉側)には着工時の逓信大臣・山縣伊三郎が書いた「天険若夷 明治四十五年五月」、西口(吉松側)には、竣工時の鉄道院総裁・後藤新平の書「引重致遠 明治己酉夏七月題」をみることができる。意味はそれぞれ<てんけんじゃくい。天下の難所を平地のように通ることができる><いんじゅうちえん。重いものや人を遠くへ運ぶことができる。明治42年>

昔の隧道にはこのような扁額はわりによく見られるが、当時の大臣クラスが書いているところにこの矢嶽隧道がいかに難工事であったかを窺い知ることができる。しかし一方で明治30(1897)年に測量を開始してから完成までに12年もかかった工事を批判する社説が明治42(1909)年11月18日付の読売新聞には掲載されている。「鹿児島線開通」という題で「今回開通した鹿児島線の工事、とくにその人吉・吉松間のような本邦鉄道中まれにみる難工事とはいえ、別に技術上の天才を要するほどでもなく、物資の供給困難とはいえ、ロシア人がシベリアの荒野に長々しい鉄道を敷設したのに比べればたいしたことはない。鹿児島線はほとんどシベリア鉄道の竣成期間と同じくらいの時間をかけてようやく開通している。そんな悠長なことでいいのか。フランス人が経営するインドシナ方面の鉄道では至難の工事をフランス人技手が驚くべき手腕で作り上げた。日本人や鉄道当局者もこれを模範とすべきだ」。

蒸気機関車にとって最も過酷なこの山越えを避けるために昭和2(1927)年10月27日、八代・鹿児島間の海岸線が開通してこちらが鹿児島本線となり、人吉・吉松経由のルートは肥薩線と改称された。九州新幹線鹿児島ルートが開通している現在では、博多から鹿児島中央までの256.8kmは、最短1時間17分で結ばれている。

肥薩線には現在、川線と呼ばれる八代・人吉間にSL人吉号が、また山線と呼ばれる人吉・吉松間には扁額に因んだ「いさぶろう・しんぺい号」が走っている。矢嶽隧道を下り、車窓から広がる景色は「日本三大車窓」のひとつである。矢嶽隧道からは、現在でも毎分20tの湧水が噴き出ている。
2015年、文化庁が肥薩線を日本遺産に認定、2017年には日本イコモスが「日本の20世紀遺産20選」に認定している。

東口東口クリックすると拡大します

現在の矢嶽隧道東口現在の矢嶽隧道東口クリックすると拡大します

苔むして草に覆われた東側坑口(部分)苔むして草に覆われた東側坑口(部分)クリックすると拡大します

<参考資料>
大河内甲一「矢嶽隧道」『工学会誌』明治43年7月号
鐡道建設業協会『日本鉄道請負業史 明治篇』(1967)
日本国有鉄道百年史編纂委員会『日本国有鉄道百年史』
木谷日出男『トンネル技術者のための地層入門』(土木工学社 2014)
間組百年史編纂委員会『間組百年史』(1989)
守田久盛、神谷牧夫『九州の鉄道100年』(芳井書店 1989)
「明治42年度鉄道院年報 国有鉄道の部」
『鹿児島県史』

(2018年8月22日公開)

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