第51回 宇治川電気大峯ダム -「ダムの鹿島」のはじめの一歩

大峯ダムは、大正13(1924)年に竣工した日本初のコンクリート高堰堤ダムである。今では誰もがダムがどのようなものかをイメージできるが、この時代、今のような形のダムや大型のダムは世界にもほとんどなかった。土木技術者たちでさえ本物のダムを実際に見たことはなく、自分たちの知識をもとに海外、特にアメリカの論文や雑誌、写真を見て手さぐりで作り上げた。ダムをコンクリートだけで作って大丈夫なのかと思われた時代の話である。

大峯ダム大峯ダムクリックすると拡大します

ダム創世記

その昔、「ダム」は堰堤(えんてい)と呼ばれ、土堰堤(アースダム)、石積みダム(メイソンリーダム)がほとんどで、高さ(堤高)もそれほど高いものではなかった。発注者や設計者は地元の自治体で、施工は直轄施工が多かった。

土堰堤の代表格には大阪府の狭山池がある。古事記などにも記載があり、西暦616年ごろの施工と推察されている日本最古のダム形式のため池である。灌漑用のため池のほとんどは、この形式で作られている。また、飲用水などを貯める上水用アースダムには長崎市の本河内高部ダム(1891年)がある。土石を用い、人力で敷き均し、杵や石、コンクリートローラなどで締固めを行って作られた。この「土」が「石」に変わりロックフィルダムが作られるようになるのは1950年代後半以降である。

一方、石積みダムとは、ダム本体の表面を石で覆い、内部にコンクリートを流し込むもので、明治33(1900)年に竣工した布引五本松ダム(兵庫県)に始まり、日本全体で70体ほどの現存が確認されている。飲用水、発電、農業用水、工業用水などの用途で作られ、現在も使われているダムが多い。その石積みの美しさから、文化財指定を受けているダムもある。1900年代の初めは、コンクリートの耐久性や骨材研究は途上にあり、未発達であった。そのため表面を型枠のように石積みにして目地をモルタルでふさぎ、内部に粗石とコンクリートやモルタルを詰める必要があったのである。

ダムは、このように初期には灌漑や飲用を主な目的として作られた。発電を目的としたダムは、明治中頃から作られる。当時、発電の使用目的は電燈=明かりである。送電技術は未熟で、発電所の周囲8km程度までしか電気を送ることができなかった。そのため各地に電力会社が生まれ、町中に火力発電所が作られる。明治16(1883)年の東京電灯の発足後、5年の間に名古屋電灯、神戸電灯、大阪電灯、京都電灯といった都市部の電灯会社が設立された。一方で水力を使った発電所は、紡績業や鉱山業などを行う企業が、その動力源として作る場合が多かった。初期の水力発電では、開削、隧道等の水路を利用してその落差で発電機を回し、電気を作った。

空から見た狭山池空から見た狭山池クリックすると拡大します

狭山池の土堰堤は現在はこのように整備されている狭山池の土堰堤は現在はこのように整備されているクリックすると拡大します

布引五本松ダム(©hiace@damsuki.com)布引五本松ダム(©hiace@damsuki.com)クリックすると拡大します

宇治川電気株式会社

明治42(1909)年6月、鹿島は宇治川電気から隧道及び開渠の工事を受注する。「これは鹿島組の社史において、二つの意味を持っている」と『鹿島建設百三十年史』(1968年)にある。一つは水力発電工事への進出、もうひとつは関西地区の常設事務所の設置である。大名屋敷、洋館建築と大工としての道を進んでいた鹿島は、明治13(1880)年から鉄道請負業に邁進していた。しかし、明治末期になると全国の鉄道網の方向性が定まったことで、その整備も先が見えて来ていた。新たな分野での活躍を模索していたところで見出したのが水力発電工事であった。また、関東の請負業者が関西で工事をすることはなかなか難しく、そういう意味でも画期的な工事であった。

宇治川電気は、琵琶湖から流出する水を利用して電気を作り、近畿地方に供給し、産業の発展と一般文化に寄与することを目的に明治39(1906)年10月25日に設立された。明治40(1907)年1月、水路測量開始。積雪が多く、人家も人影も少ない。加えて、以前の予定線測量の際、外国人らが山の木を伐採して暖を取るために使い、勝手に山寺に泊まり込んで、鶏を炊いて食した。このこともあって「測量隊」の評判は悪く、立ち入り禁止を言い渡された。用地買収係は、縞の着物、紺の股引、草履履き姿で竹皮に入れた弁当の風呂敷包みを首にかけ、かまどの前に座り込んで主人と差し向かい、話を持ち掛けた。1年近くかけて工事施工許可を得る。

第一期工事 隧道と開渠

宇治川電気の第一期工事は長大水路隧道工事である。瀬田川洗堰上流364mを取水口に、第一制水門、第一開渠、そこから袴越山を一直線に貫通する第一隧道に始まり、第十二号開渠、第十二号隧道、そのほか発電所、変電所、材料運搬まで46件、周辺関連工事も含めると244件の工事に大小50以上の建設業者がかかわる。

鹿島は水路中最長の第七号隧道(3,015m)西口工区、第八号開渠、隧道、第九号開渠一部、志津川谷水路付替他雑工事など12件を施工。隧道と開渠の工事は鹿島の鉄道工事での経験を十分に活かすことができるものであった。宇治川電気の『第一期水力電氣事業沿革史』には8社が記載されているが、鹿島を含む4社、大倉組(現・大成建設。宇治発電所建設工事等)、大林組(野江変電所建築工事)、増田組(第二剰水路、道路新設工事等)が現存している。

明治41(1908)年12月15日工事開始。掘削はほぼ手掘りだった。導水路隧道全長1万878m。開渠、暗渠を含む隧道工事は12分割。第一号水路(暗渠158m、隧道2,468m)、第七号水路(暗渠7m、隧道3,016m)では、土木技師らがヨーロッパで工場や現場を視察して購入したドイツのマイヤー製圧搾空気削岩機、シュラムやインガーソルランドの軽量削岩機を使用。動力源には蒸気駆動や電気駆動エアーコンプレッサを使い、火薬は国産品(1906年製造開始)やイギリス製ダイナマイトが用いられた。レール走行手押しトロでズリ出しを行い、掘削速度は日平均1.4~2.2m、月間最大122m。坑内換気には電気駆動のブロワーとファンを使用し、湧水には多数の排水ポンプを導入、明治43(1910)年11月には坑内照明に電灯を使用、カンテラと併用した。隧道の覆工はアーチ部が煉瓦巻、側壁部がコンクリートブロック、インバート部が場所打ちコンクリートだった。これらほぼすべてが日本初の試みである。大正2(1913)年5月に完成する。

第二期工事 大峯ダム

大峯ダムはこの第一期工事完成の数年前に計画された。今では高さ100尺(31m)のダムは、大した規模ではないと言えるかもしれない。しかし大峯ダムは、内務省が水利権を与えてから実施認可までに10年かかっている。当時はダムといってもわかる人は少なかった。宇治川電気の技師長永井専三(のちの取締役)は、いつでも説明できるように、内務省技師・金森鍬太郎(工学博士)のもとで連日待機し、ダムのスケッチ画を持って役所の中を説明して回った。宇治川に造って壊れたらどうするのだ、伏見や大阪へどういう影響を及ぼすのか。たくさんの反対の声の中でダムというものをはじめて作るのである。他に類のない高堰堤であり、下流には大阪までずっと町が広がっている。役所の許可に時間がかかったのは、ダムという巨大構造物がどういうものなのかをよくわかっていなかったことに加え、地元の反対が大きかったことにある。

二期工事の計画は、大正元(1912)年8月31日付で京都府・滋賀県知事に事業申請を提出するが、下流沿岸民に不安が広がり、反対同盟がいくつも組織される。生命財産保護の観点から堰堤工事に反対する1,614名の署名が、大正4(1915)年に貴族院・衆議院両院に提出された。しかし産業の発展に伴う電力需要増加により、京都府が工事を十分監督することを条件に反対派は折れる。大正8(1919)年1月28日、許可が下りた。

ダム技術のパイオニア・石井穎一郎

石井穎一郎(いしいえいいちろう)は、明治44(1911)年に東京帝国大学土木工学科を卒業後、横浜市水道局など各地で本人曰く「水道の池」を作っていた。大阪の逓信省西部通信局水力課長をしていた大正3(1914)年、「ダムをやらないか」と誘われる。ぜひ「本物のダム」を作りたいと考え、宇治川電気土木部第一課長になった。当時、永井でさえ本物のダムを見たことがなかった。石井も「当時は水道用の貯水ダムとかメイソンリーダムは見たことはありますが、いわゆる近代的なコンクリートのダムは見たこともないので、何とかしてやってみたいと思いました」という状態だった。そこから日本初の高堰堤のダムを作るための試行錯誤が始まる。

石井らが学生時代に教わったダムの設計は、ウェグマン・メソッドで、ダムの上流から水が圧している力だけに対して重力で持たせるものだった。つまり下からダムを持ち上げる浮力は考慮されていなかったのである。日本におけるダム設計法の基礎は、大正14(1925)年に物部長穂(内務省土木試験局長)が『土木学会誌第11巻5号』に発表した「貯水池揚重力堰堤の物性並に其の合理的設計方法」によって確立されたといわれる。この物部の論文によると、当時まだ揚圧力はアメリカのダムでは考えられていなかった。また、堆泥圧はフランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、アメリカでは考慮されていなかった。しかし、日本ではすでにこの当時、これらに加えて地震力まで考慮されていたのである。大峯ダムは、物部の論文が出る5年前、大正9(1920)年に着工している。石井らはクリーガー(Krieger)のダムの本を読んで、それ一冊を頼りにして揚圧力計算をしてダムの設計を行った。設計荷重として自重、静水圧、揚圧力に加えて堆泥圧も考慮されていた。

一期工事の信用が日本初の高堰堤コンクリートダム施工へ

大峯ダムと、導水トンネル(直径約6m、延長5,091m)が、宇治川電気第二期工事であった。京都府久世郡槇島飛地の宇治川橋上流に発電用コンクリート高堰堤として日本初となるダムを作る。堤高31.21m、堤頂長91.3m、コンクリート量39,825m3の曲線越流型コンクリート重力式ダムはこれも日本初となる3m×6mの排水用ラジアルゲート9門を備えていた。

施工は、第一期から施工に携わっていた永井が「鹿島組と沢井組が、一番信用がある。鹿島組にダムを、沢井組に発電所をやらせよう」といった。その一言で鹿島のダム施工が決まった。隧道も入札はせずに、鹿島と沢井の2社に半分ずつ分けて見積らせて随意契約とした。石井穎一郎は後に鹿島で講演をした際に「これをあなた方にはぜひお話ししたい。鹿島さんは、第一期工事で大変信用があったということが、第二期工事で、日本で初めての近代式コンクリートダムをやる好運を掴んだんです」と述べている。

しかし『鹿島建設百三十年史』によると、工事の見積は大正9(1920)年4月初旬に、4社の指名競争入札により鹿島が落札。運搬道路工事の契約のみで第二期本体工事は同年12月に鹿島など7社が再度見積を求められたため、鹿島は背信行為であると宇治川電気に厳重に談判。さまざまな折衝の末、大正10(1921)年1月末にようやく契約となったとある。技術者側の思惑と、会社側の考え方の相違があったのかもしれない。ただ、社史に詳述されている内容の出典は今回見つけることができなかった。

「ダムの鹿島」のはじめの一歩

そういうわけで、本契約まで時間がかかったが、実際は大正8(1919)年頃に着工していたようである。大正9(1920)年7月着工と宇治川電気の資料には書かれている。鹿島組の事務所は、第一期工事から平等院の近くにあった。所長は、日吉於莵一郎。非常に正直な人だったと後に石井が述べている。

当社に残る一番古い社員名簿(1919年)によると、日吉は長野県の小海出張所長と奈良県の生駒出張所長を兼務している。小海には大正8(1919)年に佐久鉄道が開通しているので、この鉄道工事の現場だったのかもしれない。生駒は、生駒鋼索線(生駒ケーブル)という日本初の営業用ケーブルカーの現場で、大正6(1917)年春に新卒の社員が赴任した時には、日吉のほか、太田金之助、萩原三郎が赴任していた。鹿島が株式会社になった昭和5(1930)年、日吉は初代監査役に就任している。

鹿島の大峯ダムの現場では、この日吉の下に会計(=経理)の太田金之助がいた。後に初代大阪出張所長になる人物である。たいへん温厚な人物であったといわれる。明治26(1893)年8月、11歳で店童(見習い)として鹿島組本店に入社、明治35(1902)年7月工手学校(現・工学院大学)を卒業し、土木技術者として活躍していた。初期の段階から関西地区の工事の折衝を一手に引き受けて活躍する。

そして、実際に現場を取り仕切っていたのが萩原三郎である。石井は、萩原のことを次のように述べている。「萩原三郎君は、実にいい人だった。このダムの会社側主任は西岡利八君で、請負側の主任は萩原君でした。非常に忠実な人で、今でも萩原君を高く評価している次第です。私は宇治川に住んでいたのですが、戦後食うに困っていた私の昔の部下を救ってくれたのも萩原君なんです。萩原君は、亡くなる一年ほど前に私の家を訪ねてくれました。『宇治川では随分石井さんにやかましいことを言われたが、一生のうちで一番良い仕事をしたのは宇治川の仕事だった』と言ったのを私は忘れません。私はもし鹿島組が日本で近代的なダムを一番初めにやったんだということをなんかの記録に書かれるならば、萩原君の功績をぜひ書いておいてもらいたいと思うのです」。

ダム創世記のダム建設① 日本初のラジアルゲート

着工は徐々に延び、大正8(1919)年頃から開始される。しかし永井がアメリカにダムを見に行くことになり、「留守中には締切りでもやっておけ」と言って出掛けてしまう。

大峯ダムは、曲線越流型コンクリート重力式ダムである。当時ダム上部を越流する越流方式は危険だと思われた。下流のエプロンがどれほど掘られるかが分らない。その頃はサイド・スピルウェイという横に越流部がある形が多かった。アメリカ各地のダムを視察した永井によると、エレファント・ビュッテ(Elephant Butte)ダム、ルーズベルト(Roosevelt)ダム、アローロック(Arrowrock)ダムすべてサイド・スピルウェイだという。ダムの上から水を越流して、下のエプロン(クッション)がどうなるかは分らない。模型では大丈夫でも、万一失敗したらという不安の中で、越流型のダム頂部にテンターゲート9門を並べることを決める。現在ではラジアルゲートと呼ばれる洪水吐きのことである。戸溝がないため流出特性がよく、負圧の発生に起因する洗掘現象は起きないはずだと考え、石井らは、永井がアメリカから持ってきたノースカロライナ州チェオア(Cheoa)ダムのゲートの図面を手本にして大峯ダムの設計図面を作った。後にこの図面をもとに大井ダムの21門のゲートが作られている。

施工中のラジアルゲート施工中のラジアルゲートクリックすると拡大します

施工中上流側から見たラジアルゲート施工中上流側から見たラジアルゲートクリックすると拡大します

ダム創世記のダム建設② 世界初の排砂用シリンダーゲート

永井らはさらに、ラジアルゲートだけでは琵琶湖の洪水が吐ききれなくなることを案じ、左岸にストーニー式の大きなバーチカル・ゲートを2つはめた。径間7.31mの排水門塔とあわせ1,390m3/秒の排水を行うことができる。「なぜあんな場所にバーチカル・ゲート?と言われるかもしれないが、初めての経験ばかりの中で大事を取った」と石井は後に述べている。また、宇治川上流の大戸川から大量に運ばれる流砂排出のため、シリンダーゲートも設置した。永井がアメリカの水門の権威タイヒマン(Teichman)に設計と製作監督を依頼。ダムに用いたのは世界初で、ボールダー(Bouler)ダム(後のフーバーHooberダム)のシリンダーゲートより十数年前に作られている。

右端がバーチカル・ゲート(施工中)右端がバーチカル・ゲート(施工中)クリックすると拡大します

右端がバーチカル・ゲート(竣工後)右端がバーチカル・ゲート(竣工後)クリックすると拡大します

ダム創世記のダム建設③ 掘削したズリから骨材を

大正9(1920)年9月、本体施工が始まる。
大峯ダムでは、掘削されたズリの大きいものを、ブレーキクラッシャにかけて骨材不足を補った。ズリから骨材を作ったのは初めてのこと。ズリは硬砂岩ばかりであった。砂は木津川から採取し、鉄道で宇治まで運ぶ。材料やコンクリートの運搬にはトロッコが使用され、牽引にはアメリカから持ってきた2台のボードウィン製の電気機関車が使われた。宇治川に沿ってセメントと砂をダムサイトまで引き揚げる。日本で電気機関車を鉱山以外で使用した最初の事例である。2台では足りず、後に神戸製鋼所に製作を依頼。同社は試行錯誤の後ようやく使用に足るものを納品したが、石井は「鉄道の電化により神戸製鋼所でも電気機関車を作ったがその元は大峯ダムだと思う」と述べている。

ズリ積用ローダーズリ積用ローダークリックすると拡大します

削岩機削岩機クリックすると拡大します

ダム創世記のダム建設④ 超固練りコンクリート

大峯ダム施工中に、石井の恩師で東京帝国大学名誉教授の中島鋭治博士が見学に訪れた。中島は学生たちから「ダムさん」と呼ばれ、親しまれていた近代水道の父である。中島は案内していた石井にこっそりと「このダムはコンクリートばかりだが、フェーシングに石を張らなくていいのか」と聞いたという。つまり、コンクリートはだんだん表面が削られてしまうが、石だったら万全なんだという思想を、当時日本のダムの第一人者の彼ですら持っており、コンクリートだけで作るダムを不安視していたのである。

コンクリートはダムの下流にミキサーを据え、そこからナベトロ(積載用鍋を搭載したトロッコ)で運んだ。当時アメリカではダムにはウエットコンクリートが流行していたが、大峯ダムのコンクリートは永井がセメント、砂、砂利を1:3:5の配合にして固く打てという。キューブ・ミキサーを使ったが日本製のミキサーはセメントがくっついてなかなか出ない。ナベトロも、作業員が丸太で叩いてコンクリートを掻き出したため徐々に変形してしまう。コンクリートを固く打つのに永井がアメリカから買ってきたサンド・ランマーを使ったが、砂利がぽんぽん飛ぶので作業員が使いたがらない。石井は昔讃岐地方で「千本搗き(つき)」で土堰堤を施工するのを見学したことがあった。それと同じように、丸太棒を持った作業員を並ばせ、丸太で搗きながら歩かせた。当時まだクラックの原因ははっきり分っておらず、コンクリートが熱を持って、堤体内外の温度差でクラックが入るのがわかったのはだいぶ経ってからのことである。大峯ダムのドライ・コンクリートは実によくできたのである。

石井は、請負人(施工会社)にはやかましいことばかり言っていたという。工事は昼間だけでは間に合わず、夜も行った。発注者側にも施工者側にもしっかりした者がいないと作業員が働いてくれない。「俺がいない時は萩原君がいろ」と「萩原君が帰りたいのを無理に命じて夜中ずっと置いたもんです。萩原君は実によくやってくれた。宇治川の会社の監督員もみな非常によくやってくれたが、萩原君には実際私は感謝しているのです」という。

大正13(1924)年3月に大峯ダムは竣工した。28,000kWの電力が新たに生まれる。昭和13(1938)年4月、電力管理法が施行され、電力は国家の管理のもとに置かれた。宇治川電気は、昭和17(1942)年3月末に解散した。

キューブ・ミキサーキューブ・ミキサークリックすると拡大します

施工中の大峯ダム施工中の大峯ダムクリックすると拡大します

大峯ダム水没の情報を聞いて

工学博士・石井穎一郎は昭和32(1957)年2月22日に鹿島で、「日本最初のコンクリート高堰堤工事の思い出」という演題の講演を行った。この講演では、現在の土木用語ではなく用語や機械が英語のままであることが多く、日本語としての単語がまだできていなかったことがわかる。

石井は昭和31(1956)年に藍綬褒章を受章しているが、同じ時に黄綬褒章を受章した鹿島の副社長・渡辺喜三郎と歓談した。「お互いに随分苦しんだ仲なんだが、日吉君も早く死んでかわいそうだった。今、達者だったら鹿島の副社長ぐらいになっているんじゃないか」。その時、鹿島へ行って大峯ダムの話をしようかと思いついたという。

また、大峯ダムの下流に大きなダムを作って、水没してしまうと聞いたことも講演をすることになったもう一つの理由だった。大峯ダムの下へ新しいダムを造って二段にするのではなく、大峯ダムを水没させるという話は、石井が建設省で直接話を聞いたわけではない。しかし、永井の下で石井は大勢の部下と現場で企画設計施工すべて行った。石井としては忘れようとしても、忘れられないダムだと言える。「水没するにあたり、建設省から設計者など関係者に話が一つもない。もしもイギリスでこういうことがあったら、世論が許さぬと思っている。エジプトのアスワンダムはイギリスが明治初年に造ったものだが、もしもあのアスワンダムの下へもう一つダムを造って水没する。別の国がそれを施工するという事があったら、イギリスの世論は決して黙っていないであろう。そのくらいに思っている」。

石井は大峯ダムの完成と共に日本電力に移った。昭和8(1933)年7月にはストックホルムで開催の第1回国際大会堰堤会議(現・国際大ダム会議)に日本代表として出席し「重力ダムの内部温度と変形の及ぼす影響」という論文を発表している。忙しい中で、大峯ダムの記録をすべてまとめ、永井に提出。永井は大切に保管し、土木学会へ出そうか、宇治川電気で本を作ろうか考えながら延び延びになり、戦災で原稿を焼失してしまう。永井はのちのちまで惜しいことをしたと嘆いた。宇治川電気第一期工事の詳細な記録はあるが、第二期工事の記録は何も残っていない。第二期工事にかかわった人の記憶にとどまっているのみである。

大峯ダムを水没させて作られた天ヶ瀬ダムは、堤高73m、堤長254m、堤体積164,000m3のアーチ式コンクリートダムで、施工大林組。昭和32(1957)年建設事業に着手、昭和36(1961)年ダム本体の掘削に入り、翌年には大峯ダム・志津川発電所が廃止された。昭和39(1964)年に竣工し、今も使われている。

石井穎一郎(右から2人目)昭和5年撮影石井穎一郎(右から2人目)昭和5年撮影クリックすると拡大します

<参考資料>
永井専三「宇治川電気株式会社第一期水路工事について」『土木学会誌第2巻第5号』(1916年)
宇治川電気『第一期水力電氣事業沿革志』(1916年)
物部長穂「貯水池揚重力堰堤の物性並に其の合理的設計方法」『土木学会誌第11巻5号』(1925年)
日本動力協会『日本の発電所(中部日本篇)』(1937年)
林安繁『宇治電之回顧』(1942年)
鹿島建設『工学博士石井穎一郎氏講演 日本最初のコンクリート高堰堤工事の思い出』(1957年)
関西電力株式会社10年史編集委員会『関西電力の10年』(1961年)
土木学会日本土木史編集委員会『日本土木史/大正元年~昭和15年』(1965年)
鹿島建設社史編纂委員会『鹿島建設百三十年史 上』(1968年)
日本建設機械化協会ほか内海清温先生追想録刊行会『内海清温』(1985年)
電力土木技術協会水力技術百年史編纂委員会『水力技術百年史』(1992年)
豊田高司編『にっぽんダム物語』(2006年)
笠井芳夫、長瀧重義『日本のコンクリート技術を支えた100人』(2009年)
宇治市歴史資料館『宇治電――水力の時代へ』(2014年)
川崎秀明『日本のダム美』(2018年)

(2019年12月27日公開)

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