第52回 渋沢栄一と鹿島岩蔵

「実業家」という言葉を作った実業家・渋沢栄一は、その生涯で500以上の事業に関係したと言われる。建設業界で彼と密接な繋がりがあったのは清水建設で、渋沢は清水建設の経営にも深くかかわっていた。また大成建設の祖・大倉喜八郎らとは日本土木会社を創立している。しかし、あまり知られていないが鹿島岩蔵と渋沢栄一もまた深いつながりがあったのである。

役人から商人へ

渋沢栄一(1840-1931)は、天保11(1840)年、鹿島岩吉が江戸中橋正木町で町方大工として創業したのと同じ年に埼玉県深谷市に生まれた。生家は豪農で、米や麦、野菜などの農業生産、藍玉の製造販売、養蚕も行っていた。栄一は14歳頃からは一人で仕入れに出かける。一方で5歳頃から父に読書の手ほどきを受け、7歳から従兄の元で「四書五経」や「日本外史」を学んだ。剣術は神道無念流を学ぶ。文久3(1863)年には尊王攘夷論に共鳴。高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが中止して京都に出る。そこで一橋慶喜に仕えることになる。慶応3(1867)年にはパリ万博の使節団の一員として、慶喜の弟徳川昭武の随員となって渡仏、一年半の間ヨーロッパ諸国を回り、帰国。静岡藩に仕官し、明治2(1869)年日本初の株式会社「商法会所」を設立、翌年明治政府の民部省租税正、翌年には富岡製糸場設置主任、明治4(1871)年紙幣頭、翌年大蔵少輔事務取扱。この年、抄紙会社の設立志願も行っている。明治6(1873)年には大蔵省を辞任する。「今日の商人ではとうてい日本の商工業を改良進歩させることは成し能わぬであろう、ついてはこのさい自分は官途を退いて一番身を商業に委ね、およばずながらも率先してこの不振の商権を作興し、日本将来の商業に一大進歩を与えよう」(『雨夜譚』)と立ち上がったのだった。

4代60年のつきあい

清水建設は1804年、越中富山の大工初代清水喜助(1783-1859)が神田鍛冶町で開業したことに始まる。日光東照宮の修理工事、江戸城西丸の造営に携わり、安政6(1859)年には横浜に出て外国奉行所などの建設を請け負ったが初代が没し、娘婿の藤沢清七(二代清水喜助1815-1881)が店主となる。彼は1855年の安政大地震で全壊した三井家の江戸の守護神・向島三囲(むこうじまみめぐり)神社内社殿の造営を文久3(1863)年に行う。清水はここで三井家とのつながりを深くし、日本初の外国人専用の宿泊施設・築地ホテル館(1868年)、三井組ハウス(1872年。設計施工。後の第一国立銀行)、為替バンク三井組(1874年)などの工事を請け負う。渋沢栄一との知遇はこの二代清水喜助の時代の三井家とのつながりから始まった。

鹿島が鉄道請負に進出した翌年の明治14(1881)年、二代喜助が没し、養嗣子清水満之助(1852-1887)が三代店主となる。彼は経営手腕に特出した人物で、土木への進出をはじめさまざまな改革を行った。また、西洋建築を学ぶため技師長坂本復経(またつね1855-1888)を伴い、欧米視察に出ることを決意。渋沢に相談するが、店主が長期間留守をすることはよくない、大金を使うことも無駄であると反対される。満之助は再度渋沢に懇願した後、強行する。明治19(1886)年8月、米、英、仏、独を回って翌年4月に帰国。視察報告で、渋沢に事業が思わしくないことを嘆き、忠告を聞いて日本に留まっていた方がよかったと悔いた。強いカルチャーショックを受けていた満之助に、渋沢は他人の宝を見て羨むのではなく効果が出るように頑張れと強く激励する。しかし満之助は、帰国後わずか半月で急逝。まだ34歳だった。手帳に「あとのことは渋沢さんに頼め」という意味のことを書いていた。

渋沢は「それまでは単に一通りの交際をしていたというに過ぎなかったが、(中略) 深く感ずる処があって家業の相談に乗ることになった。」(『清水建設百五十年』p65)渋沢は、誰にでも言うような訓戒だったとしても、余計な言葉で人を刺激してしまったことを後悔し、責任を感じていた。そういった事情もあり、8歳の長男・喜三郎(1880-1929)が四代満之助を襲名した際に清水店の相談役となる。多忙をやりくりして決算書に目を通し、例会に出席し、社員たちに訓話を行った。渋沢は、自らの屋敷の数々を発注し、そのほか「直接関係工事」は第一国立銀行などの銀行建築、商店事務所建築、学校建築その他かなりの数にのぼる。5代目の清水釘吉(ていきち1867-1948)は「行き詰らんとしていた清水組は子爵のおかげで再建するに至ったのである」と書き残している。

抄紙会社工場の施工

一方で、渋沢栄一は鹿島といつごろからどのようなかかわりを持ってきたのだろうか。

「岩蔵は、清水がそうであったように渋沢栄一との関係をずっと保ち、彼を補けたりもしたが、その関係は王子の抄紙会社から始まったようだ」(『建設業を興した人びと』p41)

鹿島岩吉は、棟梁として大名屋敷の出入り大工から西洋館建築へと変化し、手広く大工仕事を請け負っていた。中でも岩吉・岩蔵親子がこの時代に建設した最大のものが明治7(1874)年の抄紙会社工場である。初めての煉瓦造の工事であった。渋沢栄一は慶応3(1867)年に徳川昭武に随行して渡欧した際に洋紙製造の必要性と将来性に着目して、帰国した後に抄紙会社の設立を出願した。

鹿島岩蔵は、この抄紙会社工場の場所の選定からかかわっていた。当時渋沢栄一の秘書のような役を果たしていた山東直砥(さんとうなおと1840-1904)と一緒に東京近郊の土地の選定を行い、候補地を探し回り、渋沢に報告した。山東直砥は内務省の官吏から神奈川県参事となった人物で、神奈川県の定式請負人3人のうち1人だった岩蔵とは旧知の仲だった。その山東の渋沢宛の手紙(明治6年8月2日付)には、「早稲田の尾張徳川家の屋敷のあたりは水源もいいようです。詳細は昨日鹿島岩蔵から申し上げておりますとおりです。ご多忙中恐縮ですが」とある。渋沢が望んだのは、(1)製紙に必要なきれいな水 (2)平らな土地 (3)原料、製品、機械の輸送の利便性 (4)情報発信力の強い東京近郊 というものだった。工場は、最終的に王子に建設することに決まる。

「鹿島岩蔵と渋沢栄一の固い結びつきは、ここから生まれた。渋沢が其談話の中で鹿島をきわめて高く評価しているのもこのような理由によるものであった。」(『鹿島建設百三十年史』p62)

ウォルシュ兄弟との出会い

亜米一(あめいち)と呼ばれたウォルシュホール商会横浜店の施工を鹿島が請負ったのは、安政6(1859)年のことである。鹿島岩吉は「気に入らぬと損をしても遣り直す」(『横浜開港五十年史』p97)性格で、それ以来岩吉・岩蔵父子はウォルシュ兄弟に贔屓にされていた。この抄紙会社工場の施工もウォルシュの推薦によるものだった。

抄紙会社工場について「建築工事に着手したのは明治七年九月で横浜の鹿島方が請負うことになっていた。これは鹿島岩蔵という人がやっていた請負業者で、非常に勉強する建築屋であった。この人は後になって会社(注:王子製紙)の重役の一人に選任せられ、直接その経営の任に当たった。(中略)工事の労働は鹿島組がやるが、技師のチースメンが指揮をした。」(『王子製紙社史第一巻』)東京付近では初めての本式の煉瓦造西洋建築で、毎日大勢の人が弁当持参で見物に来たという。

渋沢栄一も「王子製紙株式会社回顧談」の中で、「建築工事は鹿島組が請負うことになった。これは鹿島岩蔵という人がやっていた請負業者で、非常に勉強する一派で、今の清水組なぞは未だ今日の如き組織ではなかった。(中略)請負建築ということについても抄紙会社なぞは殆ど頭初の試みであったと云ってよい。偖(さ)て大概の仕事は鹿島組がやる(後略)」と書き残している。(紙の博物館『百万塔(臨時増刊)』)

渋沢栄一が第一国立銀行の頭取になったのは、明治8(1875)年のことである。鹿島岩蔵は、父・鹿島岩吉名義の株を持っていた。第一国立銀行は明治6(1873)年に創設されているが、その後渋沢に説得されて株主となったと思われる。5株500円の出資者として115名の株主の一人に名を連ねているのを明治9(1876)年の第7回株主集会の記録に見ることができる。「鹿島は株主中唯一の請負業者であった。だから単に、渋沢への義理だけで株を買ったとは考えられない。やはり将来の日本経済の発展への夢があったのだろうか。岩蔵には単なる経営者ではなく、そうした夢想家のような一面があった。」(『鹿島建設の歩み 人が事業であった頃』p65)

抄紙会社工場抄紙会社工場クリックすると拡大します

抄紙会社証文抄紙会社証文クリックすると拡大します

星野兄弟との出会い

のちに渋沢の片腕の一人となるのが星野錫(ほしのしゃく1854-1938)である。明治期に「鹿島の三部長」として名を馳せた星野鏡三郎(1859-1932)の長兄であった。ふたりは姫路藩主酒井雅樂頭の江戸屋敷に生まれた。ともに藩の学問所で学ぶ。父星野乾八(1820-1881)は藩の外交を掌る御側御用人で、最後まで進退を徳川家と共にした藩主についてまわり、最終的には静岡に藩主を送り届けた後、浪人となり旅に出てしまう。妻と5人の息子は極貧の中、何度か居候の後日暮里の長屋で暮らす。次男は上野の学生院へ、下の2人は他家に養子に出される。鏡三郎は浅草の瓦屋に預けられた。鹿島岩吉は、その瓦屋の親戚で、時折訪れていた。そこで利発な鏡三郎を見出し、明治3(1870)年、12歳の時から「店童」として手元に置き、かわいがった。明治7(1874)年、16歳で鹿島組の倉庫番となり、頭角を現していく。

錫は明治6(1873)年、彼の才能を愛した鹿島岩吉の紹介で景諦社(けいていしゃ)の印刷工となる。横浜の境町1丁目にあった鹿島岩蔵の家から通う。景諦社は横浜の活版印刷の会社で、先駆的な製本・印刷事業に取り組んでいた。横浜で地歩を固めていた鹿島岩吉は、景諦社の社長・陽基二(ようそのじ/みなみきじ1838-1906)と懇意だった。錫が入社した翌年の明治7(1874)年3月、景諦社は抄紙会社に譲渡。抄紙会社横浜分社となる。星野錫は同社東京工場に転勤。岩蔵の紹介で抄紙会社社長であった渋沢と面識を得た。明治20(1887)年には2年間のアメリカ留学。写真版印刷を日本人で初めて取得し、帰国する。その後渋沢の関係する印刷諸会社の経営に当たり、渋沢の私設秘書となり、腹心となっていく。明治29(1896)年には、王子製紙の深川工場と横浜工場を譲り受けて東京印刷株式会社を設立、星野錫は社長となり、鹿島岩蔵は監査役を務めた。この会社では明治33(1900)年には満州日日新聞を発刊し、他にも日露戦史写真集や絵葉書の印刷をしている。星野は小渋沢とまで言われる印刷業界の大御所となってからも、鹿島への恩を忘れなかったという。

王子製紙とのその後

工場の施工後も、岩蔵は渋沢と王子製紙に深くかかわっていた。天竜川の治水事業を続けた社会事業家・金原明善(1832-1923)とは、東海道線の浜松付近の工事の時に意気投合し、天竜川木材、天竜運輸などの明善の事業に加担し、交流を続けた。岩蔵は、金原が上京した折には毎回自宅に泊めた。明善記念館(浜松市)には、岩蔵が明善・明徳父子に出した手紙が数多く残されている、その中で、王子製紙が木材パルプの山林を探すのを手伝っていることなどが書かれており、金原明善と王子製紙との間に入っていろいろ調整をしていたことがわかる。

抄紙会社は、明治9(1876)年「製紙会社」と改称、明治26(1893)年に「王子製紙株式会社」へと改称した。明治32(1899)年、王子製紙専務取締役の藤山雷太は渋沢栄一ら王子製紙の役員を総辞職させ、役員を一新。鹿島岩蔵は、監査役となる。その後、明治36(1903)年から亡くなる明治45(1912)年まで取締役を務めている。

岩蔵から明善にあてた書状岩蔵から明善にあてた書状クリックすると拡大します

朝鮮半島初の鉄道

日清戦争(1894-1895)は、朝鮮半島を今まで通り自国の属国としたい清国と、ロシア南下の防波堤として勢力下に置きたい日本との戦いであった。圧勝した日本は列強の仲間入りを果たす。明治28(1895)年4月、日清講和条約により朝鮮は独立国と認められる。一方で朝鮮半島の利権を狙っていたのが、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアであった。

日本は、明治27(1894)年に朝鮮政府と暫定合同条款を結び鉄道敷設権を得ていた。しかし明治29(1896)年3月、仁川在住のアメリカ人鉱業家モールスが、朝鮮王朝の宮中御用金20万円を内々に用立てて敷設権を得、明治30(1897)年2月に京城(現・ソウル)と仁川間の鉄道工事を開始する。1年以内の起工と起工から3年以内の竣工が条件だった。けれど資金調達が難航したため、モールスは日本に敷設権を譲渡する。引き続き施工者として自分が事業にかかわることが条件だった。

日本側はこれを受けて明治31(1898)年5月に京仁鉄道引受組合を作る。渋沢栄一、岩崎久弥、大倉喜八郎、安田善次郎ら当時の財界人が名を連ねていた。組合側は5万ドル(=約1億6千万円)の手付を渡すが、その後モールスは何度も設計変更による増額要求を続けた。工事は進まず、モールスはすべての権利を京仁鉄道引受組合に譲渡。明治31(1898)年10月のことだった。組合は翌年5月、京仁鉄道合資会社を発足させ、渋沢栄一を社長に迎え、ほとんどの工区を鹿島組に特命発注して残工事を進めた。

朝鮮半島での最初の鉄道工事で、日本が海外で行う初めての鉄道工事である。日本の建設業者が国外で請け負った最初の工事でもあった。アメリカの業者でさえ完工できなかった難工事である。開国してわずか30年で何ができるというのか、朝鮮半島に影響力を持ちたい諸外国は日本が、鹿島が、失敗してこの工事を手放すのを待っていた。

区間中の最難工事は、第四区の漢江橋梁である。漢江にかかる初めての橋となる。橋長は2,062フィート(628.5m)。それほど長いわけではない。築造中の橋脚3基は、基礎工事不足のため取り壊す必要があった。土工部分も半成でその後、仮設の材料運搬用の橋を作る。橋脚は花崗岩で巻き、アメリカ製の径間200フィート(60.96m)単線プラット構桁10連を施工。明治32(1899)年4月に第一工区、第二工区から着工した工事は、明治33(1900)年7月に竣工する。

渋沢栄一の日記の中には、この京仁線とその次の京釜線(京城・釜山間444.5km)で鹿島岩蔵が何度も渋沢邸を訪れて打合せしている様子が書かれている。岩蔵も心配だったのであろう。彼は朝鮮半島、台湾も含め、海外に出たことはなかったようである。が、腹心の「鹿島の三部長」のひとり、新見七之丞を所長に据え、副組長の鹿島精一(岩蔵の婿養子)を現地へ赴かせた。

漢江橋梁漢江橋梁クリックすると拡大します

明治と共に歿した鹿島岩蔵

そのほかにも明治34(1901)年に設立された茨城採炭は、設立発起人が渋沢栄一であり、鹿島岩蔵、浅野総一郎が監査役を務めている。

渋沢より4歳下の鹿島岩蔵が没したのは、明治45(1912)年2月のことである。「彼の一生を見ると、それは単に一請負業者というよりも、発展的な、いかにも明治の時代を生きた事業家の生涯という感じがする」(『鹿島建設百三十年史』p61)。鹿島岩蔵が関係した会社は60余りに及ぶ。

鹿島岩蔵の葬儀は、鹿島家の菩提寺、駒込の吉祥寺で行われた。参列者は皆当時の正装、モーニングコートにシルクハットといういでたちである。行列の先頭が神田須田町にかかった時、後列はまだ深川の鹿島本邸を出ていなかった。地図で見ると4.7km、吉祥寺まではその須田町からまだ4.2kmもあった。その行列は、見たことがないほどの長いものだったという。後に総理大臣となった原敬(当時・鉄道院総裁)、初代南満州鉄道総裁の後藤新平などの政治家たちや、渋沢栄一、浅野總一郎、古河市兵衛など財界の有名人の顔も見られた。全国の現場から駆け付けた鹿島の組員たちはほとんどが借り物の正装で列に並んでいた。数えきれないほどの花輪は、吉祥寺の広い境内にもそのすべてを入れる余地がないほどだった。

渋沢は「吸収魔」といわれるほどの受信能力を持つ人物だったと言われる。非常に真面目で、些細なことも几帳面に行う性格だったという。幼少から親しんだ論語は彼の経営理念や生き方に影響を与え、自らの手で実業界の道徳の水準を高めるための指針となっていた。500もの企業に関係しているのは、その性格上、道理が通っているとなかなか断れずにやむをえず多くの企業に名を連ねることになったためだと後に本人が述懐している。
渋沢は、その後、大正、昭和と生き、晩年は600もの社会福祉関連の事業にもかかわっている。

鹿島岩蔵もまた、世の中が目まぐるしく変化した明治時代に、非常に積極的に生きた人物であった。新しいものを取り入れるのをためらわず、それが仕事の上では工事に対する進歩的な態度となって現れ、私生活ではハイカラ趣味となって表れている。明治23(1890)年から29(1896)年まで住んでいた広尾の家には西洋館が併設され、子供の部屋にはベッドが置かれ、コックの作る西洋料理を食べ、食堂にはビリヤード台が置かれていた。

一方で、その親切と義侠心と積極的な事業意欲のために、多方面に手を伸ばしていた。鉄道工事で日本全国に赴き、各地でいろいろな事業を行っている。渋沢には到底及ばないが、生涯に60あまりの事業にかかわっていた。『建築世界』明治41(1908)年2月号ではその性格について「性格は剛直で真摯深く門地(=家柄)を重んじ、高く自ら標致して、あえて人に下ることなく、その識見において風采において、優に当今第一等の紳士たるの態あり。しかして一面には同業有力者間の畏敬する所である。余裕ある君は別に力を他方面へも伸ばし、現に東京印刷会社監査役、天龍運輸会社取締役、王子製紙会社監査役、巴石油会社監査役等の要職に在りというを以って、実業界の大立者として仰ぐに足らんか」と述べている。

「鹿島岩蔵はいわゆる財閥の当主でもなく、また世にいう財界の名士でもなかった。懇望されるまま深川区会議員を二期務めたほかは公的な役職に就いたことはない。しかし一市民でありながら井上馨、陸奥宗光、金子堅太郎、星亨、原敬、岡崎邦輔等の政治家や渋沢栄一、藤田伝三郎、古河市兵衛、團琢磨、佐々木勇之助、浅野總一郎などの財界人と対等に交際するほどの実力者であった。その人柄は上品で、名士と交際しているからと言って少しもおごり高ぶることはなく、現場の視察に出れば鉄道の一技手に対してさえ丁寧に挨拶した。事業欲が盛んな一方では、金原明善のような社会事業家に共鳴して多額の援助を惜しまず、時に葉山の別荘に招いてその苦労をねぎらったりしたこともある。

岩蔵は、正規の学歴は何も持たなかったが、それだけにかえって教育に関して熱心であった。優秀な人材を見出し、育てるのは彼の趣味に近いとさえいえた。」(『鹿島建設百三十年史』p92)

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鹿島岩蔵鹿島岩蔵クリックすると拡大します

<参考資料>
清水建設百五十年史編纂委員会『清水建設百五十年』(1953年)
菊岡俱也『建設業を興した人びと』(1983年)
日本経済新聞社『経営に大義あり 日本を創った企業家たち』(2006年)
『雨夜譚―渋沢栄一自伝』(あまよがたり)
渋沢青淵記念財団竜門社『渋沢栄一伝記資料』
肥塚龍『横浜開港五十年史』(1909年)
宮本又郎『渋沢栄一 : 日本近代の扉を開いた財界リーダー 』(PHP経営叢書. 日本の企業家 ; 1)(2016年)
高島秀樹「星野鏡三郎の事跡(1)」「星野鏡三郎の事跡(2)」「星野鏡三郎の事跡(3)」「星野鏡三郎の事跡(4)」『明星―明星大学明星教育センター研究紀要』(2012~2019)
難波多津二『多津っあん一代記』(1955年)

(2020年5月29日公開)

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