第53回 「橋梁鹿島」と言われたころ

「橋梁鹿島」といわれている。昭和10(1935)年の『鹿島組月報』に書かれている言葉である。鹿島と橋の歴史は古い。「鉄道の鹿島」として数多くの鉄道橋を施工していることは社内外に知られているが、道路橋の施工についてはあまり知られていない。大正期に施工して土木遺産となっている武庫大橋はコンクリートの橋である。

川が多い日本

橋には鉄道橋、道路橋だけでなく、跨線橋、水路橋、高架橋など様々な種類がある。水を運ぶ水道橋も「橋」である。海外ではローマの水道橋など石の橋が多いが、日本には木の橋が多く、山梨県の猿橋や山口県の錦帯橋など世界でも珍しい構造の木造橋梁があり、九州地方では長崎の眼鏡橋など石造のアーチ橋が多くみられる。石橋の技術は、中国から長崎へ、長崎の出島にきていたオランダ人から、中国から沖縄経由で鹿児島へ、という3つのルートによって伝わったため特に九州地方に多いと考えられる。

江戸時代、川幅が広い川には橋が架けられていないことが多かった。幕府が意図的に橋を架けなかったといわれるが、技術的な問題や、費用の問題もあった。五街道の一つで川の数が一番多い東海道には、川幅50mを超える場所が30か所もあったという。渡しで有名な大井川では、江戸の商人たちが渡船や橋の架設を申し出たこともあったが、川越人足や旅籠など、川渡しを仕事としている人々の既得権益のために、橋を架ける機会を逸してしまったというのが真相のようである。明治4(1871)年に渡船が始まると、職を失った人足たちの一部は、払い下げられた開墾地で茶畑を開墾するようになっていった。

橋の歴史は鉄道とともに

明治の初めの頃は、内務省の行う河川改修を除く土木工事は、そのほとんどが鉄道工事とそれに伴う橋梁やトンネルの工事で、土木イコール鉄道であった。日本初の鉄道は、明治5(1872)年10月に開通した新橋・横浜間28.8km。中間駅は4駅(品川、川崎、鶴見、神奈川)、大小22か所の橋梁があった。それらの橋はイギリスから部材を輸入していたら間に合わないと木桁で作られ、後年順次鉄橋に架け替えられることになっていた。

一番長い六郷川橋梁は明治10(1877)年11月、複線化計画と共に鉄の橋に架け替えられる。全長約500m、100呎錬鉄製トラス6連。鉄道の橋梁は、上部の鉄橋部分を他の路線に順次転用して使用することが多く、この六郷川橋梁の鉄橋は、何度かの転用の後、現在は愛知県犬山市の博物館明治村に移設されている。次に施工された鉄道は大阪・神戸間32kmで、46か所の橋のうち武庫川、神崎川、十三川の3橋梁が鉄橋だった。

五稜郭と鹿島

鹿島は、明治13(1880)年に鉄道請負に転進するまでは、大工として活躍していた。つまり橋梁を施工したのはそれ以降だと考えられる。しかし不確かであるが、『鹿島建設札幌支店開設20年の記録』(1961年発行)に「早くも明治初年には道内開拓のための道路工事をはじめた」(p5)という記述がある。

明治初期に北海道で道路工事を行った可能性を示唆する手記がある。
昭和33(1958)年に岡山県在住の惣門明二氏が書いたもので、当時の大阪支店岡山出張所長を通じて寄贈された。そこには「鹿島組初代土木部長」が井上喜三郎であったと書かれている。岡山の石工・井上喜三郎は、江戸時代末期に品川台場の築造に携わった腕を買われて函館に渡り、五稜郭と弁天台場で石垣積みを行った人物である。手記には「日露戦争が終わって間もなく井上喜三郎夫妻が岡山の郷里へ来た時に聞いた話」とあるので明治38、9(1905、6)年のことであろう。岡山から青森までは、家族と水杯を交わしてきた妻と共に馬の背に揺られて行った。函館五稜郭の台場工事竣工の際に士分に取り立てられ名字帯刀を許された。彼の弟子たちは、鹿島の鉄道建設工事のために全国へ派遣され、朝鮮に行った者もいたということである。

当時鹿島には土木部長という役職はなかった。
函館市立中央図書館所蔵の『函館人物史』(近江幸雄 1992年)には、二代目井上喜三郎が「東京鹿島組に入り、鉄道建設の石垣工事を担当」と書かれている。二代目を名乗ったのは、初代が、自分の監督した石垣が崩れた責任を取って自害した文久元(1861)年、18歳の時だった。二代目喜三郎がいつ頃鹿島に入ったのかは定かではない。しかしこの「初代土木部長」の伝手で、北海道で道路建設に携わり、いくつかの石の橋を作ったのかもしれない。

「橋梁鹿島」

「橋梁工事においては、わが鹿島組は間組と共に、永らく業界の二大分野をなし、最近大林組が進出し、また間組の目覚ましい躍進のため、橋梁鹿島の色彩濃厚にこそなれ、依然ここ麥田(むぎた)により、鷄林(朝鮮の別名)の橋梁界に重きをなし居り候」と『鹿島組月報』昭和10年7月号に鹿島組麥田派出所からの投稿が掲載されている。麥田派出所は壹等道路平壌元山線平安道江東郡高泉面地にあった。平壌から東に30-40kmの場所だと思われる。

間組は、鉄道局の間猛馬が明治22(1889)年4月に門司で創業した。その際「橋梁小川」(あるいは「鉄橋小川」)として活躍していた小川勝五郎が配下数人を送り込み、資金を提供する。間は小川の助力を記念して間組の印半纏に小川の記章を踏襲し、橋梁工事を得意とするようになる。小川勝五郎は、旧作事方元締松本平四郎配下の鳶の小頭として、六郷川橋梁、阪神間の神崎川・十三川橋梁でその技術と施工法を学んだ。潜水もできたため橋梁工事には適材で、技能を認められて鉄道局に採用され、工事の指揮監督にあたる一方で、請負(施工)も行い、橋梁小川として名を馳せていた。しかし年を取り、放蕩息子の行く末を案じ、間に配下を送って息子の後見をお願いしたようである。

「麦田橋架設工事」の写真は、『鹿島組月報』昭和10年7月号の表紙を飾る。昭和9(1934)年8月29日起工、昭和10(1935)年10月31日竣工予定の橋長360m、幅員6m、ゲルバー式鉄桁2本、床版鉄筋コンクリート造15径間という道路橋である。昭和10(1935)年5月25日に撮影されている。他に当時当社施工中3位の橋長の洛東橋(1,066.8m、1933年3月竣工)、昭陽橋(609.6m、1933年11月竣工)、京仁鉄道漢江橋梁(628.5m、1900年7月竣工)の写真を同封したが掲載されていない。洛東橋と昭陽橋の写真は空襲で焼けてしまったのか、現存していない。また、麦田橋の竣工写真も現存していない。これら外地で施工した橋梁は、戦争で壊されたり線路を持ち去られたりした。満州鹿島組の三浦完司は、新京(現・長春)の社宅で1年間生き延びた35名と共に昭和21(1946)年8月に引き揚げるが「途中、私が苦労した奉山線(現・瀋山線)複線暁陽河の橋脚約100基も、線路が外されてコンクリートの橋脚のみが、荒廃した南満州の原野に立ち並んで」いたそうだ。

麦田橋仮設工事1935年5月25日撮影麦田橋仮設工事1935年5月25日撮影クリックすると拡大します

京仁鉄道漢江橋梁(1900年)京仁鉄道漢江橋梁(1900年)クリックすると拡大します

明治時代の鉄道橋

鹿島は鉄道橋梁を多く施工している。大正元(1912)年に竣工した新発田線の阿賀野川橋梁(1,366m)は、東海道新幹線最長の富士川橋梁(1,373m、1964年鹿島施工)ができるまで50年余り日本最長の橋だった。戦前には朝鮮半島で漢江橋梁(628.5m、1900年)、台湾南部で下淡水渓橋梁(1,526m、1914年)という長大橋も施工している。どれも鉄道橋である。長大橋を架ける前提には、しっかりした橋脚の施工が求められる。鹿島はこれを得意とした。しかし橋脚を施工中に大雨などで被害を受けることも多かった。

『日本鉄道請負業史明治篇』に鹿島が手掛けた橋梁工事として最初に出てくるのは、明治21(1888)年4月に着工した日本鉄道第四区線(現・東北本線)・雫石川橋梁(岩手県)である。日詰・厨川間の難工事の一つであった。径間60呎12連の鉄桁、11本の橋脚基礎は箱枠沈下という煉瓦積井筒沈下の変形で、日本独特の工法で、初めての試みであった。時々洪水に遭ったため、橋梁周囲に沈床を施工して水害を防ぐなどの工夫をしながら施工した。流れの芯を決めるため橋梁上流に護岸粗朶工事を施している。鹿島はこの工事のために、元内務省技師で工学士の飯塚新太郎をたびたび招聘して設計監督にあたらせた。当時橋梁や長大トンネルの施工は、直営で行われることが多かった。雫石川橋梁も直営で、鹿島は潜水夫を含む作業員を供給し、煉瓦積み石積みその他諸工事を施工している。

次の第五区線中小繁・青森間は、「橋梁・隧道共に多い」区間だった。材料は小湊から東北に約1.6kmにある浅所村を材料陸揚場にし、材料運搬の軽便鉄道を敷いた。交通が不便で現場も点在しているため、鹿島組代人(=現場所長)の新見七之丞(しんみしちのじょう)が現場を巡回する際には、馬で大急ぎに巡回しても優に1か月を要したという。どこのどういう橋梁を施工したのかは不明である。明治時代に鹿島が施工し、記録に残っている鉄道橋梁は多く、現存している橋梁もある。鉄橋部分は次々と転用され、別の場所に架かるが、橋脚は激流に揉まれ、洪水や干ばつに遭い、100年以上施工した時のままそこに建っている。

南海鉄道紀ノ川橋梁は、1998年に耐震性に劣ると架け替えが検討されたものの、ジェイアール総研の調査で支障がないことがわかり、現在も利用され、その姿を残している。南海電鉄ホームページ掲載の「南海100駅自慢」に、紀ノ川橋梁の橋脚は「煉瓦造の橋脚がとても美しい、ずっと眺めていたくなる橋梁です」と紹介されている。

日本百名橋のひとつ武庫大橋

日本百名橋のひとつで、2006年に土木遺産に選定された武庫大橋というコンクリート橋がある。1926年に竣工した6連のRC開腹式(オープンスパンドレル)アーチ橋である。支間20mアーチ橋6連、8m桁橋9連。橋長は262.5mとそれほど長い橋ではないが当時最大級であった。開腹式アーチ橋の軽やかさと、橋の両側のたもとにつけられたバルコニー(見晴台)の装飾的なデザインが美しい。

設計は増田淳(1883-1947)。東京帝国大学卒業後、アメリカの橋梁設計事務所に15年勤め、帰国後の大正11(1922)年に、当時珍しい橋梁専門の設計事務所を興していた。福井次郎(土木研究所)が「橋梁設計技術者・増田淳の足跡」(『土木史研究論文集Vol.23 2004年』に、現存する増田淳設計図書を掲載しているが、その中で武庫大橋は一番古い橋梁である。

鹿島は関西方面では、現在の山陰本線などの鉄道、宇治川電気(現・関西電力)のダムや水力発電所を施工中だった。これら工事の資料はあるが、武庫大橋に関しては社員の手記や記録もなく、この美しい橋が当社施工と知らない社員も多い。社員名簿には兵庫県武庫郡鳴尾村小曾根の「武庫派出所」に3名の社員の名前がある。

阪神国道の建設

大正時代になると工業は発展し、人口の都市集中が各地で進んでいく。阪神圏では私鉄の発展が顕著であったが、馬車や人力車に変わって、自動車の台数も増えていった。自家用車だけでなく、それまで荷馬車だけに頼っていた貨物輸送に貨物自動車専業会社が計画される。しかし、それには神戸市内の道路と阪神国道の改修が必要だった。

商業の中心地である大阪市と、国際貿易都市・神戸市との間に走る旧国道は、幅員が1.8mから6mまでさまざまに変化する上、路面も粗悪で、旧市街地を周りながら走るため屈曲が多く、トラックが通ると身動きができなくなる国道とは名ばかりの道路であった。このままではますます自動車、自転車、荷馬車の増加に対応できなくなると考えた兵庫県は、大正5(1916)年に内務大臣に道路改修の急務を訴え、大正8(1919)年に阪神国道(国道2号線)の国庫補助が決定する。大正12(1923)年12月工事は始まった。

武庫川改修計画と武庫大橋の建設

武庫川は、兵庫県の丹波篠山から三田盆地を通り、神戸北部、宝塚、西宮、伊丹、尼崎の間を縫って流れ、大阪湾にそそぐ。水量は多くないが、大雨が降ると流水が急激に増えて岩石、砂利、砂を下流へ運ぶ。この土砂が平野部の肥沃な土となり、水は農業用水となっていった。山林乱伐は荒廃に繋がり、明治に入って鉄路と共に住宅街が山麓にまで拓けていく。洪水が絶えなかった武庫川では、上流の砂防工事が明治28(1895)年から開始され、水源地を保護していく。下流では氾濫を食い止める改修工事が行われた。屈曲を矯正し、川幅を広げ、川床を掘削し、堤防の新設と増築を続ける。一方で枝川と申川の分流を廃川とし治水を根本的に改良した。工期は大正9(1920)年8月から大正12(1923)年3月。昭和3(1928)年には六樋門を合併し、武庫川改修全工事は竣工する。廃川によってできた広大な敷地は、阪神電鉄に払下げられ、住宅地や甲子園球場、リゾートホテルなどが作られた。

阪神国道の工事開始から8か月後の大正13(1924)年8月、大阪府と兵庫県の府県境に架ける橋の実測と地質調査が開始される。阪神国道の肝となる橋梁工事であった。大正14(1925)年6月に設計完了し、7月には内務大臣の施工許可が得られる。直ちに仮橋と材料倉庫などの準備に着手。大正14(1925)8月19日に指名競争入札が行われ、鹿島組と工事請負契約が締結される。資材のうちセメントと鉄筋はそれぞれ発注者と専門業者の間で指名競争入札が行われ、セメントは東亜セメント、鉄筋は日本トラスコント鋼材に決まった。工事は大正14(1925)年8月着工、竣工期限は大正16(1927)年2月末、18カ月の工事であった。

速成奨励法―武庫大橋速成に関する指令要項

阪神国道の工事は順次進捗して、大正15(1926)年11月末には全線交通開始見込みとなる。兵庫県阪神国道西宮工営所所長の溝口親種は、橋梁工事のために国道を両断し、交通開始を遅らせることは断じてできないと考え、竣工期限の短縮を図ることとした。請負契約による竣工期限を1か月短縮し、大正16(1927)年1月末日とすると同時に、大正15(1926)年2月9日付で速成奨励法を決定する。

武庫大橋速成に関する指令要項は、

第1項  
大正15(1926)年11月20日までに車道舗装工事を施工し、車道の交通を開始するために同年10月30日以前に橋梁全部の床版コンクリート工事を完成した場合は金2万円を交付する。
第2項  
大正15(1926)年12月20日までに車道舗装工事を施工し、車道の交通を開始するために同年11月30日以前に橋梁全部の床版コンクリート工事を完成した場合は金1万円を交付する。
条件  
第1条  
天災地変の場合又はその他の事情により設計変更した場合といえども、前各項の期日は変更しない。
第2条  
橋台前後取合は、大正15(1926)年8月末日までに埋戻し及び搗き固めを完了すること。
第3条  
設計変更の場合を除き、速成の目的のため現在契約の仕様書による工事方法は、変更しないものとする。

というもので、それを聞いた時の鹿島の社員は、やっぱり・・・と思ったのか、ええええと驚いたのか、全力を尽くすしかないと思うのは今も昔も同じである。

杭打機の増設とセメント袋の返却

アーチ部分の橋脚の杭打ち工事では、矢板を打ち込み、直径8インチポンプ1台、6インチポンプ2台で排水場に水を流した後、日本産松丸太を3尺(=90cm)間隔で橋脚1基につき162本打ち込む。7.5馬力の杭打機2台で、1日平均24本の杭を打ち込んでいたが、速成奨励契約後杭打機を1台増設し、1日平均50本の杭を打つことを目標に施工を進める。錘には150貫(=562.5kg)の真矢を用いて櫓から落とし、杭の平均沈下を早めた。

セメントは、連絡から10日以内に2000樽分のセメントが、尼崎のセメント会社の仮倉庫に準備される。200樽につき10個の試験材料を採取して試験を行い、合格すると5日以内に工事現場の倉庫に納品される。そこから先の保管は鹿島の責任となる。「セメントの使用は現場係員からその都度必要数を請負者に交付すること」になっていた。「現場係員」というのは発注者側の担当者であろうか、セメント会社の担当者であろうか、工事現場の倉庫で保管は鹿島の責任とあるが、「請負者」つまり鹿島が交付される側であるから、いちいち手間のかかることであったと思われる。また、納入の際に1割は樽入り、残りの9割は3袋1樽の袋詰めと指定があり、空袋は8割を供給会社に返却することになっていた。

鉄筋は、異形鉄筋の方が丸鋼よりコンクリートの付着強度が大きいことが研究で分かった。異形鉄筋の単価は高いが、これを使用することで、床版や桁など剪断応力を受ける箇所での鉄筋量もコンクリート量も節約でき、結果的には安く仕上がる。納入は、通知から20日以内に50~120tを現場に運搬し、現場倉庫内に設計符号に準じて規則正しく区別して指定の枠内に納入する。その後、指定の試験所で強度湾曲、伸長率の試験を行い、合格したものを検収する仕組みだった。

このような資材の納品形態、竣工期日の繰り上げという命題の中、鹿島は社員、作業員一丸となって工事に励む。杭打機の増設など発注者側も工事の進捗を助けてくれた。記載はないが、昼夜兼行で工事を続けたのであろう。その結果、「鹿島組の大努力により予期以上の成績を呈し、橋梁全部の床版を指定期日前に完成し、速成奨励の目的を達した。着手から1年4カ月を費やして竣工する」とあるので、金2万円交付されたのであろうか。当社に残る「営業経歴書」(昭和17年発行)には、武庫大橋架設工事の工事金額は、31万750円とある。

古い史実を有する武庫という地名は、六甲山麓一圓の名前である。これを橋の名前にして国道の威容を増し、武庫大橋は地域最大の橋となった。大阪市福島区野田から神戸市灘区岩屋中に至る国道2号線の一部阪神国道は、昭和元(1926)年12月に竣工し、25日に開通する。昭和となったその日のことだった。延長28km。中央車線に路面電車を併設したため幅員は約30mになる。阪神間をほぼ直線で結ぶ交通の大動脈となり、沿線の開発に大きい役割を果たしていく。激増する交通量緩和のため1963年に全長26.9kmの第2阪神国道がその南方に建設され、現在に至っている。

現在の武庫大橋現在の武庫大橋クリックすると拡大します

現在の武庫大橋現在の武庫大橋クリックすると拡大します

白龍の渡るが如き武庫大橋

竣工した武庫大橋は、「阪神電車から武庫川の青松中に白龍の渡るが如き武庫大橋を観るとき、いかにもその概要の近代的如何たるを感ずるが、その工事内容にまた、多大の技術的努力があふれておることを知らねばならぬ」と『土木建築工事画報』昭和2年4月号に書かれている。いかに設計者が華麗なるデザインで設計し、研究者や技術者が素晴らしい技術を打ち出したとしても、それを施工する人と技術がなければ、構造物は存在しない。

鹿島は、施工以来武庫大橋の改修工事に携わっており、1992年9月から1993年5月まで武庫大橋の改修と周辺整備工事を行った。「武庫大橋蘇る。1989年に高欄補修に着手以来、交通量の多い国道2号線上の工事にもかかわらず、照明改造まで、厳しい工期を克服して完成」と当時の大阪支店の社内報『大阪ブランチ1993.7-8』に紹介されている。この工事により、戦時中の金属供出で、撤去されていた高欄の鉄格子と青銅製の電灯柱が蘇り、武庫大橋は往年の姿を取り戻した。

それ以来というわけではないが、コンクリートの橋は鹿島の得意分野となっている。特に昭和34(1959)年にディビダーク社(ドイツ)からディビダーク工法を導入して以来、プレストレストコンクリート橋の分野では圧倒的優位性を誇っている。あらかじめ圧縮応力を加えてあるコンクリートは、圧縮力にも引張力にも強い構造材料であり、径間の長大化やさまざまな形状の橋を設計し、施工することができる。

これまでどれくらいの数の橋梁を施工してきたのだろう。橋は、その地域に生きる人々に密接に関係するもので、期待感も高い。小さな橋から大きな橋まで、国内だけでなく海外も、例えばフィリピンのセブ島とマクタン島を結ぶ第二マクタン橋梁(410m、1999年)、エジプトのスエズ運河橋(3,900m、2001年)、パラオのコロール島とバベルダオブ島を結ぶ日本・パラオ友好橋(413m、2002年)も施工している。また、本州四国連絡橋では、3つのルートすべてにおいて橋を施工している。
「橋梁鹿島」は、連綿と続く時代の変化と共に、現在に至る鹿島のプライドのひとつである。

<参考資料>
兵庫県史編集委員会『兵庫県百年史』(兵庫県、1967年)
土木建築工事画報社『土木建築工事画報』
土木工業協会、電力建設業協会『日本土木建設業史』(技報堂、1961年)
鹿島建設札幌支店『鹿島建設札幌支店開設20年の記録』(1961年)
近江幸雄『函館人物史』(1992年)
福井次郎「橋梁設計技術者・増田淳の足跡」『土木史研究論文集Vol.23 2004年』
鉄道建設業協会『日本鉄道請負業史明治篇』(1967年)
成瀬輝男編『鉄の橋百選 近代日本のランドマーク』(1994年)
長嶋文雄・服部秀人・菊地敏男『橋 なぜなぜおもしろ読本』(1998年)
土木学会関西支部『橋の科学』(2010年)
土木学会関西支部『橋のなんでも小事典』(1991年)
辻幸和・二羽淳一郎『PC橋梁の新たなる挑戦』(2011年)

(2020年12月1日公開)

ページTOPへ

ページの先頭へ