第55回 初めての地下鉄工事

日本の地下鉄は、大正14(1925)年に着工した上野・浅草間約2.2kmに始まる。それから約100年、現在では国内10都市、総延長808.4kmまで広がっている。鹿島は明治13(1880)年に洋館建築から鉄道請負に転じた。「鉄道の鹿島」として名を馳せ、国内外で数々の難工事を施工していたが、地下鉄工事に参入できたのは昭和11(1936)年のことであった。

世界の地下鉄事情

世界初の地下鉄はイギリスの首都ロンドンの6駅6kmで、1863年1月に開通している。「産業革命以降にロンドンの人口が増大し、郊外からの通勤者を輸送する鉄道が整備されたものの、都心部の建物密集地帯に乗り入れられないことから、地下を走行する鉄道として計画され、開削工法により建設された」(日本地下鉄協会HPより)。当初は蒸気機関車が牽引したため排煙対策に追われたが、1890年ノーザン線で電気機関車による運行が開始された。1875年、トルコ・イスタンブールにケーブルカー式の地下鉄テュネルが開通する。世界一短い地下鉄で延長573m、1区間を3分で走る。

1896年には電気式で作った世界初の地下鉄道がハンガリー・ブタペストで運行を開始した。現在地下鉄として唯一の世界遺産に登録されている。その後、アメリカ・ボストン(1897年)、フランス・パリ(1900年)、ドイツ・ベルリン(1902年)、ギリシャ・アテネ(1904年)、アルゼンチン・ブエノスアイレス(1913年)、スペイン・マドリッド(1919年)と、日本の地下鉄より前に9か国で16路線が作られている。現在では地下鉄は世界53か国164都市にある。

東京名物満員電車

東京市の人口は、明治42(1909)年から毎年平均10万人増加し、大正13(1924)年には400万人、昭和3(1928)年には500万人を超える。郊外の人口は6年ごとに倍増していた。しかし人口増加に交通機関は追いつくことができず、都心の交通は路面電車(市電)と一部の省線(のちに国鉄→JRとなる鉄道省の路線)だけだった。

大正7(1918)年に発表された「東京節」では、「東京の名物 満員電車 いつまで待っても 乗れやしねえ 乗るにゃ喧嘩腰 いのちがけ」と謳われたほどである。この殺人的混雑を回避する唯一の方策が、高速度交通機関の敷設であったが、高架鉄道も地下鉄道も夢物語と考えられていた。

図版:当時の東京市のイメージ当時の東京市のイメージクリックすると拡大します

ロンドンで地下鉄と出会う

政治家を志して後藤新平の書生となった早川徳次(はやかわのりつぐ 1881-1942)は、後藤に付いて南満州鉄道、鉄道院と務めた後、東武鉄道社長・根津嘉一郎の知己を得、佐野鉄道経営再建を任される。再建に成功し、翌年高野登山鉄道の支配人となり、これも優良経営に導くが、思うところがあり辞任。早川は、整備されたばかりの大阪築港に船が入港しないのを見て「港と鉄道を組み合わせる」ことを思いつく。大隈重信に掛け合い鉄道院嘱託の身分を手に入れて大正3(1914)年欧州へ。1863年1月開業以来10路線となっていたロンドンの地下鉄を見て、早川は日本に地下鉄を通す夢を持つ。東京市電の混雑や輸送の行き詰まりも、地下鉄道の建設によって救済できる。彼は一旦帰国し、翌年から一年かけて欧米5か国を周って地下鉄を研究、大正5(1916)年に帰国する。

豆を使って人流を数え、橋を学び、井戸を見る

東京市には交通量調査などの資料がなく、早川は自ら研究する。毎日交通量の多い場所でポケットの白豆と黒豆を移動させ、人の往来、電車、乗客、荷車、人力車、馬車、自動車などを数えた。浅草から上野、銀座、新橋を繋ぐ路線で一番乗客数が多いことが確認される。ここは、明治期に浅草から新橋まで馬車鉄道が敷設されていた東京の大動脈ともいえる区間であった。

地質は、東京市橋梁課を訪れ、市中20か所以上の橋梁の地質図を入手。軟弱な地質ではなく、地下鉄道の敷設に適していた。建設費を左右する湧水量は、撒水井戸を使って調べた。道路の砂埃を押さえる水を撒くための井戸である。東京市道路課で調べると8~9mの井戸を掘り、その底から直径5cmの鉄管を20~30m打ち込み、撒水に必要な水量を確保していた。水は極めて深い地層にしかない。

大正9(1920)年3月23日、東京地下鐵道会社の発起人総会開催。発起人は197名に及んだ。資本金4,000万円、工事費3,500万円。しかしその後第一次世界大戦後の反動景気が襲来し、経済は大打撃を受ける。発起人たちは去り、全額払い込んだのは十数名に過ぎなかった。同年8月、減資して創立総会を開催、会社設立、10月に古市公威男爵(ふるいちこうい 1854-1934)が社長に、早川が常務にそれぞれ就任した。

大倉組、工事費立替払を提案

大正12(1923)年9月1日の関東大震災で東京は大きな被害を受けた。地下鉄道は上野・浅草間だけ施工し、順次延長することとした。日本初の地下鉄工事に名乗りを上げた建設会社は多かったが「工事費は場合によっては立て替えてもよいと考えている」(『東京地下鐵道史(乾)』p318)と提案してきた大倉組(*)に決まる。大正13(1924)年1月16日には覚書を締結、9月1日には実費計算請負契約を締結する。土工費約250万円は工事完成後1年後に支払う契約とし、大正14(1925)年9月27日、起工式が行われ、建設が始まる。

* 現在の大成建設のこと。大倉組商会→日本土木会社→大倉土木組→大倉組土木部→大倉土木組→日本土木→大倉土木→大成建設

昭和2(1927)年12月29日開通披露式。連日多くの乗客が押し寄せ、超満員の盛況であった。乗るまでに1時間以上かかったという。

第二工区以下の工区割と請負者、開通時期は次の通りである。

第二工区(上野・万世橋間) 大林組、 昭和4(1929)年12月31日竣工
第三工区(万世橋・神田間) 清水組、 昭和6(1931)年11月30日開通
第四工区(神田・三越前間) 大倉組、 昭和7(1932)年4月29日開通
第五工区(三越前・日本橋間) 大倉組、 昭和7(1932)年12月24日開通
第六工区(日本橋・京橋間) 間組、 昭和7(1932)年12月24日開通
第七工区(京橋・銀座間) 間組と大倉組、 昭和9(1934)年3月3日開通
第八工区(銀座・新橋間) 大倉組 

浅草・新橋間約8kmが全通したのは昭和9(1934)年9月27日。工事費は3,300万円に及んだ。

図版:路線図 浅草・上野間(画像提供:地下鉄博物館)路線図 浅草・上野間(画像提供:地下鉄博物館)

図版:路線図 浅草・新橋間(画像提供:地下鉄博物館)路線図 浅草・新橋間(画像提供:地下鉄博物館)

地下鉄ストア

開通当初の物珍しさが去ると乗客数は減っていく。鉄道経営だけでは多額の利益を上げることはできない。東京地下鐵道会社では浅草駅出入口を利用して雷門ビルを建設、昭和5(1930)年4月には上野駅構内2階を利用した地下鉄ストアを開店する。食料品、菓子、日用雑貨、玩具類を安価で販売し好評だったという。

日本初の地下鉄工事に参入できなかった鹿島は、この「上野ストア」関連の工事を請け負っている。倉庫排気口設置、ストア漏水防止工事、増設部板張工事、二階部省線地下道連絡部装飾工事など、どれも小さい工事ではあるが、せめて少しでも「地下鉄」に関するものに関わりたいと思ったのであろうか、本線が入手できなかった経緯はわかっていない。

図版:地下鉄ストア(写真提供:地下鉄博物館)地下鉄ストア(写真提供:地下鉄博物館)クリックすると拡大します

東京高速鉄道会社

東京高速鉄道は大正15(1926)年8月に、東京市が得ていた地下鉄道免許線の建設を代行するため、大倉土木会長・門野重九郎と取締役の脇道誉、小田原急行鉄道社長利光鶴松らによって設立発起された。地下鉄道は統一経営するべきだと考える東京地下鐵道会社の早川らは、自社路線の施工者である大倉組が中心になっていることにも憤り、反対運動を起こす。結局昭和6(1931)年12月、東京高速鉄道は将来東京地下鐵道と合併することを条件に東京市計画路線のうち3線を譲り受ける。

しかし、東京高速鉄道の資金調達は思うように行かず、取り纏めたのは途中から乞われて参画した東京横浜電鐵(現・東急電鉄)専務の五島慶太(ごとうけいた 1882-1959)であった。彼は資金調達に尽力する。昭和9(1934)年9月5日、東京高速鉄道設立。門野重九郎が社長に、五島は常務となった。ほかに私鉄各社の最高責任者らが参画していたが、実質上の責任者は五島であった。

鹿島にできないはずはない

昭和10(1935)年5月上旬、東京高速鉄道株式会社からの内命を受けた鹿島は、隧道式工法について八重洲本店3階の工務室で研究を始めた。まもなく第一工区(虎ノ門・新橋間)の入札指名を受け、6月半ばから1か月で見積った。材料の調査、複雑な施工法に戸惑いながらもまとめ、入札するが第一工区と第四工区は大倉土木が、第三工区は間組がそれぞれ受注する。両社とも地下鉄工事の経験者である。

残る第二工区は、旧溜池川の埋立地帯で悪地質であった。ほかの工区は山の手大地の洪積層(比較的古くから堆積する地層で良好な地盤)で、下の砂礫層まで掘り下げる必要はほとんどない。地下水も極めて少なく工事は容易である。これに対し、赤坂から新橋に至る区間は、もともと旧溜池川と神田川の流域で、深い谷に上流から流れてきた土砂、腐植土、粘土、砂質粘土などが堆積した軟弱な沖積層である。地質は極めてよくない。それに加えて赤坂見附付近は掘削深度が最深で、関係各庁や技術者たちの間では、直営でなければ施工できないのではないかと言われていた。大倉土木、間、大林、清水といった地下鉄経験者はこの工区を避け、受けるなら単価の吊り上げ、あるいは実費精算でなければ受けられないという態度だったようである。

地下鉄初参入の鹿島は、五島慶太の信頼を得たこともあり、「丹那の難工事を見事完成せしめた輝ける経歴がある。鹿島にできないはずはない」(『地下鐵道工事報告書 自特許局前-至赤坂見附』p9)という心意気で、第二工区を特命受注するに至った。「鉄道工事界、水力工事界におけるわが鹿島の覇者たるの地位は自他ともに動かざるところであるにもかかわらず、不幸地下鉄工事はわが組は従来入手の機を逸しており、遺憾な感があったが、今回機熟し、東京高速鉄道工事第二工区を特命にて過日契約を了した」(『鹿島組月報昭和11年1月号』)。

経験のない会社の方が驕りもないと思われる

地盤が脆弱で一番の難工事と目される溜池・赤坂付近の工事を鹿島に任す理由を、五島慶太は「当工事はすでに経験済みの業者がほかにあるのだが、特に初めての鹿島に一番難工事と目される赤坂付近の工事をやっていただくことにした。そのわけは、会社そのものがよければ、経験者よりもむしろ経験のない会社の方が、緊張と慎重さが一層強く、かつ驕りもないと思われる」と語り、鹿島の社員たちは大いに感激した。全員が機会あるごとにその言葉を思い起こして「立派にしかも工期を早めて完成させよう」と誓い合った。(花村殿「地下鉄道工事今昔」『鹿島建設月報』1961年3月号p8)

巷では地下鉄未経験の鹿島組がこんな難工事を引き受けたのは狂気の沙汰だ、無謀の極みにあると囁かれた。任せる方も任せる方なら、これを唯々諾々として受けた鹿島もまたどうかしている。大事故を起こして必ず投げ出すだろうという噂さえあった。しかし「経験がともすれば陥りがちな、仕事に対する粗雑さに引換え、未経験なるがゆえにそれだけ丁寧に、念を入れて仕事にあたるであろう。かかる難工事たるがゆえにこの誠意ある未経験者を選んだのだという固い信念が五島常務にあったのである」(『地下鐵道工事報告書 自特許局前-至赤坂見附』p9)

東京高速鉄道渋谷線の工事は、東京地下鐵道会社の新橋駅と、新橋省線下連絡工事(大倉土木施工)で将来繋がる新橋から渋谷までの地下鉄工事である。昭和10(1935)年10月18日、渋谷・新橋間の建設工事に着手した。工区割と請負業者は次の通りである。

  
第一工区(新橋・虎ノ門間)  大倉土木1,167m  昭和10(1935)年10月18日着工
第二工区(虎ノ門・赤坂見附間)  鹿島組1,350m  昭和11(1936)年5月12日着工
第三工区(赤坂見附・青山四丁目間)  間組1,930m  昭和11(1936)年3月7日着工
第四工区(青山四丁目・宮益坂間)  大倉土木 1,600m  昭和10(1935)年12月6日着工
第五工区(宮益坂・中通道路間)  鹿島組 420m昭和12(1937)年3月1日着工
  〃   (中通道路・大和田間)  安藤組    昭和12(1937)年11月30日着工

鹿島が施工する渋谷線第二工区は、赤坂見附停車場を含む三年町(現・千代田区永田町1丁目)・新町一丁目(現・港区赤坂3丁目)間1,350m。三年町特許局前から市電軌道に沿って溜池町、山王下を経て、赤坂見附交差点50m手前から左折、青山通りの新町一丁目電車道に出るものであった。閑院宮邸(現・赤坂エクセルホテル東急)裏と幸楽(現・プルデンシャルタワー)前との中間、四谷見附から来る予定の新宿線(現・丸ノ内線)との並列したところに上下二層式の赤坂見附停車場が設けられた。赤坂見附停車場は上2線、下2線の島式ホームで、同方向へ向かう銀座線・丸ノ内線の乗換が便利になるよう計画されていた。

第五工区も特命受注である。道玄坂中腹に設けられた車庫(安藤組施工)から玉電ビルの中を通り、省線渋谷駅の上を高架で乗り越して省線、明治通りを横断、東横ビルの中を通り、この玉電ビルと東横ビルとの間に跨って高速鉄道渋谷駅を設ける工事で、線路は高架3階の高さ、地上30余尺(約9m)にある。

図版:路線図 渋谷・新橋間(画像提供:地下鉄博物館)路線図 渋谷・新橋間(画像提供:地下鉄博物館)

二・二六事件に遭遇

昭和10(1935)年11月、本社3階工務室で見積を始める。鉄材、木材等は量も金額も膨大である。湧水の状態も見当がつかない。大量の残土処分費用もある。12月初旬、ようやく見積が出来上がり東京高速鉄道に持ち込むと、沿線の災害補償に見込んでいた30万円は5万円に減額され、鉄材の償却も裏表2回使用せよと見積直しを要請される。12月23日、ようやく東京高速鉄道と工事請負契約が締結された。

赤坂見附付近の地質調査試掘工事は、昭和11(1936)年2月25日に着手した。社員たちは翌日も早朝から赤坂山王下で測量を始めた。その時彼らに近づいた陸軍の兵隊がいた。赤坂は連隊の多い地区である。兵隊が近づいても気にすることなく測量は続いていた。彼は仕事を止めて難を避けるように丁寧に申し渡す。その雰囲気に気圧された社員たちは、早々に測量を中止して引き上げた。事件が終わる2月29日まで一歩も外に出ることはなかったという。

一方、市電沿線(外堀通り)にある第一銀行の隣に作った箱番(仮設小型事務所)に詰めていた五十嵐進は次のように書いている。
朝から非常に寒く、空は曇って今にも雪の降りそうな日であった。朝、我々が箱番にいると、川田の世話役が来て、「今朝警視庁を襲撃したものがあるようだが、なんだか様子がおかしい」といったので我々三人は、「そんな無茶な奴があるか」と一笑に付した。そのうち雪が降り出しどんどんひどくなってくる。昼頃になると、普段現場には見られない将校や兵卒(=兵隊)が沿線を右往左往するのが見受けられ、夕方近く所轄警察署の表町署から「作業を四五日休むように」との達示を受ける。理由を尋ねると「はっきりしたことは言えないが、とにかく危険だから」とのことであった。翌27日、現場に出てみると、沿線にある山王ホテル、幸楽などの入口には機関銃が据えられ、周囲に兵卒が頑張って物々しいというより、凄壮な気持ちに打たれた。(『地下鐵道工事報告書 自特許局前-至赤坂見附』p158)

現場事務所は手ごろな建物がなく、溜池の電車通りから多少離れるものの、面積が広く地代も割安だった赤坂中ノ町20番地(現・港区赤坂6丁目4番地)に240坪を借り、建物を新築することになった。

本店建築部に設計施工を依頼した事務所は二・二六事件の日に地鎮祭が行われ、一か月で完成。3月25日に山王出張所が開設された。建坪40坪(132.2㎡)、延べ80坪(264.5㎡)の2階建で1階に事務室、食堂、風呂場、洗面室、更衣室、台所、2階には独身者夜勤者の宿泊所と幹部室が置かれた。

図版:山王出張所開所式山王出張所開所式クリックすると拡大します

図版:昭和13(1938)年創立記念日に、山王出張所前で昭和13(1938)年創立記念日に、山王出張所前でクリックすると拡大します

図版:山王出張所があったあたり(港区赤坂6-4-24)山王出張所があったあたり(港区赤坂6-4-24)クリックすると拡大します

暴騰する鉄材、米松と、設計変更による遅延

工事は地質のせいか関係各庁の施工許可がなかなか下りず、設計変更などの手続きが複雑で遅れ、着工時期も明確にならない。その間に物価は高騰した。昭和11(1936)年秋から12(1937)年春には鉄材の相場が5,6倍に、米松はカリフォルニア州沿岸の荷役人のストライキによる暴騰などの影響もあり経済は混乱した。現場では特殊鉄材5,500トン、鉄筋1,400トン、そのほか主要機械、鉄杭、鋼矢板打機3台、ウインチ、土運び車などの注文を完了していた。掘削用木材5,000石(902m3)、覆工材4,000石(721.6m3)なども高速鉄道会社と契約した時点で注文していた。

しかし、設計が全面変更、施工計画も変更となる。長さ13.5mのコンクリート杭786本は廃止。長さ15mの鋼矢板II型189本は、III型の長さ18.5m、17.5m、16mの3種類に変更。杭打機も改良・変更せざるを得ず、着工したのは契約から140日後の昭和11(1936)年5月12日であった。

埋設物試掘、地質調査試掘を終え、本工事が始まったのは昭和11(1936)年5月22日。地下鉄は路面電車の軌道下に作られることが多い。工事は路上の鉄杭打ち、矢板打ち、鉄桁架設、板張り覆工という順で行われる。次は、坑内掘削、上下水道、ガス、電気、電話その他の埋設物防護、構造物のコンクリート打設、それから土砂の埋戻し、受桁の撤去、路面覆工という順で行われる。交通量が多い道路上、家屋が近接する市街地で使用する杭打機は、使用面積も音も小さく、操作が簡単である必要がある。

図版:梁用米材の山積(溜池材料置場)梁用米材の山積(溜池材料置場)クリックすると拡大します

図版:杭打ち作業杭打ち作業クリックすると拡大します

図版:杭打ち作業杭打ち作業クリックすると拡大します

図版:杭打ち作業杭打ち作業クリックすると拡大します

夜中の3時間が勝負

上部には市電の架線が張り巡らされ、地面から地下2.5mまでの間には各種埋設物が隙間もなく埋設されている。その間隙に矢板杭を打ち込む。一般箇所の杭打ち時間は朝6時から夜11時まで。交差点や軌条横断箇所は、夜11時から午前5時までである。0:45に終電車が通って送電が中止されるのを待って作業に着手し、始発前に復旧完了する。櫓の移動、軌条の撤去、鋼矢板打、櫓の退去、軌条の復旧まで約3時間。社員作業員の連絡を密にし、事前に使用機械の精密な点検を済ませ、終電までには現場に配備、待機させた。

坑内の掘削で出た土砂は、線路を敷設してトロリーで運搬する予定だった。しかし埋設物が多く能率的ではないため、代わりに使用したのが特製リヤカーである。地下埋設物は多数錯綜しており、位置や深さは図面上に明記してあるはずが、往々にして位置が違い、図面上にないものもある。これらの埋設物に関して、社員作業員一同間断なく普段以上に注意を払う。鹿島工区では事故を免れていたが、他社工区では電話幹線の切断、その他地中線の損傷数回、また別の工区では水道鉄管を切断して大騒ぎになったという。

鋼矢板(資料のほとんどには鉄矢板と記載)は、八幡製鉄所製の新品。海路で芝浦沖(現・港区芝浦)まで運搬し、艀(はしけ)に乗せ換えて枝河川から深川工作場(現・江東区東陽2丁目)に陸揚げ予定だった。しかし鋼矢板の型や長さの変更で、艀に積載できず深川工作場に行けない。深川区汐浜橋(現・江東区潮浜2丁目)と越中島(現・江東区越中島)に新たに荷揚場を作って貯蔵した。

鋼矢板は荷揚場から現場までトラクターで運搬。1~1.5tの鉄桁はトラクターからテコではね落とす。大きな音が出て苦情が後を絶たない。入社2年目の橋本正二(後に仙台支店長、大阪支店長、1979年副社長)が「重量物卸ろし法」を考案。三角型の木製台を作り、車の後方から鉄桁をずらし、木製台の上に徐々に引き下ろして騒音を低くした。彼はこの発明で表彰を受けている。

コンクリートは、坑内で練り上げて打設する。夜間作業で全社員作業員を総動員。路上の骨材の山は、次々と坑内の一段梁の上の貯蔵柵へ送り込まれる。検収係が付きっ切りで対応し、坑内ではコンクリート練上係、運搬係、打込係に分かれ、竹や棒で仕切り面を美しくするために落ちてきたコンクリートをつつき回す。

図版:表彰状表彰状クリックすると拡大します

図版:土砂捲揚機土砂捲揚機クリックすると拡大します

図版:特許局前特許局前クリックすると拡大します

図版:特許局前八幡II型鉄矢板抜き開始特許局前八幡II型鉄矢板抜き開始クリックすると拡大します

図版:溜池特許局付近鋼矢板打ち準備溜池特許局付近鋼矢板打ち準備クリックすると拡大します

図版:煉瓦造地下下水管を鉄杭(Iビーム)で打ち抜く煉瓦造地下下水管を鉄杭(Iビーム)で打ち抜くクリックすると拡大します

図版:第二工区坑内大下水管吊下げ作業の終わったところ第二工区坑内大下水管吊下げ作業の終わったところクリックすると拡大します

図版:覆工作業(特許局前)覆工作業(特許局前)クリックすると拡大します

図版:コンクリート工事(赤坂停留場鉄構枠部分)コンクリート工事(赤坂停留場鉄構枠部分)クリックすると拡大します

図版:底部鉄筋組立底部鉄筋組立クリックすると拡大します

図版:防水工事(モルタル吹付)防水工事(モルタル吹付)クリックすると拡大します

図版:防水工事(アスファルト)防水工事(アスファルト)クリックすると拡大します

図版:コンクリート完成コンクリート完成クリックすると拡大します

図版:赤坂見附駅プラットフォーム(1961年撮影)赤坂見附駅プラットフォーム(1961年撮影)クリックすると拡大します

こんなに骨の折れる徹夜は、やったことがない

昭和13(1938)年6月22日から降り続いた雨は29日に土砂降りとなる。渋谷線1,2,3工区とも構築完成していたが、通風口と材料搬出入口から水が流入。30日午前5時には最高水位が4mに達する。既設の6インチポンプ2台を底面から中板上に移設し、6インチポンプ2台、4インチポンプ1台を新設して排水。軌条と砂利撒布は7割終了していたため、流入してきた泥土の掃除に時間と金額を要した。

松尾梅雄は「過去十何年あらゆる仕事に徹夜の連続もやったが、こんなに骨の折れる徹夜はやったことがない」と語る。「地下鉄工事を5年もしたら、身体がだめになるだろうと思う。他社に比べて張り切りすぎていたのか、無駄を省き事故を防ぎ能率を上げることに邁進した」。

昭和12(1937)年5月、東京高速鉄道の五島常務から工事の促進を断行するよう促され、毎週企業者と請負者の合同工程会議を開催、工事は順調に進むようになる。無理な工程を鹿島の名誉にかけてもぜひ完成させようと奮闘し、無事故、速成など幾多の記録を作り、改定契約期限昭和13(1938)年7月10日を55日間短縮し、5月14日に停車場区間(達成部分)の完成引き渡しを完了、「企業者同業者に鹿島組の真の力を知らしめた」(『鹿島組月報昭和13年特別号』p59)。鹿島工区は、昭和11(1936)年6月から14年1月に至る約3年の工事で延べ15万人の作業員が働いた。

第五工区渋谷駅高架橋

もうひとつ鹿島が特命受注したのが、車庫、渋谷駅と駅までの高架橋の第五工区である。渋谷駅の始点は、大和田町(現・渋谷区道玄坂1丁目)の道玄坂中腹に設けられる車庫で、玉川電車(現・田園都市線の一部)と並行して走り、玉電ビルの中を通り、省線渋谷駅を高架で越して省線、明治通りを横断、東横ビルの中を通る。この玉電ビルと東横ビルとの間に跨って高速鉄道渋谷駅が設けられる。省線、明治通りを横断する高速鉄道の線路は、高架で、宮益坂の下で地下に潜り地下鉄となる。

渋谷線は、赤坂見附付近から渋谷に向かって徐々に丘陵地帯に入るが、渋谷駅付近は谷になっている。地下を走る地下鉄を谷で下げるのではなく、宮益坂から地上に出て体感的にはほぼ真横に進み、車庫まで走る。省線(現・JR)と東横線の渋谷駅とは垂直で結ばれ、「地下鉄」が「地上3階」にある構造となる。

鹿島では、新橋から秋葉原、上野までの高架、東京市街線を明治後期から大正にかけて施工しており、数多くの橋梁の施工もしている。しかし、ここは下に省線と東横線の線路が走り、路面電車も走っている。企業者からは何かあったら「山手線は全部不通になるんですよ、大丈夫ですか、もし遣り損なったらあなたはどうしますか」(小坂弘『地下鐵道工事報告書 自特許局前-至赤坂見附』p161)と何度も念を押された。第五工区は、昭和12(1937)年1月に契約、全線が開通したのは昭和13(1938)年12月20日であった。
ビルの中腹に地下鉄の電車が吸い込まれていく渋谷の高架橋は、渋谷駅周辺の再開発に伴い、地上からビルに吸い込まれる電車を見ることはできなくなった。開業以来大規模な改良ができず混雑していた渋谷駅は、2020年1月、1面2線の島式ホームとなり、高架橋上に誕生した。ホーム位置を東へ130m移設、高架橋の橋脚数が7基から3基に。バリアフリー化、混雑の緩和、乗り換えもわかりやすくなっている。施工は東急・清水・鹿島JVであった。

図版:国鉄線横断跨線橋作業。奥に鹿島施工東横百貨店がみえる国鉄線横断跨線橋作業。奥に鹿島施工東横百貨店がみえるクリックすると拡大します

図版:地下鉄渋谷駅までの高架橋地下鉄渋谷駅までの高架橋クリックすると拡大します

図版:2013年まで残っていた渋谷高架橋2013年まで残っていた渋谷高架橋クリックすると拡大します

続々伸びる地下鉄

地下鉄道の建設には、莫大な費用が掛かる。昭和16(1941)年7月、鉄道省(現・JR)と東京都が、帝都高速度交通営団を設立。東京地下鐵道、東京高速鉄道、京浜地下鉄道の事業はすべて営団地下鉄に譲り、会社は解散。昭和17(1942)年6月には、営団の新線となる赤坂見附・四谷見附間1.2kmの施工が始まる。そこから新宿まで伸びる路線である。鹿島はこの区間の中の虎ノ門・青山間(原文ママ)を施工するが、第二次世界大戦により工事は中断される。

戦争中銀座四丁目が爆撃される。地下鉄銀座駅の修復は、施工者に変わって鹿島が行った。物資も人力も欠乏している中で、鹿島は快く引き受け、工事を完成させたという。昭和27(1952)年の池袋・東京駅間の着工と共に工事は再開。丸ノ内線が着工され、鹿島は巣鴨、お茶の水、神田川架橋、新宿二丁目を施工、荻窪線では中野新橋、高円寺工区、他に、浅草地下道、操車場も施工した。都営地下鉄、銀座線銀座駅改修などを行い、その後広がっていく各線の施工に携わっている。

大阪市では昭和8(1933)年5月に大阪市営地下鉄御堂筋線の梅田・心斎橋間が開業する。昭和4(1929)年から施工を進めていた日本初の公営地下鉄である。入札で大阪駅前停留場を清水が、淀屋橋を大林が施工した。鹿島は昭和11(1936)年に1号線(御堂筋線)の天王寺・松崎間を施工、戦争で中断したが戦後同線の南天王寺・昭和町一丁目間、昭和町西4丁目・5丁目間を施工している。また、名古屋市営地下鉄は昭和32(1957)年11月に東山線の名古屋・栄町(現・栄駅)が開業、鹿島は名古屋駅内装工事を行った。第二期の栄町・池下間では東新町工区440mを施工している。

札幌市営地下鉄1号線(南北線)北24条・真駒内間12.1kmは、札幌冬季オリンピック前年の昭和46(1971)年12月に開業、鹿島は大通駅を施工している。また、地下鉄は無理だといわれていた埋立地の多い横浜に昭和47(1972)年12月に1号線上大岡・伊勢佐木長者町間5.2kmの地下鉄が開業する。鹿島は上大岡近くの最戸橋工区を施工している。

神戸の地下鉄は、昭和52(1977)年3月に竣工した西神線名谷・新長田間5.7kmに始まる。鹿島では板宿停留場及び地下線路を施工。京都では「古都・京都に交通革命が進行」と言われた。昭和56(1981)年5月に烏丸線北大路・京都間6.6kmが開業し、鹿島は四条駅工区を施工した。

次に地下鉄ができたのは福岡市である。昭和56(1981)年7月に空港線・室見~天神間5.8kmが開業した。鹿島は中洲川端停車場工区を施工している。仙台市の地下鉄は昭和62(1987)年7月に開業した南北線八乙女・富沢間13.6kmに始まる。鹿島は文化財調査区域内の鍋田工区(長町駅・長町南駅間、長町南駅)を施工した。広島は都心部(1.9km)が地下を、郊外部(16.5km)が高架を走る。平成6(1994)年8月、広島高速交通アストラムライン本通〜広域公園前間18.4kmが開業した。白島の手前から本通駅まで1.9kmが地下を走り、本通・県庁前間0.3kmが鉄道事業法に基づく「地下鉄」と定義されている。

海外では、1983年に着工したシンガポール初の地下鉄の107工区をはじめ、台湾・高雄、台北、タイ・バンコク、アメリカ・ロサンゼルスなどの海外の都市でも地下鉄工事を行っている。
地下鉄の工事は基本的な仕組みは、初期の頃と現在で、大差はないかもしれない。しかし、技術も機材も今とは比べようもない時代、果敢に地下工事に取り組んだ先達たちの思いを引き継いで、鹿島は今も各地で地下鉄の工事に携わっている。

図版:バンコク地下鉄車両基地(2001年)バンコク地下鉄車両基地(2001年)クリックすると拡大します

図版:高雄地下鉄CR4(2007年)高雄地下鉄CR4(2007年)クリックすると拡大します

図版:台北市地下鉄蘆洲線CL700B工区(2010年)台北市地下鉄蘆洲線CL700B工区(2010年)クリックすると拡大します

<協力>
地下鉄博物館
土木学会附属土木図書館
日本地下鉄協会

<参考資料>
東京地下鐵道『東京地下鐵道史(乾)』(1934年)
東京地下鐵道『東京地下鐵道史(坤)』(1934年)
東京地下鉄『パンフレットで読み解く東京メトロ建設と開業の歴史』(2014年、実業之日本社)
鉄道省監督局 編『地方鉄道及軌道一覧:附・専用鉄道 昭和10年4月1日現在』(1935年、鉄道同志会)
東京急行電鉄『東京急行電鉄50年史』(1973年、東京急行電鉄)
東京府『東京府統計書 明治43年』(1912年)
花村君追想録刊行会『花村君追想録』(1964年)
鹿島組東京営業所『地下鐵道工事報告書 自特許局前-至赤坂見附』(1943年)
港区立郷土資料館『港区近代沿革図集 赤坂・青山』(2006年、人文社)
川島令三『<図解>日本三大都市幻の鉄道計画』(2008年、講談社)

(2022年6月1日公開)

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