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世界の橋なみ 第4回 アンコール王朝を支えた石橋

写真:プラプトゥス橋(下流側)

プラプトゥス橋(下流側):1960年代に大規模な補修がなされ,近年まで国道6号線の橋として使われていた

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王道をつないだ橋

カンボジア・シェムリアップ郊外,クメール王朝の王宮であったアンコール・トムから半径100kmほどの範囲に,王朝が最盛期を迎えた12世紀末の建設とされる石橋が数多く残されている。その大半は長さが20mほどの小さなものであるが,なかには100mを超える長大橋もある。

アンコールには王都から四方へ延びる“王道”と呼ばれる道路がつくられた。道沿いには宿駅や施療院などの施設が点在していたことが確認できるところもあり,王朝の地方支配や軍の遠征に大きな役割をはたしていたと考えられている。

シェムリアップからおよそ50km離れた町コンポン・クデイには,スピアン・プラプトゥスという橋があり,近年までカンボジアの重要幹線の一環としての役割をはたしていた。スピアンが橋,プラプトゥスが方向を示すという意味であり,コンポンとは船が着く所をさす。ここが水上と陸上の交通の結節点であったことがうかがえる。

写真:上の写真と同じ場所から見た雨季の様子

上の写真と同じ場所から見た雨季の様子
(提供:三輪悟氏)

橋のたもとには10mほどにわたって橋台部にそって階段状の石積みがみられる。橋のところでは意図的に川幅を広げ,川の流れを安定させるために石積みが築かれたと説明されている。一方,これは川に近づくための施設とも考えられる。橋のたもとは船着き場で,荷揚げ場があったとされ,沐浴の場であった可能性もある。

未発達な構造の力強さ

プラプトゥス橋の長さは約85m,幅員は約15m。21径間からなり,橋脚の幅は1.5mほどで,その間の流水幅は2mほど。橋台部の石積みを加えると,川の幅の半分を橋脚が占めていることになる。

橋脚間の距離が極端に短いのは,アーチ構造が用いられなかったためである。アンコールの橋は石のブロックを徐々に迫り出し,両側からもたれかからせるようにした持送り構造となっている。

建築物においても真のアーチは使われていない。あの壮大なアンコール・ワットやバイヨン寺院もすべて迫出しの持送り構造でつくられている。このため大きなスパンを構成できず,膨大な量の石を積み上げてボリューム感あふれる構造体ができあがった。芸術作品としては見る人を圧倒する迫力を生み出しているが,構造としては未発達な状態であったといえる。

写真:スレン橋付近には直線の王道の姿が残る

スレン橋付近には直線の王道の姿が残る

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写真:スレン橋(北西ルート)

スレン橋(北西ルート):高欄は崩れ落ち,橋本体の傷みも目立つが,橋の機能をはたしている

急流に耐える重さ

スパンが短いことから,石橋がダムの役割を果たしていたとする説がある。しかし,上流側に堰としての装置や水を導く水路も見当たらず,ダムを意図していたとは考えにくい。水路の幅が半分近くになっているため,水位が上がると上下流でかなりの水位差が生じる(筆者の試算では70〜80cm)。こうして水が留まることが,結果として上流側の広い地域に水を導くことになったのかもしれない。

大雨になれば,流水孔の上に迫るほど水がくることもあるようだ。橋面が周辺の道路や宅地よりかなり高くつくられているのは,水路の面積を大きくするためと思われる。

また,いくつかの橋を比べてみると,川底からの高さが大きいほど,橋の幅が広くなっている傾向がうかがえる。雨季の急流の水圧に耐えるには,橋の上部を重くして,石どうしの摩擦抵抗を大きくする必要があったと考えられる。高い橋ほど幅を広げ,重量を大きくしたと推測できる。

王宮から北北西へ70kmのところにトップ橋という大きな橋がある。3つの橋が連なり,その長さを合わせると200m近くにもなる。幅16mほどのこの橋は,現在も国道のひとつとして利用されている。

写真:トップ橋中央(左:上流側,右:下流側)

トップ橋中央(左:上流側,右:下流側):上流側の橋脚の石の角がすり減っており,雨季には激しい水流が発生すると推測される

石橋が建設された時代

恒常的な道路を確保することは,王国の統治や遠征には不可欠であった。古くは橋はおもに木造であったようだが,1177年にベトナムのチャンパ軍が侵攻してきたときに多くが焼き落とされたために,その後石橋で復旧されたと考えられている。

象の軍団を通すために強固な石で架けたという説もあるが,これほどの重量のある橋本体を支えているので,2〜3tの象を通すことはたいした負担ではない。寿命の短い木橋より,メンテナンスが少ない石橋を選んだと考えたほうがよい。

建設には莫大な資金と労働量が必要だったはずであるから,王朝の絶頂期の王にしかできなかった事業であったといえる。石橋の分布が王宮からほぼ100km以内に限られているのは,当時の財政力と支配力の限界を示していると推論することもできる。

プラプトゥス橋の上流に架かるタ・オン橋の四隅には,9頭のナーガ(蛇の神)に守られた瞑想する仏の石像が残されている。近くの3つの石橋にもナーガ仏の断片が残っており,これらの建設が,仏教によって国を治めようとしたジャヤヴァルマン7世の時代のものであることを示唆している。

プラプトゥス橋にも同じような彫刻があるが,中央の仏が削り取られてしまっている。これは2代後の王,ヒンドゥー教徒であったジャヤヴァルマン8世の時代に行われた廃仏毀釈によるものと考えられる。タ・オン橋などに残る仏の像は,その破壊活動がそこにまで及ばなかったことを示すものであろう。

写真:タ・オン橋(下流側)

タ・オン橋(下流側):橋脚に沿って水切りのような石積と下流5m以上にわたって石敷きがある

写真:タ・オン橋:橋詰には9頭のナーガに守られた仏の像が残る

タ・オン橋:橋詰には9頭のナーガに守られた仏の像が残る

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写真:アンコール・トムの勝利の門の西側に残るスピアン・トゥモ

アンコール・トムの勝利の門の西側に残るスピアン・トゥモ:砂岩が使われている

写真:アンコール・トムの北門の橋

アンコール・トムの北門の橋:復元されているが,本体はコンクリートで,表面にラテライトの板石を張っただけの言わば「張りぼての橋」。文化財修復の悪例である

松村 博 Hiroshi Matsumura
元大阪市都市工学情報センター理事長。
1944年生まれ。京都大学大学院修了(土木工学専攻)。
大阪市役所勤務,橋梁課での設計担当に神崎橋,川崎橋,此花大橋など。
著書に『日本百名橋』『論考 江戸の橋』(鹿島出版会),『京の橋ものがたり』『大阪の橋』(松籟社)など。

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