王道をつないだ橋
カンボジア・シェムリアップ郊外,クメール王朝の王宮であったアンコール・トムから半径100kmほどの範囲に,王朝が最盛期を迎えた12世紀末の建設とされる石橋が数多く残されている。その大半は長さが20mほどの小さなものであるが,なかには100mを超える長大橋もある。
アンコールには王都から四方へ延びる“王道”と呼ばれる道路がつくられた。道沿いには宿駅や施療院などの施設が点在していたことが確認できるところもあり,王朝の地方支配や軍の遠征に大きな役割をはたしていたと考えられている。
シェムリアップからおよそ50km離れた町コンポン・クデイには,スピアン・プラプトゥスという橋があり,近年までカンボジアの重要幹線の一環としての役割をはたしていた。スピアンが橋,プラプトゥスが方向を示すという意味であり,コンポンとは船が着く所をさす。ここが水上と陸上の交通の結節点であったことがうかがえる。
橋のたもとには10mほどにわたって橋台部にそって階段状の石積みがみられる。橋のところでは意図的に川幅を広げ,川の流れを安定させるために石積みが築かれたと説明されている。一方,これは川に近づくための施設とも考えられる。橋のたもとは船着き場で,荷揚げ場があったとされ,沐浴の場であった可能性もある。
未発達な構造の力強さ
プラプトゥス橋の長さは約85m,幅員は約15m。21径間からなり,橋脚の幅は1.5mほどで,その間の流水幅は2mほど。橋台部の石積みを加えると,川の幅の半分を橋脚が占めていることになる。
橋脚間の距離が極端に短いのは,アーチ構造が用いられなかったためである。アンコールの橋は石のブロックを徐々に迫り出し,両側からもたれかからせるようにした持送り構造となっている。
建築物においても真のアーチは使われていない。あの壮大なアンコール・ワットやバイヨン寺院もすべて迫出しの持送り構造でつくられている。このため大きなスパンを構成できず,膨大な量の石を積み上げてボリューム感あふれる構造体ができあがった。芸術作品としては見る人を圧倒する迫力を生み出しているが,構造としては未発達な状態であったといえる。
急流に耐える重さ
スパンが短いことから,石橋がダムの役割を果たしていたとする説がある。しかし,上流側に堰としての装置や水を導く水路も見当たらず,ダムを意図していたとは考えにくい。水路の幅が半分近くになっているため,水位が上がると上下流でかなりの水位差が生じる(筆者の試算では70〜80cm)。こうして水が留まることが,結果として上流側の広い地域に水を導くことになったのかもしれない。
大雨になれば,流水孔の上に迫るほど水がくることもあるようだ。橋面が周辺の道路や宅地よりかなり高くつくられているのは,水路の面積を大きくするためと思われる。
また,いくつかの橋を比べてみると,川底からの高さが大きいほど,橋の幅が広くなっている傾向がうかがえる。雨季の急流の水圧に耐えるには,橋の上部を重くして,石どうしの摩擦抵抗を大きくする必要があったと考えられる。高い橋ほど幅を広げ,重量を大きくしたと推測できる。
王宮から北北西へ70kmのところにトップ橋という大きな橋がある。3つの橋が連なり,その長さを合わせると200m近くにもなる。幅16mほどのこの橋は,現在も国道のひとつとして利用されている。
石橋が建設された時代
恒常的な道路を確保することは,王国の統治や遠征には不可欠であった。古くは橋はおもに木造であったようだが,1177年にベトナムのチャンパ軍が侵攻してきたときに多くが焼き落とされたために,その後石橋で復旧されたと考えられている。
象の軍団を通すために強固な石で架けたという説もあるが,これほどの重量のある橋本体を支えているので,2〜3tの象を通すことはたいした負担ではない。寿命の短い木橋より,メンテナンスが少ない石橋を選んだと考えたほうがよい。
建設には莫大な資金と労働量が必要だったはずであるから,王朝の絶頂期の王にしかできなかった事業であったといえる。石橋の分布が王宮からほぼ100km以内に限られているのは,当時の財政力と支配力の限界を示していると推論することもできる。
プラプトゥス橋の上流に架かるタ・オン橋の四隅には,9頭のナーガ(蛇の神)に守られた瞑想する仏の石像が残されている。近くの3つの石橋にもナーガ仏の断片が残っており,これらの建設が,仏教によって国を治めようとしたジャヤヴァルマン7世の時代のものであることを示唆している。
プラプトゥス橋にも同じような彫刻があるが,中央の仏が削り取られてしまっている。これは2代後の王,ヒンドゥー教徒であったジャヤヴァルマン8世の時代に行われた廃仏毀釈によるものと考えられる。タ・オン橋などに残る仏の像は,その破壊活動がそこにまで及ばなかったことを示すものであろう。