第17回 留萌築港-日本初、請負で施工した港

留萌市は北海道の日本海側、留萌川の河口に広がる人口26,000人の町である。
現在の留萌港はロシアや中国からの大型石炭運搬船が寄港するニシン水揚げ日本一の輸入港だが、もともとは 昭和初期に石炭を積み出すための港として整備された。
今回は、大型港湾工事が役所の直轄工事ではなく建設会社に発注して作られた日本初の港・留萌港と、日本の港の歴史を探る。

昭和6年9月北壁ケーソン前にて 昭和6年9月北壁ケーソン前にて クリックすると拡大します

留萌港

鎖国時代の港

徳川時代幕府は鎖国を守り、諸大名に攻められないようにガレオン船(*1)の製造を禁止した。出島のある長崎を除き、日本の港に就航する大型船は北前船 (*2)など日本沿岸のみを航行する和船(*3)だけとなってしまう。

それまで日本の臨海工事のほとんどは、海を埋め立てて土地を作ることと小型の船溜を作ることに過ぎなかった。築港といえるほどの工事は少なく、1173年に平清盛が福原遷都(*4)のため大輪田の泊の沖に島(経が島)を築いて防波堤を作ったのが史実に残る最初の築港であるといわれる。塩槌山を切り崩し、沖に島を作ろうとするが土砂は潮に流され、工事は難渋する。人柱を立て、それを嘆く人々が経文を書いた石を投げ入れ、島はようやく完成する。神戸港の原型であった。

*1 竜骨(船底を船首から船尾に通す構造材)を使った船底が尖った波の揺れに強い船、現在の大型船の原型。
*2 北陸・東北の木材・米穀、蝦夷地の海産物を上方に運ぶ「登り荷」と、上方の塩・鉄・砂糖・綿・反物・畳表等の雑貨を北陸・東北・蝦夷地に運ぶ「下り荷」。他に菱垣廻船(上方の生活雑貨を江戸へ)、樽廻船(灘の酒を江戸へ)などがあった。
*3 別名弁才船、千石船。大きな帆柱と帆、反り上がった船尾が特徴。風上へも「間切り」で航行できた。
*4 現在の兵庫県神戸市兵庫区あたり。『平家物語』の都遷(みやこうつり)

桟橋しかない日本の港

日米修好通商条約の後も港湾設備は江戸時代のままで、桟橋のある波止場程度のものを港と認識していた。間知石張(*5)や階段式護岸(*6)の港に大型船は停泊できず、欧米のような船溜まりや倉庫など諸施設を擁する港湾は存在しなかった。海外ではすでにシェルブール港(仏)が1687年、プリマス港(英)が1812年に修築工事を行って、大型船が就航する近代的な港になっていた。

殖産興業・富国強兵を進める明治新政府は外国貿易を視野に入れた海運業に力を入れようとしていた。しかし近代的な港湾設備の建設には資金だけではなく、大型で吃水の深い洋式蒸気船を接岸する岸壁や港湾設備、防波堤を建設するための知識と経験が必要だった。それに加えて日本は島国で、工事中も太平洋や日本海の荒波と台風にさらされる。明治17(1884)年の野蒜築港の「壮大な失敗」(*7)など様々な苦節を経て、日本の港は明治時代に次々と修築されていった。

*5 けんちいしばり 石垣の組み方。間知石はひかえ(胴長。石積みの石の奥行き部分)を楔形(角錐形)に切割したもの。
*6 汐の干満の影響を受けず荷揚げできる利点があった。現在は親水性護岸、環境配慮型護岸として復活。
*7 東北開発の目玉としてオランダ人技師ヴァン・ドールンが宮城県石巻と塩釜の中間・野蒜に日本初の洋式港湾を計画。場所も含め計画を懸念する者が多かった。明治11年7月着工するが予定通りに進まず、明治17年の台風で大打撃を受ける。長期の修復と膨大な費用を鑑み工事断念。工費は既に68万円(現在の金額で60億円程度か)に達していた。

ルルモッペ

アイヌ語で静かなる川(ルルモッペ)という名の留萌に和人が住み出したのは1630年ごろからで、幕末には留萌川河口に多くの千石船が停泊して賑った。明治2(1869)年に留萌(るもえ)と命名される。明治中期には海産物や木材などの増加に伴って海運業者や倉庫業者が進出し、交通・商業の要衝として栄える。たくさんの船が、蛇行する留萌川の河口の両岸に杭を打ち連ねて係留されていたという。しかし留萌海岸は世界3大波濤(*8)のひとつに数えられるほどの荒海である。特に冬の日本海は時化がひどく、外海の影響を受けない近代的築港の必要性に迫られていた。

明治23年、留萌の有志は留萌港修築の嘆願書を第2回帝国議会に提出する。その後も請願が続けられ、港湾修築が始まったのは明治43年のことだった。南北防波堤・砂防堤・南北岸壁の建設、留萌川切替、内港の浚渫が進められるが、計画は財政事情と施工中の調査結果によって再三変更される。計画期間も昭和2年度までに延長された。そして、昭和2年~7年の第2期拓殖計画がはじまる。

その中には留萌港の修港計画も含まれていた。しかし、海陸連絡事業の構想は盛り込まれていない。必要性を感じながらも財政が苦しかった北海道庁は、留萌・雨竜など未開発炭田の所有者三井・三菱・安川・浅野・住友・大倉の6大炭鉱業者に、炭鉱線の付設と留萌港の海運連絡事業計画を打診する。翌昭和3年3月留萌鉄道会社(*9)設立。内陸の炭田から留萌本線恵比島駅までの20kmの炭鉱線と、留萌駅から留萌港南北岸壁に至る1.2kmの海岸線、加えて石炭運輸促進のため留萌港の荷役設備が計画される。

*8 秋から冬に強い西風が波を荒げて押し寄せる。インド・マドラス、スコットランド・ウィックと並び世界三大波濤と称される。
*9 詳細は「こぼれ話」参照

民間の手で留萌築港

昭和4年5月、留萌鉄道会社は港湾岸壁築造工事の実施に踏み切る。従来この種の海工事は工事費、工期とも予め掴みにくいため、内務省や北海道庁の直轄施工であった。それが炭鉱線付設に留萌港整備も含まれた事業となったために、日本ではじめて民間業者である鹿島が施工することとなる。港湾工事としては珍しい大工事のため、鹿島組幹部の張り切り方も格別であったと伝えられる。6月には留萌派出所が開設された。

工事内容は北岸430m(鹿島施工)、南岸290m(鹿島施工)+90m(北海道庁直営)の岸壁の施工と、それに沿う形のコンクリート製石炭桟橋の建設(北岸430m、南岸390m)と荷役設備。北岸岸壁の基礎は10m×6m×8mのコンクリートケーソンで、鹿島組はその製作、据付も行った。

南岸壁高架桟橋工事(昭和5年) 南岸壁高架桟橋工事(昭和5年)

北岸ケーソン進水1(鹿島組月報昭和4年10月号より) 北岸ケーソン進水1(鹿島組月報昭和4年10月号より)

北岸ケーソン進水2(鹿島組月報昭和4年10月号より) 北岸ケーソン進水2(鹿島組月報昭和4年10月号より)

北岸ケーソン進水3(鹿島組月報昭和4年10月号より) 北岸ケーソン進水3(鹿島組月報昭和4年10月号より)

ケーソンコンクリート充填(鹿島組月報昭和4年10月号より) ケーソンコンクリート充填(鹿島組月報昭和4年10月号より)

カネナイアルイテオイデ

入社3日目の鍵山東平(*10)は、今夜すぐ留萌へ赴任せよと命令を受け、布団と行李を上野から送って夕方の寝台車に乗りこんだ。現場では作業員出勤前に検査や段取りを調べるため、毎朝人の顔も定かではない明け方に起き、飯を頬張りゲートル片手に霜を踏んで現場に出た。星を仰ぐまで働き、風呂は先輩が入り終わった最後だった。冬の北海道は遊びだと聞いていたので、早く冬が来いと心密かに念じていたが、もちろん遊びのはずはない。朝早く馬橇で骨材が届けられ、一日中その検収をする。夏に使う骨材の準備は冬中続けられた。便所掃除では、つるはしで大小便を叩き割って裏の畑に積んだ。夕方早めに事務所に戻り、暖かい三平汁(*11)で腹ごしらえをするのが冬場の何よりの楽しみであった。安物のスキーを買って夕食後月明かりの中、坂道で一人練習するのも楽しかった。日本海から吹き抜ける寒風、4-5mも積もる雪。耳は凍傷にかかり、冬になると血が出るのは生涯治らなかったという。

仮営業中の海岸線のレールを1本ずつ検尺中、列車から汚物を吹き付けられた者もいる。「寒いと思えば寒い、暑いと思えば暑いのだ。なにごとにも意気がなくてはならん。現場はみな戦場だからあくまで戦わなければならない」と札幌出張所長の渡辺喜三郎(後の副社長)は皆にはっぱをかけた。

当時は世界恐慌と浜口内閣の緊縮財政などで慢性的不況に陥っていた。金回りも悪く、ここに限らず現場では3か月に一度くらいしか月給が出なかったが、それでも皆一生懸命働いた。特に北海道の工事は全般的に赤字の時代。ある者は、札幌に打ち合わせで出張するが現場には旅費用現金がないので送ってくれと札幌出張所に依頼すると折り返し「カネナイアルイテオイデ」と電報が来てぎょっとしたという。まだこの留萌築港が赤字か黒字か、楽観が許されない時期であった。

*10 鹿島組月報によると鍵山は「昭和4年12月31日工務員に採用す。札幌へ」となっている。昭和38年四国支店土木部次長を最後に勇退。
*11 さんぺいじる 北海道の郷土料理。塩鮭、大根、人参、じゃが芋などを煮込んだ汁。酒粕を入れる場合もある。

そして完成へ

昭和7年5月、津軽海峡を渡って北海道に入った山形明雄は、車窓に残雪と水芭蕉の花、ただ広い空知平野を見ながら深川駅で留萌線に乗り換え、夕方留萌駅に到着する。当時の人口は2万人足らず。汐の香と鰊の魚臭さが漂う町は活気にあふれていた。山形が担当したのは北岸の石炭桟橋建造で、延長430m高さ4mの桟橋を留萌駅から引き込む。基礎には12mの木杭を50本打ち込むのだが、留萌川の流芯に当たる場所のため杭の打ち溜が悪く、増杭しなければならなかった。

作業は毎朝6時に始まる。一人1日分割当られた掘削量を掘削する。腕力のある者は一度に大量の土砂を動かしていく。6か月間世間と隔絶しての重労働(*12)である。浚渫船の海上作業員には時間外30分刻みの残業賃金を支払うため、浚渫費勘定の増大に頭を悩ませた。昭和5年5月20日付の通牒によると、18~24時、24~6時の夜間勤務者に「組員1円傭員70銭上限ヲ月15回トシテ支給スルコト認可相成候」とある。この時代まだ通達は候文だった。

昭和7年11月に工事は竣工し、石炭列車が続々と桟橋の上に到着し、船積みを待つようになった。

南岸壁(昭和9年ごろ) 南岸壁(昭和9年ごろ)

昭和11年には国際貿易港の指定を受け、15年には石炭積出量が90万tに上る。留萌鉄道海岸線はその後留萌駅の構内線となったが現在は使われていない。
留萌築港と留萌鉄道の感謝状(*13)は、昭和20年5月の戦災で焼失するまで社長室に飾られていた。

*12 いわゆる「タコ部屋」は明治時代の話で、大正3年4月北海道庁は労働者募集紹介雇傭取締規定を制定。それ以降北海道の土工管理は官の厳重な管理を受けることになる。鹿島組では組長以下皆「タコは組の宝」として大切に面倒を見た。5月から10月が労働期間で、食事は4,9,12,15,18時の一日5回だった。
*13 (前略)普通行わるる入札の方式によらず、之を資力及び技術において信頼するに足れる請負人に特命して設計監督の全責任を負わしむる得策なるを認め、まず貴社の見積を徴したるに、価格極めて適当なりしを以って、直に全般の工事施工を貴社に委託するに至りたり。然るに貴社においては特に多年設計監督の経験を有する老練堅実なる技術家を派遣し、厳重に監督指導して完全なる工事を遂行し、且つ設計変更官庁に対する手続き成功図及び明細書の調整等一切の事務を処理したるを以って、当社としては一方において請負入札に伴う諸種の弊害を免れたるのみならず、他方において監督費を節約し、全く所期の目的を達することを得て真に欣快に堪えず。依ってその事実を明記して、貴社の優秀なる技術と誠実なる施行に対し、深甚なる感謝の意を表す。(原文旧仮名遣いカタカナ)

参考図書
廣井勇『日本築港史』(1927年)、永淵徳『永淵清介追懐録』(1956年)、菅野忠五郎『鹿島組史料』(1963年)、渡辺喜三郎氏追想録編集委員会『追想 渡辺喜三郎』(1966年)、藤村定子『追想 藤村久四郎』(1979年)、高崎哲郎『評伝 山に向かいて目を挙ぐ 工学博士廣井勇の生涯』(2003年)、『鹿島組月報』

(2007年12月26日公開)

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