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発災−現場では

現場管理には自然災害への対応が不可欠だ。
東北支店でも,この震災で被害を受けた現場は多い。どのように対応したのか。
2人の現場所長に,発災からの状況を振り返ってもらった。

地図

「名取川藤塚地区貞山運河水門新設工事」は,仙台市若林区で行われている名取川改修事業の一環で,堤防と水門を構築する工事。海岸線から400mほどの位置にある。2週間後に竣工を控え,仮締切撤去の作業が行われていた。津波で,現場のクレーンとトラック,バックホウ各4台がすべて流された。その後の被災調査では,地震と津波の影響で,構築した擁壁に50cmのずれが生じるなどの被害が判明している。

現場一帯はもともと津波の危険区域になっていた。行政によれば,近海で大きな地震が起きた場合,発生から数分で3~5mの津波が到来し周囲が水没する可能性がある。現場は,震度4以上の地震が起きた場合,作業員が各自の判断で避難するようにルールを整えている。海岸線から2.5kmほど離れた仙台東部道路下の車通りが少ない場所に集合するように設定していた。事務所に隣接した県道沿いには防災無線も設置されていた。

発災時,現場事務所にいると激しい地震が起こり,身を低くして揺れに耐えた。その直後に「10mの津波」と防災無線から避難勧告が流れる。即時避難しなければならない。事務所には1人の来客と私を含めたJV職員が3人。事務所から約1km離れた現場では,28人が作業を行っていた。携帯電話で連絡を取ろうとするが,現場にはつながらない。天野政好副所長が現場に車を走らせて作業員に避難を指示し,残った私と職員2名は各々車を運転し,来客を誘導しながら避難した。集合場所の高速道路高架付近に,現場から作業員らが集まってくる。人員確認を済ませ,様子をうかがっていた15時50分,「ここでは危ない!」と通りかかった消防団から退避を勧告された。できるだけ海から遠くに退避しようとしたが,道路が渋滞している。近くの中学校まで退避する指示を出し,再度全員で避難した。

東北支店に安否の連絡を試みたが,携帯電話は一切つながらない。17時頃になって,遠くのほうで草葉などを巻き込みながら,津波がゆっくりと田んぼを塗りつぶしてくる様子が確認できた。わき道で通れそうな道を見つけたので,ここに留まっていても危険が増すだけと判断し,解散を決意した。「わき道を抜けたあとはできるだけ高台を通って帰れ!」。普段通る道路ではなく,海岸線から遠ざかるようにそれぞれが自宅や会社への帰路についた。私は支店に戻り,「中学校まで退去し,その場で解散した」と報告した。

写真:貞山運河水門新設異工種JV工事事務所 千葉孝志 所長

貞山運河水門新設異工種
JV工事事務所
千葉孝志 所長

翌日,最初に集合した場所を遠くから眺めると,完全に水没していた。消防団が通りかからなかったらどうなっていただろうか。次に避難した中学校は当日の夜は孤立状態になったと聞いた。現場への道路を探しているうちに余震が起き,津波警報が発令されたため現場に行くことを断念した。その後も道路ががれきで埋め尽くされて,なかなか現場には入れなかった。現場付近の集落はすべて津波で水没していた。

もともと宮城県沖地震は起こるとされていたが,想像をはるかに超えた規模の災害だった。長時間大きく揺れ,10m級の津波。しかし,津波到来までに時間があったのが救いだった。「車に乗って逃げてはいけない」と通常いわれているが,今回の津波は海岸から4kmまで押し寄せた。徒歩による避難では間に合わなかっただろう。平坦な地形で車の往来が少なかったために,車で避難できたのが幸いした。同じ日に3度退避指示を出すことになるとは思わなかったが,来客も含め,現場全員の無事が確認できて安堵している。

写真:被災後の現場事務所

被災後の現場事務所

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「(仮称)宮城県教育・福祉複合施設新築工事」は,宮城県名取市で行われている工事。海岸線からは3kmほど離れている。2012年2月完成予定で,基礎地中梁まで完成し,当日は柱筋の建てこみなど躯体工事が進められていた。津波はここまで押し寄せた。基礎躯体が5cmほどの泥をかぶり,雨水管や下水管などが使用不可能になっているため,震災後は工事を一時中止している。

3月11日14時46分,現場事務所2階でサッシュメーカーと打合せ中に激しい揺れに遭遇した。3分以上揺れてソファーに座っていられない。仮設事務所が倒れると思い,一瞬死が頭をよぎった。窓から見える150tクレーンが大きく揺れている。倒れないでくれ!と祈った。

ようやくおさまったことを確認し,外に飛び出し事務所をみると,事務所位置が30cmずれていた。作業員の安否とクレーン,仮囲いなどの状況確認を急いだ。周辺道路が一部陥没していた。

車のラジオをつけると,15時40分に高さ10mの大津波が来るという。沿岸からは3km。「ここまでは来ないだろう」と思いながら,現場全員ですぐ近くの空港アクセス線美田園駅に避難した。

16時まで避難していたが,津波は来なかった。家族を心配する作業員も多かったので事務所に戻り解散した。海から離れた西側の山を通って帰るよう指示すると,110人のうち40人が帰宅していった。

しばらくして,現場に隣接するマンション住民から「津波が来た!」と声が上がった。500mの距離まで到来していると聞き,皆で走った。通りを歩いている人たち,車で通る人たちにも声をかけながら,子供の手を掴み,4階建てのマンション立体駐車場に逃げ込んだ。現場関係者70名と付近を歩いていたマンション住民25名,一般の方々10名程度が駐車場の屋上に避難した。

田んぼの上を,光を帯びた低い水が迫ってくる。道路が川のようになっていく。20cmが80cm,どんどん水位が高くなっていった。最終的には120cmくらいになっただろうか。その後も水は引かず孤立した状況で,夕方から雪も降り出した。あまりの寒さに,隣のマンションに移る決断をした。マンション屋外階段までは1m程度で,跳べば届く距離。足場板を渡せば十分に渡れる。作業員2名が170m離れた現場から足場板を持ってくると手を挙げた。1時間後,胸まで冷たい水に浸かりながら作業員が運んできた数枚の足場板を使い,マンションに渡る。販売事務所に子供や女性,年配者がいることを伝え,避難場所として一時的にモデルルーム3部屋を開放してもらった。

写真:(仮称)宮城県教育・福祉複合施設建設JV工事事務所 伊藤文昭 所長

(仮称)
宮城県教育・福祉複合施設
建設JV工事事務所
伊藤文昭 所長

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全員が足場板を渡ってマンションに移動することになった。子供は10人くらい。泣いていた子供たちは,真っ暗な中で4階の高さの足場板を渡るとき,泣きやんだ。渡ることに集中し,泣くことも忘れていた。マンション住民は「不安だ」と自分の部屋に戻らず,その後も行動を共にした。

夜中の2時頃,一息ついてまどろんでいると,作業員から「鹿島の社員が寝ちゃだめだ!」と一喝された。ラジオから「仙台市若林区荒浜で遺体300人」とニュースが流れる。信じられなかった。電話もメールも通じない。なんとか安否を伝えようと皆で繰り返し電話をしていると,1人の電話が支店につながり,無事を伝えることができた。

その後,子供や女性,年配者が寒いだろうと,自分たちは濡れながらも数名の作業員が事務所に行き,防寒着を30枚ほど持ち帰り,配っていた。朝5時頃になると,水は長靴で歩ける程度まで引いていた。

8時頃,マンション住民と一般の方々も帰宅し,我々も掃除に来ることを伝えて引き揚げた。なんとか被災後の一夜を無事に乗り切ることができた。住民の皆さんからは,「助かった」「ありがとう」「ご苦労様」の声を多く頂いた。現場は,泥と流木に覆われ,33台の自動車が水没していた。しかし,全員無事だった。

自分の判断が最適だったのかはわからない。だが,ひとつわかったのは,非常のときこそ現場の長として冷静な判断が必要であり,動じてはいけないということ。「自分の判断で犠牲者が出るかもしれない」。そんなときこそ,周囲は決断を待っている。

初めて見た津波。思い出すと震えが止まらない。

写真:避難した立体駐車場の屋上から撮影。迫ってくる津波

避難した立体駐車場の屋上から撮影。迫ってくる津波

写真:被災した現場の様子。隣接するマンションで一夜を明かした

被災した現場の様子。隣接するマンションで一夜を明かした

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