ため息橋
ヴェネツィアの観光は大抵,ドゥカーレ宮からはじまる。ここは,選挙で選ばれた一代限りの国家元首であるドージェ(総督)が住み,行政,立法,司法の機能が集中するヴェネツィア共和国の中枢機関であった。
その宮の東側に狭い運河を跨ぐ,ため息橋(Ponte dei Sospiri)と呼ばれる橋がある。ドゥカーレ宮の2階部分から東側の新牢獄へ通じる廊橋で,17世紀初頭に完成した。
いろいろな形の彫刻で飾られたバロック調のデザインは,ヴェネツィアンゴシックの宮とはやや異質である。橋の名前の由来は,ドゥカーレ宮の裁判所で有罪判決を受けた囚人が東側の牢獄に収監されるためにこの橋を渡るとき,美しいヴェネツィアの風景の見納めになると,ため息をついたことによると言われている。
太鼓橋
ヴェネツィアの都市づくりの歴史は10世紀以前にさかのぼる。町の建設は水際からはじめられ,やがて島の内側にも建物が建てられるようになると,道や広場が整えられ,島どうしを結ぶ橋が架けられることになるが,船のさまたげにならないように太鼓橋にする必要があった。
古くは木の橋が多かったが,その名残をとどめる古い形式の橋がアルセナーレ(造船所)の運河からの玄関口のすぐ内側にあって,最初の橋と呼ばれている。その南側にはパラディーゾ橋という逆V形式の木橋が架かる。
ねじれた橋
運河で分けられた各地区の開発の状況が異なり,広域の都市計画が行われることもなかったため,道をつなぐ橋を斜めに架けざるをえない場所も多くあって,多くの「ねじれた橋」,すなわち「筋違橋」が見られる。
自動車も自転車も役に立たないヴェネツィアは歩行者天国だが,日常の生活には不便も多い。橋を渡るたびに10段ほどの石段を上り下りすることになるが,杖をついた老人は片手で手すりにつかまりながらゆっくりと上り下りしなければならないし,乳母車を引いた人たちは車を担いで渡さざるをえない。
大運河の橋
ヴェネツィア本島をふたつに分ける大運河には3本の橋が架けられている。そのひとつ,リアルト橋はヴェネツィアを象徴する構造物である。この場所に初めて橋が架けられたのは12世紀後半のことだが,現在の橋は幾人もの建築家の提案の中からアントニオ・ダ・ポンテの案が採用され,1592年に完成した。橋の上には中央の通路を挟んで多くの店が並び,両岸の町並と一体化している。
ほかのふたつの橋のうち,サンタ・ルチア駅のすぐ近くに架かるスカルツィ橋はイストリア産の白い大理石が使われた明るい印象の橋である。それと対照的に,アカデミア美術館の前に架けられたアカデミア橋は木製アーチの外観が落ち着いた雰囲気をつくっている。
げんこつ橋
サン・バルナバ運河に架けられたプーニィ橋,訳すと,げんこつ橋は,16~17世紀にかけて,大勢の市民が二派に分かれて橋の上で殴り合う「橋の上の小さな戦争」の舞台となった。ヴェネツィアの人々は,ほぼ東西に二分する地域への強い帰属意識を持っているが,その両派がいろいろな地区と職業集団の人々を巻き込み,日を決めて特定の橋に限定して,その橋を占拠するために大乱闘を繰り広げた。少なからず死傷者が出た。当時のヴェネツィアは,他都市との競争や対外戦争などで好戦的な気分が横溢しており,国内での「小さな戦争」は,対外的な発展へのエネルギーに転換する効果もあったようだ。
運河沿いの道と橋
時代が進むと,荷役の利便や共用空間の確保のために運河に沿った道,フォンダメンタが整備されるようになる。比較的新しく開発された北西部では運河の幅も広く,運河沿いの道が通じているところが多い。そのひとつ,カンナレージョ運河にはヴェネツィアでは珍しい3連アーチの,その名も3アーチ橋と,四隅にオベリスク風の石の塔が建つグーグリエ橋が架かる。
ドゥカーレ宮から東方面には,ビエンナーレ会場まで続くスキアヴォーニ通りが通じ,広々とした気持ちの良い散歩道になっている。この通りに沿って,いずれもイストリア産の大理石でつくられた幅の広い,美しいアーチ橋が並んでおり,橋の名前にはパッリア(藁),ヴィン(ワイン)など,かつてここに荷揚げされた商品を示す名前が残る。最も東に位置するヴェネタ・マリーナ橋は,側面にヴェネツィアの象徴である翼をもったライオンの浮彫がほどこされた美しい橋である。