福島第一原子力発電所で,作業に従事してきた社員・関係者は,どういった思いで作業を進めているのか。
安定化の最前線で工事に携わる所長に集まってもらった。
出席者
進行役 岩本 豊 広報室長
手作業でがれき撤去
岩本 本日は,福島第一原子力発電所の安定化に励んでいる所長の皆さんにお集まりいただきました。まずは,現在取り組んでいることを紹介してください。
西川 建築の統括事務所長を務めています。私の役割は,各工事の全般調整や情報共有です。18年前から東京電力の現場を担当しています。都心で地下に変電所をもつ事務所ビルやマンション,常陸那珂火力発電所を経て,2012年4月にここに着任しました。
岡田 3号機カバーリング工事を担当しています。私は,2001年から柏崎刈羽原子力発電所におりました。その後,当時福島第一の支援拠点になっていた営業所の応援に行くことになり,復旧プロジェクトに携わるようになりました。カバーリング工事がはじまって,派遣される社員が決まったのに迎える人がいないということで2011年6月に福島に来ましたが,人手が足りずにとても帰れる状態ではなかった。そのままこちらで対応を続け,所長の辞令が交付されて今に至っています。
涌澤 私は,震災後から様々な緊急対応工事に従事してきましたが,現在は主にサブドレン浄化設備の建屋新築工事を担当しています。2008年に中越沖地震の対応で柏崎に赴任して,その後,大間原子力発電所に行きました。震災後は岡田所長と同様に営業所を手伝って,2011年4月7日に3日間だけ福島の応援という話でしたが,それ以来,こちらに勤務しています。
岡田 東京電力から鹿島に技術員の派遣要請があって涌澤さんが派遣されたわけですが,営業所の会議室でみんなが手を挙げるなか,涌澤さんに決まりました。
涌澤 そんなに長くいる予定はなかったのですが,来てみたらすべきことは驚くほどありました。すぐに免震棟の遮蔽をしようという話になりましたね。やはり赴任直後が一番厳しかったですね。
岡田 マスクの跡が1ヵ月くらい消えてなかった。ギュッと締めすぎちゃって。
涌澤 来たばかりでマスクの正しい装着方法さえわかりませんでしたから。
岩本 土木はいかがでしょう。淺村さんは凍土壁,田中さんが遮水壁を担当している。
淺村 私は震災直後の3月26日に一度ここに着任して,荷役運搬や給油所設営,震災車両撤去,防潮堤構築などのお手伝いをしました。その後,半年ほどで支店に戻りましたが,この10月に再び着任しまして凍土壁の構築を担当しています。現在,本体の凍土壁をつくるための実証実験を行っているところです。
田中 私が福島第一に着任したのは2006年で,東日本大震災では現場で実際に被災しました。この日は5号機変圧器の耐震工事が終わった翌日で,ラジオで津波が来ると聞いて避難しました。海面上昇が一目瞭然で見たことがない光景でしたね。作業員の大半が地元の人ですから早く帰れと指示して,自分は現場を見に行った足で免震棟に行きました。夜になって5,6号機の中央操作室に続く道路が段差になって車が通れないと修復を依頼されて,すぐに重機を取りに行って復旧させました。
岩本 その後も現場にいたのですか。
田中 ええ,おりました。タービン地下室が浸水しているから水中ポンプがほしいといわれたので,リース業者で調達しました。私は電気が専門ですから自分で配線しようと2号機タービン建屋に行くと,およそ50人が5m間隔に並んで電源車につなげるケーブルを運んでいました。私も混ざって水浸しのなかで運んだのを覚えています。余震のたびにタービン建屋2階へ避難して,また戻って。それを繰り返していたら朝になった。
岩本 この日の朝に,退避命令が出ました。
田中 そうです。それで鹿島社員は葛尾村にある菅野浩所長の自宅に避難したところ,1号機が爆発した。会社に応援要請しようと話をしていたら,会社から土木工事事務所の日比康生所長に連絡があって現場に戻れと指示がありました。流木が散乱して,炉を冷却する消防車が通過できないので撤去するようにと。東京からバックホウを2台入れて,みんなで分担して撤去作業をしました。そうして作業をしていた3月14日,3号機が爆発した。
岡田 爆発を直接見たわけですか。
田中 凄まじい光景でした。驚いたのはドーンという爆発音ですね。私は東京電力の社員と一緒に免震棟に戻りました。モクモクとした煙の下を車で通ったのを覚えています。夕方に2号機が危険ということで,後にフクシマ50(フィフティ)といわれる人たちだけを免震棟に残して全員退避しました。後日,鹿島は何もせずに逃げたという報道がありましたが,それは事実ではありません。私は日比所長と一緒でしたが,日比さんが手作業でがれきを撤去していた姿を思うと,本当に悔しかったですね。
岩本 日比所長にも参加していただきたかったのですが,本日は現場の都合で残念ながら欠席です。
無人化施工と部署の連携
岩本 岡田さんは最初に3号機を見てどう思いましたか。
岡田 途方に暮れたというのが正直なところです。新築にしても解体にしても,建物を想像して工程表を引くとなんとなく自分で工事の進捗がイメージできるものですが,現地で3号機を見たときは愕然としました。周りにがれきが散乱して,建屋の上には柱がぶら下がっている。どこから手をつけたらいいのかと。課題を一つひとつ丁寧に片づけていくしかないと思いましたが,環境も厳しい。現在の6倍くらいの放射線量がありました。
岩本 線量が高いなかで,どう作業を進めていくか。ここで無人化施工が登場します。
淺村 無人化施工は,もともと雲仙普賢岳の噴火復旧作業などで使われていた技術です。しかし,オペレータ車と機械が30mくらいしか離れられない。これではこちらも被ばくしてしまいますし,給油・メンテナンスでも被ばくしてしまう。
岡田 最初はそうでしたね。飛散防止剤を撒いたのも遠隔操作ですが,やはり数十m離れた遮蔽トラックの中で操作していました。これではあまり使えないと,東京建築支店機材部の領木紀夫次長が苦心惨憺して完全に離れたところですべてをオペレーションできるシステムを確立した。さらに応用されてがれき運搬も全自動化されています。鹿島がすごいと思ったのは,それぞれの部署に様々な人材がいるというところ。技術研究所や機械部,ITソリューション部とそれぞれがノウハウを持っていて連携できる。
西川 連携という意味でいえば,現場では土木と建築が力を合わせてやっています。全国でもここまで協力しているところはないと思います。土木で社員が足りないということで建築系社員に手伝いにいってもらったこともあります。
岩本 他の工事の状況はどうでしょうか。サブドレン浄化設備というのはどういったものでしょう。
涌澤 サブドレンというのは井戸です。構内には井戸がたくさんありまして,そこから揚げた水を浄化する設備がサブドレン浄化設備です。これを格納する建屋が今回の工事です。
西川 これは新築工事ですが,ほかにも雑固体廃棄物焼却設備というものも当社で建設中です。これはタイベックやマスクのような使用済み保護衣などを燃やす施設です。
田中 海側の遮水壁は,直径1.1mで長さ約25mの鋼管矢板を404本打設して遮水します。鋼管矢板の打設はほぼできていて,あとは背面の埋立てですね。
岩本 これだけの遮水壁をやりながら凍土壁も進んでいきます。凍土壁は大変な作業だと思いますが。
淺村 完成した発電所構内に遮水壁をつくるだけでもほとんど例がありません。原子炉建屋の周囲には非常に重要な配管ケーブルがありますから,凍土壁のルート選定からはじめる必要があります。構内では様々な作業が行われていますし,関係者と調整して進めていく難しさはあります。
岩本 そういう諸条件は別にしても,技術自体は確立されたものですよね。
淺村 そうですね。凍結工法自体は一般的な工法でトンネルなどに使われています。ただし,深さ30mで延長が1,600m。面積がおよそ4万5,000m2ですから規模が違います。技術的課題は少なくないと思いますがなんとしても成功させたいですね。
放射線管理と人手不足
岩本 当初から線量管理は厳密にしてきたわけですが,もともとそういうシステムがあったわけですか。
岡田 震災前は鹿島自身で管理はしていなかったですね。専門業者にお願いしてやっていましたが,震災後は他ゼネコンとも相談・協力しながら線量管理を進めてきました。
西川 ゼロから放射線チームを立ち上げて,データベース化できる管理システムを構築しましたが,他社からも問い合わせがあるくらい使い勝手のいいシステムになっています。
岩本 現地の作業は時間制限があるのでしょうか。
岡田 1日の被ばく量に上限値を定めていますので5分限りという場所もあります。
西川 計画上は,1日の最大線量2.8ミリシーベルトですね。年間で最大40ミリシーベルトですから1日に2.8ミリも浴びたらあっという間にオーバーします。やはり管理が大切になります。
岡田 当初は,作業員も2週間でローテーションしないとプロジェクトが成り立たないとシミュレーションしていました。
西川 ほかの現場では考えられない仕事でしょうね。線量から逆算するなんて。
涌澤 5年80ミリが上限だから,初期のころは社員も3年いられないって計算しましたね。3年で全員代わるだろうと。
岩本 各支店の方々に手を挙げてきていただいていますが,なかには,家族が線量を心配される例もありそうです。
涌澤 私も着任時は,親にいえませんでしたよ。
岡田 あるでしょうね。それで諦める人もいるかもしれないが,見てきたことを正確に伝えて安心してもらっているという人もいます。
岩本 それだけしっかり線量管理をやっているということですか。
岡田 不安で来たが,支店に戻ったらここの状況を正しく伝えるという人が多いです。管理がしっかりしているから安心するよう話すと。
岩本 線量は下がってきたのでしょうか。
西川 全体的に数値は下がっていますが,場所ごとに条件が違うので一概にはいえないですね。3号機は建屋上部の除染が進んでいる代わりに,そのガラを降ろしてきますから下の線量が上がってくる。
涌澤 サブドレン設備建屋工事は1日中作業しても大丈夫な線量ですが,全国的に作業員が不足気味ですのでそちらが心配です。
西川 新築工事は鉄筋工と大工が必要になってきますから,サブドレン建屋工事の鉄筋工事では作業員確保に苦労しそうです。3号機のカバーリング工事は鉄筋工事がないので今のところ人手不足の心配はありません。
田中 遮水壁も海上の専門工事ですから当初は苦労しましたが,今のところ人手は問題ありません。海上は原子炉建屋まわりに比べたら線量もそこまで高くありませんが,海に転落する恐れもあったため注意しました。着工後2年を経過しているため,作業員の線量は限界に近づいています。現場に来てくれた海上工事会社はよくやってくれました。
田中 クレーンについては免許を持っているだけでは駄目で,経験年数や無事故記録などの条件をクリアして,はじめて運転できるようになります。なかなか厳しいですね。
子どもたちの未来のために
岩本 現在100人近い社員が赴任していますが,無我夢中に走りまわった発災直後と多少安定してきた現在では,状況も変わってきていると思います。
西川 そうですね。東京電力からは一般の建築現場と同様にやってほしいと指導されています。安全第一で作業して日曜日も休むようにと。社員の方には,3ヵ月のローテーションで着任してもらっていますが,優秀な方々が多く,モチベーションも高いです。所長クラスの方が来るのも珍しくないですし。みなさん帰任時にはまた来たいといって帰られます。
岡田 皆さん手を挙げて来ていますから。戻ってから交流をもっている人もいるようで,そういう話を聞くとうれしいですね。
岩本 余談ですが,以前,福島第一に関わったOBから連絡がありました。「構内は自分が一番よく知っている。俺が福島に行く」と。鹿島にはここで育った社員が多いのだなと今回つくづく感じましたね。その人たちが,自分の子どものごとくこういう状況になったことを悲しんでいて,安定化させるのは自分たちの責務だとおっしゃる。
西川 我々も我々しかいないという思いでやっています。
岡田 服部支店長をはじめ幹部の方が毎月来てくれていますが,そうした会社のバックアップも励みになりますね。
田中 もちろん東京電力の方の思いは特別です。発災直後,中央操作室のなかにいた東京電力社員はなんとかしようと決死の覚悟でやられていた。現場から戻ってくると免震棟に入るなり倒れ込むわけです。それでもまた次の人が行く。みんなが本当に懸命でした。
岩本 皆さんも様々な思いをもって,作業を進めていると思いますがいかがですか。
岡田 やはり“子どもたちの未来のために”という思いですね。これに尽きます。この時代に生きるものの責任だと思って作業にあたっています。
西川 全世界から注目されている工事に携われているということ自体が,大きなモチベーションにつながっています。福島の安定化は,世界中の人の願いですから。
涌澤 安全に燃料を取り出して,今ある既存の躯体を一日も早く解体するのが,鹿島というより大人の仕事だと思っています。
岡田 すべての大人に関わってほしいですね。
田中 廃炉の知見を蓄積できていると捉えることで,モチベーションにつなげています。「廃炉の鹿島」をめざすというくらいの心構えがあってもいいじゃないかと。将来的にこの知見は絶対に生きてきますから。
淺村 私は入社時の配属が原子力室で14年間携わりました。そのあと一般土木に転じましたが,これも縁といいますか。当時導いてくれた当社元副社長の梅田健次郎さんをはじめとする大恩ある先輩方がつくった原子力発電所の仕事に携われることは,非常に光栄です。一筋縄でいかないことはご承知のとおりで,廃炉まで長い年月がかかると思います。だからこそ着実に,その時にできることを積み重ねて,歩みを止めないことが重要です。そして,鹿島はここから絶対に引いてはいけない。そう思っています。
岩本 ここで鹿島がしっかりした足跡を残すということですね。本日はありがとうございました。