東日本大震災から3年の歳月が過ぎようとしている。
「私たちは,一人じゃない。その思いが復興へのエネルギーになっている。
大切なのは忘れられないこと」。被災地で聞く多くの人の言葉である。
復興ヘ向けた私たちの作業は,これからも続く。
被災者と辛苦を分かち合うなかで,一所懸命の努力が,
地域社会の共感を生み出すことにもなる。
春を待つ三陸に,復興を支える人たちを訪ねた。
あの日。岩手県山田町立船越小学校の児童176人と教職員は,震度5弱の大地震のあと,いったんグラウンドに避難。しかし船越湾の海水が引いていくのを見て,小道から裏山を目指した。高学年の子が1年生の手をとり,急な場所では下級生たちを押し上げた。全員が無事に登りきって間もなく,湾に向かって津波が押し寄せ堤防を越えるのを見た。
海抜13mに建つ校舎とグラウンドは濁流の下に沈んだ。校舎入口に掲げられた「山田町立船越小学校」のプレートが,泥にまみれて残った。
船越半島と重茂半島に抱かれ,陸中海岸国立公園(現在の三陸復興国立公園)のほぼ中央に位置する山田町は,リアス式海岸を利用したカキやホタテなどの養殖が盛んな町である。津波で基幹産業は壊滅状態になったが,今は震災前の半分程度の規模まで戻り,観光名物の“カキ小屋”も再開されている。
市街地は,被災した家屋の基礎が所々に残り,プレハブの仮設住宅や復興商店が建ち並ぶ。復興への道のりが未だ長いことを実感する。
船越小学校の児童は,近くの「県立陸中海岸青少年の家」を間借りして授業を受けていた。そんな子どもたちに早く校舎を返してあげたい――。町内で唯一校舎が全壊した船越小学校の再建は,住民や山田町教育委員会の大きな課題だった。「学校は教育や地域コミュニティを支える存在。子どもたちだけでなく,地域に活気と明るさを与えてくれる。それが学校」。同委員会学校教育課課長補佐の芳賀道行さんは,強い思いで船越小学校再建に向き合ってきた。
周辺校へ児童を割り振る「分散」か「近隣の高台への移転」か,それとも「別の場所への移転」か。3案を住民や保護者への説明会で提示した。そして2011年10月,近隣の高台への移転が決まった。被災3県(岩手,宮城,福島)で,最も早い義務教育施設の移転新築だった。開校目標は,2014年4月――。
建設工事は指名競争入札で当社が落札した。新校舎は鉄筋コンクリート造の2階建て,延床面積は約3,500m2。裏山を削って建設し,その土砂を盛り土して,校舎,グラウンドなどを整備する。東日本大震災の津波は約18mの高さまで到達したが,新校舎は24m,グラウンドは21mの高さがある。
新船越小学校の設計は,盛岡市の中居敬一都市建築設計が当たった。取締役設計長の中居真一さんによると,高台の限られた敷地の中で,校庭を可能な限り広くとり,直線100mトラックが設けられるようにしたという。校舎に配した2層吹抜けの空間で,郷土の光や風を感じ,活発なコミュニケーションを演出する。防災学習室のほか,防災や地域コミュニティ拠点としての機能も備えた。「震災を乗り越え,強く逞しく育ち,この学校から全国・世界各地へと羽ばたいてほしい」。中居さんが子どもたちに送るエールだ。
今,船越小学校の建設現場は,新校舎,体育館,プールなどの工事が大詰めを迎えている。現場を統括する所長の佐藤廣志さんは,JR新青森駅など,数々の大現場で陣頭指揮をとってきた。これが最後の仕事と,気を引き締める。大船渡の出身の佐藤さんは,1960年のチリ地震による三陸大津波の被害に遭っている。「小学校5年生の時でした。津波から逃げようと,恐怖のなか高台へと走った記憶が鮮明に残っています」。特別な思いをもって挑む現場でもあった。
内装担当の職人,田代実さんは船越小学校の卒業生である。「盛岡で働いていたところ,偶然声がかかった仕事が母校でした」と,嬉しい巡り合わせに声を弾ませた。町に住む同級生からも「お前にしかできない仕事」と,母校再建を託された。「後輩たちのためにも,良い学校をつくらなくては」。ラストスパートに力がこもる。
白を基調とした新しい船越小学校が,船越半島の高台にその姿を現した。間借りの仮校舎で子どもたちは移転を待ちわびる。「広い校庭で思い切り走りたい。サッカーや一輪車も」「図書館で本をたくさん読んで,新しい夢をみつけたい」「校舎をつくってくれた人に,恩返しをしたい」。教室を訪れると,新しい学校でやりたいこと,将来への夢や希望を熱っぽく伝えてくれた。「みんな,今できてないこと,我慢していることを新しい学校に期待しています。明るく健気な姿を見ると,ほっとします」と,副校長の伊藤博之さんは話す。
安倍晋三首相は昨年,第183回通常国会の所信表明演説の中で,母親ら家族をなくした被災少女の話を紹介した。「震災直後の被災地で出会い,その後再会した少女は,私の目をじっと見つめ,小学校を建ててほしいと言いました。過去を振り返るのではなく,将来への希望を伝えてくれたことに,私は強く心を打たれました」。
この少女は,どの町の,どこの小学校の児童だったのだろう。船越小学校の子どもたちもまた彼女と同じように,しっかりと前を向いて歩を進めているのを知った。
2月12日,新校舎の東面に「山田町立船越小学校」と記されたプレートの据付け工事が行われた。大津波の濁流にのまれ,泥にまみれた旧校舎に設置されていたあのプレートである。旧校舎の解体が進むなか,プレートを残すようお願いしたのが,教育委員会の芳賀さんだった。長い伝統と歴史のしみ込んだプレート。その重みは,子どもたちが未来へと引き継ぐ。
山田町の人口は2万人ほど。他の被災自治体と同様,技術者不足も深刻な問題だった。 町でただ1人の建築技師は,仮設住宅などの建設に奔走。学校建設に手が回らなかった。そこで盛岡市に技術者派遣を依頼した。今,派遣されているのが技術主幹の吉田正夫さん。盛岡市の建築技師として40年以上。徹底した現場主義を貫く。施設係長の田畑作典さんは「現場の技術面については分からないことが多い。吉田さんは本当に頼りになります」と全幅の信頼をおく。当社が施工を進める建設現場にも日々足を運んでくれる。
建設現場では,所長の佐藤廣志さんが呼び寄せた2人の若手工事係が活躍している。校舎担当の鯉淵崇任さんと,体育館・プール担当の小塚晋也さん。工事の規模は大きくないが,工期厳守が絶対であり,人材・資機材不足,交通至難など,現場運営上,厳しい条件が揃っている。若手を育てるには良い環境だ。広範囲の仕事を任せてくれ,多くのことを学ぶことができる。復興に貢献できるのも,やりがいですね」と,2人は口をそろえた。設計者の中居さんからも「若い2人が良く頑張っている」とお墨付き。この現場は,技術・ノウハウを次世代に受け継ぐ“学校”にもなっている。
1月18日,冬晴れの宮城県石巻市。約300人の関係者が見守る中,井上信治環境副大臣や若生正博宮城県副知事,亀山紘石巻市長,当社の田代民治副社長らが埋火ボタンを押す。2012年5月から21ヵ月にわたって可燃物約56万tを焼却してきた焼却炉が火を落とした瞬間だった。
東京ドーム15個分もの広大な敷地で処理された災害廃棄物・津波堆積物は約300万t。宮城県の災害廃棄物処理業務で最大となる。井上副大臣の「復興の新しいステージを迎える日だ」という挨拶を,現場を統括する所長の佐々木正充さんは感慨深げに聞いていた。佐々木さんもまた,石巻市内の自宅をあの津波で流された。「20年以上住んだ石巻のお役に立ちたいという思いに,変わりはありません」。
当社東北支店管理部の阿部紘士さんの故郷も石巻。がれき処理の現場に,開設当初から関わった。その後支店に異動したが,火納め式を終えて再び現場を訪れ,現場事務を引き継いだ高木惇史さんと2人で現場を巡った。ダンプトラックが消えた広大なトラックスケールヤード,無人の手選別ライン…。土壌洗浄設備のヤードから海側を眺めると,大きな水たまりが等間隔で並んでいた。積まれていたがれきの重みで,地盤が沈下してできた跡だった。
阿部さんは夕日に映える水たまりに,「これまで黙々と携わってきた業務の重さを改めて感じました」と話す。同時に,石巻の新たなスタートを改めて実感したのだった。
現場では,2011年12月の事務所の立ち上げから,多くの石巻の人が作業員として,街の復興を目指して,一緒に汗を流してきた。それも業務終了とともにそれぞれの道を歩むことになる。
火納め式が終わった4日後。現場事務所の会議室で,ハローワーク石巻と宮城県が主催する就職面接会が開かれた。集まったのは,県内の水産加工会社や介護関係の会社など12社と,70人の求職者。熱心に面談が続けられた。ハローワーク石巻によると,当社JVからは昨年末までに約230人が離職し,ほぼ全員が再就職を希望しているという。
この面接会は,当社JVが進めてきた「再就職支援プログラム」の一環でもある。処理従事者を対象にしたアンケートで,震災前とは違う職業を希望する人,進路を決めかねている人が多く,当初想定していた「生業復帰」から「再就職」という概念に切り替えてプログラムを策定した。
支援プログラムには,パソコン講習会も組み込まれ,車両系建設機械や小型移動式クレーンなどの技能講習も行った。講習会やハローワークとの連携を進めてきた高木惇史さんは,「参加した方の真剣な眼差しが忘れられません。その努力が街の復興にも役立ってほしい」と,がれき処理の時間をともに過ごした人たちの再就職に,思いを馳せる。
「この現場は,震災で休業を余儀なくされた人の受け皿にもなった」(ハローワーク石巻)。一方で「作業がスタートするときから,再雇用は大きなテーマ。継続的で効果的な訓練や就職支援のプログラムを提供してくれた」と,業務開始時から,がれき処理の旗振り役を務めてきた宮城県環境生活部主任主査の佐藤仁さんは振り返る。
「石巻市雲雀野(ひばりの)町」は,現場の地名である。ここで毎月第3金曜日の昼時を中心に,定期的に「市」が開かれた。最初は昨年4月19日。「ひばりのご縁市」である。「現場の皆様と石巻との絆,そして感謝の意味を込めて名付けました」と,石巻観光協会事務局長の阿部勝浩さんはいう。
現場事務所前には,観光協会や石巻元気復興センター,森林組合や水産加工会社,食品会社,地元農家など毎回10以上の団体や企業がテントの下で店を開く。テントやテーブル,椅子はJVが用意した。出店者は販売品を持って行くだけ。飲食ブースもある。
「普段はなかなか手に入らない石巻の特産品を購入できた」と,JV職員や作業員は喜んだ。石巻産の焼き牡蠣,ワカメを練り込んだ緑色のワカメうどんも登場した。出店者の店を直接訪問する人も増えた。「市」は現場で働く人の一体感を醸成するとともに,地元経済の活性化にも一役買うことになる。阿部さんは「石巻と各地から来てくれた職員とのご縁が,この先ずっと広がっていってくれたら嬉しい」という。「ひばりのご縁市」は,火納め式を前にした昨年12月13日の9回目を最後に終了した。
ひばりのご縁市を盛り上げてくれた「石巻元気復興センター」は,自力復興が難しい地元の被災企業などが立ち上げ,魅力ある商品群を企画,販売している。
センターは2012年6月に,市中心部に近い旧北上川沿いに,仮設商店街「石巻まちなか復興マルシェ」を立ち上げた。「震災で7割が全壊し,苦境が続く市街地への波及効果も期待した」と,代表の松本俊彦さんはいう。当社も「ひばりのご縁市」の縁で,グループ会社の鹿島サービスがイントラネットで復興企画商品を取り上げるなど,積極的な支援を行っている。
メンバーは現在20社。仙台駅などで販売されている「みやぎ石巻大漁宝船弁当」というヒット商品もでた。新たな観光資源の発掘など活動のテーマも広がっている。「支援を求めるエネルギーを,自立と復興に使おうということなのです」と,松本さんはいった。
昨年10月16日,石巻市がコンストラクション・マネジメント方式で整備する「水産物地方卸売市場石巻売場建設事業」が,当社施工でスタートした。震災前は全国3位という水揚高を誇った魚市場の本格復興だ。既に水産加工工場は4割程度が復旧し,施設も最新のものに様変わりしつつある。石巻の基幹施設の建設に,地元の熱い視線が注がれている。
ネクストステージへ――。海の幸に恵まれ,日本の宝ともいわれる三陸の海。その恩恵を受けて暮らしてきた石巻の人々は,これからも海とともに生きていく。がれき処理を完遂した当社は,魚市場再建という建設業本来の舞台でも,石巻復興に寄与していきたいと思う。