施設としての道の隙間に,
人の行為による現象としての道ができることがある。
それは道の始まりでもあり,
道が生きている風景でもある。
僕の後ろにできる道
「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出來る」と詠んだのは詩人・彫刻家の高村光太郎である。もちろんこの「道」は比喩的な表現だが,実空間における人の身体と道の関係を想像しても,この詩の描き出す風景はなかなか興味深い。
街を歩くときに私たちが「道」を意識することはあまりない。普段の私たちにとって道はあらかじめつくられた,固い舗装が連続する空間のことだ。そこに私の足跡は残らないし,私が歩くまでもなく道はすでにできている。
都市部で,歩くことで出現する道を目撃するのはたとえば雪が降り積もった冬の朝だ。北国にお住まいの方には積雪なんて日常の続きだろうが,私の住む東京圏では多くの人は雪に対する備えがほとんどなく,みな危なっかしく歩いて道をつくっていく。雪道では自分の歩くコースを意識せずにはおれない。
雪道の足跡は雪が溶けると消えてしまうが,舗装されていない草原や樹林地などに人の踏み跡が細い道をつくっていることがあり,「けもの道」などと呼ばれる。公園の芝生広場や施設の出入り口の近くなどによくあらわれる。そこを横切ることで近道になるルートや,急な階段を避けて斜面を迂回するルートだったりもする。いずれも,計画的に建設された道ではなく,人がそこを踏み歩くことで芝が剥げたり土が固められて道のようになったものだ。英語では「ディザイア・パス(desire path)」や「ディザイア・ライン(desire line)」と呼ばれる。無理に直訳すると「欲望の経路」または「欲の細道」だろうか。いささか奇妙な表現だが,人がその欲するところに従った行為の結果であることをうまく言い当てている。
公園などの公共施設のディザイア・パスの出現は設計の不備として揶揄や批判の対象となることもあるが,考えようによっては現実世界からの貴重なフィードバックである。アメリカの大学などでは,ディザイア・パスを積極的に利用したデザインが実施されることがある。キャンパスの中庭を芝生にしておき,しばらく学生に自由に歩かせた後に踏み跡を歩経路として舗装する「アダプティブ・ランドスケープ(adaptive landscape)」などと呼ばれる方法である。複雑な線形になることが多いが,歩行者の欲求に合わせた歩きやすい経路となり,芝生に踏み込む人も減るために管理者にも優しい空間になる。
生きている道
公園を巡っていると,魅力的なディザイア・パスと出会うことがある。私の個人的なお気に入りのひとつは,京都御苑で見られるものだ。御苑の幅広い通路には一面に細かい砂利が敷かれているが,地元の市民がここを自転車で通過するため,人の踏み跡よりも細い微妙なカーブを描いた轍ができる。地元ではよく知られた光景で,観光案内で「御所の細道」などと呼ばれて紹介されることもある。定期的な維持管理によって砂利が均されて消えても,ほぼ同じ場所に復活するらしい。利用者の行為としてあらわれている「現象としての道」である。
他にもお気に入りはいくつかあるが,もうひとつ挙げるなら千葉市の幕張海浜公園である。この公園は1987年に開園した,幕張メッセや千葉マリンスタジアム,ベイタウン幕張などを含む幕張新都心の中心に位置する県立公園である。公園の中央に広い芝生広場があり,地域の住民によく利用されている。ここに印象的なディザイア・パスがある。明らかに計画されたものではない,人の踏み跡によってできた細い土の道が芝生を横切っている。地面は凹凸なくほぼ平坦だが,ディザイア・パスはゆるく左右に振れる曲線を描きながら駅方向と住宅地をつないでいる。
この有機的な道からは,これまで通ってきた人の気配,踏圧と芝のせめぎ合い,樹木や地面の状態など,環境の様々な要素と応答しながらその形状がチューニングされてきた様子が伝わってくる。私がこの道を初めて目撃してから20年以上経つが,興味深いのはこれが管理者によって舗装されて正式な道に施設化されるわけでもなく,かといって芝生管理のために通行が妨げられるでもなく,そのままにされていることだ。20年以上にわたって黙認されている野生の道である。
今年の9月,本稿を書くにあたってあらためて見に行ったのだが,相変わらず多くの人がこの道をためらいなく歩いていた。
ディザイア・パスは,計画・管理する提供者側と,それを享受する利用者側とのいわば隙間に生じた形である。京都御苑や幕張海浜公園のようにそれを「生かしておく」余裕があるというのは,とても豊かな風景であると思う。それはなかなか制度化しにくいバランスのうえにあらわれている。京都市民の自転車力が下がっても,千葉県が公園管理を少し厳しくしても,ディザイア・パスは消えてしまうだろう。少しでもこの幕張の「欲の細道」が長く存続する願いを込めて,何度か往復して踏み固めてきたところだ。