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土木が創った文化「空港」~ヒトとモノの結節点~

写真:国内航空路線網の要としての役割を担った羽田空港。経済発展とともに国内航空需要が増大し,1984年に沖合展開事業がスタートした。2000年,3本の滑走路をもつ羽田空港が完成した

国内航空路線網の要としての役割を担った羽田空港。経済発展とともに国内航空需要が増大し,1984年に沖合展開事業がスタートした。2000年,3本の滑走路をもつ羽田空港が完成した

1996年秋のことである。井上哲夫さん(現当社東京土木支店土木工事部長)は,新C滑走路完成と「空の日」のイベント準備を兼ねて,工事関係者とともに,東京湾に突き出た東京国際空港(羽田空港)新C滑走路の先端部にいた。

激しい雨が止んで,二重の美しい虹がでた。虹は,雨に濡れた駐機場に映り込み,真ん丸になった。翌日,イベントに招いた二人の子供に虹の話をした。「苦労したお父さんへの二重丸だね!!」。二人の言葉を,いまも井上さんは忘れない。

1952年に米軍から返還された羽田空港は,ボーイング747型機など大型機就航に対処するため,横風用の旧B滑走路延長工事を行った。当社はその先端部約500mを担当。井上さんは入社した1970年から延長工事に携わった。「旧B」は,井上さんにとって思い入れの強い場所だった。以来,延べ30年近くを,羽田空港と周辺工事に従事することになる。

1978年,成田に新東京国際空港が開港して,羽田空港は国内航空路線網の要の空港としての役割を担った。しかし,経済発展とともに国内航空需要は増大。滑走路の延長だけでは手に負えなくなって,1984年,羽田空港沖合展開事業がスタートした。

東京都の廃棄物処理場跡地を有効利用し,滑走路を沖合に設けることで,空港用地を拡大する。同時に道路や鉄道のアクセスを充実させて,空と陸の輸送力強化を図ったのだった。

当社土木は,この事業でも沖合の埋立地の基盤整備から,首都高速道路湾岸線羽田第2トンネルと多摩川トンネル,共同溝,構内道路など多くの工事を担当した。基盤整備は,運河の底の浚渫ヘドロで埋め立てた超軟弱地盤を改良するもので,最新の工法を総動員した。

当社の“土木のプロ”たちが技術研究を重ね,かつて羽田を担当した80歳になるOBも時々現場を訪ねてきた。「空港に心血を注いできた大先輩の助言は貴重で,有り難かった。たくさんのことを学びながら,工事を進めました。発展を遂げる空港の姿と私たちの仕事を見つめる先輩の目は優しかった」(井上さん)。    

井上哲夫さんの写真

井上哲夫さん

首都高速湾岸線羽田第2トンネルは,運用中の羽田空港旧B滑走路直下に建設する難工事だったの写真

首都高速湾岸線羽田第2トンネルは,運用中の羽田空港旧B滑走路直下に建設する難工事だった

1985年,小沢徹さん(現当社京急蒲田駅付近連続立体交差事業第4工区所長)は,首都高速道路湾岸線羽田第2トンネルの現場に監理技術者として赴任した。運用中の旧B滑走路直下に幅60m,長さ150mの大断面トンネルとU型擁壁134mを建設する難工事である。

「トンネルの直上は,着陸する航空機のタッチダウンポイント。夜間工事が終わる早朝まで,気が抜けない日々でした」と,小沢さんは振り返る。井上さんたちが,将来の整備を見越して施工した旧B滑走路の頂版が,15年の歳月を経て滑走路直下での施工を可能にし,トンネルが完成した。

小沢さんは羽田第2トンネルの後,京急電鉄空港線大鳥居駅と環状8号線の立体交差化工事現場へ転進。約16年間の歳月をかけ,地上にあった大鳥居駅を地下駅に切り替えた。いまも京急蒲田駅工事の陣頭指揮を執る。「鉄道工事は,綿密な計画や仕込みが必要。手品と同じですね」。そういって,ある朝乗客を,一晩の鮮やかな切替え工事で驚かせたりする。

小沢 徹さんの写真

小沢 徹さん

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写真:関西国際空港は, 大阪湾泉州沖5kmの地点に人工島を造成し建設された。 海上に浮かぶ空港島と陸地との間は約3.7kmの連絡橋で一直線に結ばれている。隣接して2期造成が行われた

関西国際空港は, 大阪湾泉州沖5kmの地点に人工島を造成し建設された。海上に浮かぶ空港島と陸地との間は約3.7kmの連絡橋で一直線に結ばれている。隣接して2期造成が行われた

羽田空港沖合展開事業と成田空港第2期工事とともに空港3大プロジェクトとされたのが,24時間運用可能なハブ空港をめざした関西国際空港工事だった。騒音問題や運航時間制限のある大阪国際空港(伊丹空港)に代わる近畿の新しい空の玄関口として,大きな期待が寄せられた。

1987年に空港島護岸と連絡橋の工事に着手。当社は和歌山市加太などの埋立て土砂採取・運搬と,空港島の造成,地盤改良,ターミナルビルの施工などを担当した。安達利宏さん(現当社関西支店営業部営業部長)は1989年,空港島北東部の造成4工区に赴任した。神戸空港を結ぶ高速船のポートターミナルや関空展望ホール「スカイビュー」などが建つ辺りである。

埋立て工事が進み,のちに空港島連絡路「スカイゲートブリッジ」が接続される数haの部分の造成を終えた。関西空港第1期工事で初めて「国土」として認定された土地である。「“できたぁ”と叫びたくなる瞬間でした」と,安達さんはその時を思い起こす。ほんの小さな区画だったが,これを契機に「国土」は増えていった。「空港島をつくるということは,国土を生み出すことでもあったのです」。

関西国際空港は,深さ18mの海を511haにわたって埋め立て,人工島を築造するという,世界でも類を見ない大土木工事によって完成。1994年に開港(A滑走路3,500m)した。安達さんは「国家的なプロジェクトに参加させてもらって,役割を全うできたのは土木屋冥利に尽きる」という。

その後,2期造成工事(545ha)が進められ,2007年に工事が完了。B滑走路(4,000m)の供用が始まった。

安達利宏さんの写真

安達利宏さん

写真:航空機の大型・高速化は,地方空港の整備も促した。1972年に完成した新鹿児島空港は,鹿児島市の北東約30km,霧島市のシラス台地に設けられた。現在は3,000m滑走路を持つ

航空機の大型・高速化は,地方空港の整備も促した。1972年に完成した新鹿児島空港は,鹿児島市の北東約30km,霧島市のシラス台地に設けられた。現在は3,000m滑走路を持つ

航空機の大型・高速化は,航空インフラの整備を促した。地方空港の整備が行われ,1972年にまず完成したのが新鹿児島空港だった。鹿児島市の北東約30km。霧島市の十三塚原台地に2,500m滑走路を持つ新空港である。当社は基本施設(滑走路,誘導路,駐機場)と駐車場工事を担当した。

一坪聰さんは入社3年目の1970年に,新鹿児島空港の建設に携わった。「入社後,東京で設計業務を担当しましたが,現場を志願して赴任できたのです」。台地の地質は,南九州特有の軟弱地盤のシラス層のため,締固めの難しい大規模な土木工事となった。

一坪さんはその後,黒之瀬戸大橋,九州自動車道溝辺工区,福岡市地下鉄など7つの現場を歴任した。「私の現場生活の全ての基礎をつくってくれたのが新鹿児島空港の2年間でした」という。「地域の人々の共感と感動を呼ぶものづくりこそが土木の原点。それを40年の土木屋人生で実現できたことを誇りにしたい」。一坪さんは2007年に当社を退社。いまは福岡で悠々自適の日を送る。

一坪聰さんの写真

一坪聰さん

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写真:今年10月に供用開始となる羽田空港D滑走路(手前)。多摩川の流れを妨げないように桟橋と埋立てを組み合わせたハイブリッド構造を採用した(提供:国土交通省関東地方整備局東京空港整備事務所)

今年10月に供用開始となる羽田空港D滑走路(手前)。多摩川の流れを妨げないように桟橋と埋立てを組み合わせたハイブリッド構造を採用した(提供:国土交通省関東地方整備局東京空港整備事務所)

2000年3月,新Bの供用開始で3本の滑走路をもつ羽田空港が完成。沖合展開事業は,2004年の第2旅客ターミナルの完成をもって当初計画を全うした。現在羽田空港を利用する国内旅客数は,年間6,000万人を超えるという。これは30年前の約3倍,10年前と比べると約1,000万人増えたことになる。

羽田空港では2007年に再拡張事業がスタート。当社は,桟橋と埋立てを組み合わせたハイブリッド構造による2,500mのD滑走路のほか,国際線駐機場などの建設に参画した。この羽田再拡張D滑走路建設工事共同企業体の現場代理人として,陣頭指揮を執ったのが峯尾隆二さん(現当社専務執行役員)である。羽田空港沖合展開事業では,第I期,第II期事業関連工事の工事事務所長を務めるなど,1984年から12年間,羽田の工事に携わっている。

「この工事が無事に竣工し,皆さんの期待に応えることで,長い間の努力が報われることになる」と,延べ17年に及ぶ羽田空港との付合いを振り返る峯尾さん。「羽田の発展は豊かさの指標みたいなもの。スケールの大きな現場で,技術者として働き甲斐があった。良い時代を生きてこられたものと思う」と,羽田への感謝を語る。

人やモノの移動の結節点として,重要な役割を果たす空港。その進化に対応して,人々の生活は便利で豊かになった。土木は経験工学といわれるが,飛行機の離発着を含め,運用しながら成長を続ける羽田空港はその最たる工事でもあった。

「D滑走路の工事では,15社のゼネコン,マリコンおよびファブリケータからなる共同企業体を組織し,総力を結集して臨んだ。工事を通じて技術者一人ひとりが,より広い範囲の技術や知識を深めてもらえたことと思う」と,峯尾さんはいう。空の玄関の現代史には,土木技術者たちの伝統とロマンが積層しているのだ。

羽田空港4本目の滑走路となるD滑走路の供用開始が,今年10月21日に迫った。これにより羽田空港は,年間40万7,000回の発着能力を持つ国際空港に生まれ変わる。

新C滑走路で,井上さんに「二重丸」をあげた2人の子どもは,20代半ばの成人になった。関空で初めて「国土」を作り出した安達さんも,その時2人の男の子を上陸させている。

父が精魂込めて造り上げた構造物。それを見て,子はものをつくる喜び,社会に貢献する父の姿を学ぶ。そして憧れや尊敬,信頼,誇り,偉大さ…さまざまなことを鋭敏に感じ取り,たくましく成長し,自立していく。

 

峯尾隆二専務の写真

峯尾隆二専務

羽田空港D滑走路の連絡誘導路部のジャケット据付工事の写真

羽田空港D滑走路の連絡誘導路部のジャケット据付工事

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