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History

江戸の大地震

大地震の再来周期で見れば,大正の関東地震のひとつ前にあたるのが元禄地震だ。発生は1703(元禄16)年。推定マグニチュード(M)7.9〜8.2で,関東地震(M7.9)と同じタイプの南関東直下の海溝型地震である。相模湾から房総南部にかけて大きな被害が出たが,江戸市中の損害は少なく,地震に起因する火災も確認できないほどだという。

一方,幕末の1855(安政2)年の安政地震は,M7.0〜7.1と小さめの規模だったが大火災となり,死者は推定1万人ともされる。東京直下型だったこと,隅田川の東部が宅地化されたことによって被害を大きくした。元禄のころは単なる沼地だったが,その後,埋立てや堤防などの土木技術が発達したのである。

ふたつの地震は,江戸を代表する大地震として一括りに考えられがちだが,元禄と安政,安政と今日は,ほぼ150年の等間隔。時代が全く異なるのである。元禄地震の記録がほとんどないのに対し,安政地震の惨状は多くの絵巻に描かれている。

図版:安政地震の火災を描いた絵巻

安政地震の火災を描いた絵巻
(国立国会図書館蔵デジタル化資料)

鹿島龍蔵と「天災日記」

地震直後は火事もほとんどなく静かだったが,夜になると天空は炎で照らされ,家の中でさえ暗さを感じなかった。こう証言するのは,関東大震災の10日間をつぶさにつづった「天災日記」。筆者の鹿島龍蔵は,ときの鹿島組組長・精一の義弟にあたる。芥川龍之介をして“生粋の東京人”と敬われた多才の文化人である。

その揺れの描写は,当代一の物理学者である寺田寅彦の証言と一致。地域ごとの被害の記録は,現代の研究で解析された震度や犠牲者の分布マップで裏づけられる。信憑性が高く,正確な観察記として評価されている。

龍蔵は義兄一家と再会するために「死のごとく」静かな焼け野原を進み,各地の惨状を記していく。自宅には多くの避難者を収容し,建設会社の幹部として地方からの救援部隊をとりまとめ,生活と工事の復旧にまい進した。

歴史的な地震の記録は,行政や研究機関の公文書がほとんどで,民間,つまり被災者側の情報はきわめて少ない。武村さんは地震学者としてこの日記を丹念に読み解き,書籍『天災日記──鹿島龍蔵と関東大震災』として編さんした(鹿島出版会,2008年)。

図版:「天災日記」の挿画と掲載書

「天災日記」の挿画と掲載書。初出は震災翌年3月の『鹿島組月報』(本誌の前身)。のちに龍蔵の随筆集『涸泉集』に収録,自筆の挿画が付された。写真2冊の上が「天災日記」所収の『第二涸泉集』(1927年),下は「第一」「第三」の合冊(1932年)。
鹿島本社資料センター蔵

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