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関東大震災90年

対談「被災の実態に学ぶ地震対策」武村雅之さん×草野満代さん

史上ワースト1の自然災害とされる関東大震災。何万人もの命を奪った大火災は,
避難者がこぞって持ち出した家財道具への引火によって,惨禍が増幅された。
あの大正12年の悲劇から90年。わが国の耐震技術は高度化し,減災への道を着実に
歩んできたが,科学技術への偏った依存心や安心感は,人々の防災力をかえって弱め,
被害の拡大にもつながりかねない。こう指摘するのは,関東大震災研究の第一人者であり,
名古屋大学減災連携研究センター教授の武村雅之さんだ。

この特集では,「失敗の歴史」ともいえる関東大震災の被災実態から,
あらためて教訓を学びたい。当社OBでもある武村さんと対談していただくのは,
フリーアナウンサーの草野満代さん。災害報道の経験と一市民の目線から震災を見つめ直し,
語っていただいた。地震対策は専門家だけに任せるのではなく,
みんなで一緒に考え,突き詰めていくことで,真の防災意識は高まっていく。

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図版:武村雅之

武村雅之(たけむら まさゆき)
地震学者。名古屋大学減災連携研究センター教授。1952年京都生まれ。東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)。鹿島建設プリンシパルリサーチャー,小堀鐸二研究所副所長,内閣府中央防災会議専門委員会委員などを歴任。著書に『地震と防災──“揺れ”の解明から耐震設計まで』中公新書,『関東大震災を歩く──現代に生きる災害の記憶』吉川弘文館,『未曽有の大災害と地震学──関東大震災』古今書院ほか多数。

図版:草野満代

草野満代(くさの みつよ)
フリーアナウンサー。岐阜生まれ。津田塾大学数学科卒業。1989年NHK入局。「NHKモーニングワイド」「紅白歌合戦」,アトランタオリンピック中継などを担当。独立後はTBS「筑紫哲也NEWS23」キャスターをはじめ,文部科学省日本ユネスコ国内委員会普及活動小委員会や環境省地球いきもの応援団などを務めるほか,現在,「L4you!」(テレビ東京),「謎解き!江戸のススメ」(BS-TBS)などに出演中。

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都市の大災としての教訓

武村 阪神・淡路大震災(1995年)では,被災地から報道されていましたよね。
草野 リポーターの仕事というよりも,安否確認の情報をひたすら読み上げていました。「○○○○さんは△△にいます」「□□□さんが××××さんを探しています」と。あのような放送は,NHKでも初めてだったのではないでしょうか。あの震災でボランティアが注目され,東日本大震災でも多くの方が東北に行っています。
武村 新しいかたちの人間関係です。
草野 9月1日が「防災の日」なのは,関東大震災を忘れない意味が強いのでしょうが,歴史的な位置づけとしては,近代化された日本が初めて襲われた大地震と捉えてよいのでしょうか。
武村 はい。記録に残るわが国の自然災害のなかで,史上最大の被害でした。東日本大震災で亡くなった方は約2万人,関東大震災は約10万5,000人。被害額は国家予算の2〜3倍。よく立ち直れたなという感慨を持ちます。
草野 有史以来,日本は数えきれない地震に見舞われていますが,歴史の授業で習った平安時代の貞観(じょうがん)地震(869年)などと,関東大震災の決定的な違いは記録の有無でしょうか。つまり,被害の実態が初めてしっかり把握されたと。
武村 さらに,都市部での被害が甚大だったという意味で,多くの教訓が得られるのです。現在はほとんどの人が都会に住んでいますからね。

関東大震災の被災の実態

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死者約350人だった元禄地震

草野 関東大震災の被害が大きかった原因は,首都直下型だったからですか。
武村 直下型ともいえますが,震源地は相模湾。神奈川県全域が震源の真上です。東京は100km以上離れているのに,約6万9,000人が亡くなりました。
草野 犠牲者全体の7割弱も……。人口が密集する大都会だからでしょうか。
武村 それにしても多すぎるので調べてみると,よく似た地震がありました。元禄地震(1703年)です。震源の位置と規模が,大正の関東地震とほぼ同じ。元禄の江戸は人口70万人,大正の東京220万人。元禄地震の死者は,どれくらいだったと思われますか?
草野 人口が3分の1ですから,単純計算すれば2万人でしょうか。
武村 判明しているのは350人程度です。
草野 人口70万人で?
武村 驚きでしょう。でも,山梨から房総にかけての関東全域の死者は,大正よりも多いくらい。江戸の町だけ非常に少ないのです。史料が隠れているという可能性は完全に否定できませんが。
ポイントは隅田川より東側。大正ではこの地域で多くの犠牲者が出ましたが,元禄のころは人がほとんど住んでいなかった。
草野 その感じは分かります。「謎解き!江戸のススメ」(BS-TBS)という番組のなかで,毎週テーマを決めて江戸時代を探っているのですが,隅田川より向こうは沼地で,全くの手つかずだったのですよね。
武村 はい。元禄のころの橋は,両国橋と新大橋だけ。仮に,関東大震災の東京の死者6万9,000人のうち,隅田川より東の犠牲者を除くと,1万人くらいに減ります。
草野 それでもまだ多いですね。
武村 つぎのポイントは火災です。元禄地震の直後,江戸では火災が起こっていません。関東大震災は,地盤のよくない隅田川東部で多くの家屋が全潰(ぜんかい)したために,猛烈な火災が発生して,そのうえ川の西側に飛び火したのです。
草野 火の粉が隅田川を越えていったのですか。
武村 大火災となって,大勢が亡くなりました。焼死した人を除くと,死者は1,400人くらい。元禄と大正の人口比などを考慮すると,650人ほどになります。
草野 元禄地震の350人が,不思議な数字ではなくなりますね。
武村 なぜ,隅田川より東に,それほど人が増えたのか。土木技術が進んだのです。埋立て,堤防,干拓。すると,勝手に人が住みつき,やがて長屋まで並びはじめる。
実際に,幕末の安政地震(1855年)では,隅田川の東で大きな被害が出ました。明治になっても超過密化は止まらず,防災上どうにもならない状態で,大正の大地震に襲われたのです。

図版:武村雅之

江戸の大地震

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大八車の悲劇

草野 「江戸っ子は宵越しの金を持たない」といいますよね。番組をつづけていて思うのは,持たないのではなく,持てなかったのが現実なのでしょう。地震だけでなく,火事はしょっちゅう。とにかく身ひとつで逃げる生活スタイル。長屋暮らしは家財道具がほとんどない。焼け出されても,1週間で元の場所に長屋が建ち,店子(たなこ)も戻る。どんどん再生していきます。
武村 家財道具といえば,江戸時代は,火災時の運び出しはご法度でした。
草野 なるほど。大八車があふれて逃げ道をふさいでしまうでしょうし,引火の危険もありますからね。
武村 関東大震災の被害拡大は,その大八車が原因なんですよ。どの家も江戸時代より家財が増えていました。
草野 それを大八車に満載して逃げたのですか。幕末の安政地震から関東大震災までは70年しか経っていないのに。
武村 江戸の掟が忘れられてしまったのです。東京は震源から遠く,たとえば横浜よりも家の全潰が少ない。だから持ち出せてしまった。隅田川の東岸から上野や日比谷の公園に逃げようと,何万人が大荷物で西岸へ渡ろうとしたのです。
両国橋は大渋滞。このままでは荷物に引火し,橋も焼け落ちてしまう。出動した警察官だけでは荷物を捨てさせることもできず,次善の策として「被服廠跡(ひふくしょうあと)」へと誘導せざるをえなかった。軍服などの工場跡の空き地です。
草野 地図を見ると,いまの両国駅から慰霊堂までと,広大ですね。
武村 2万坪です。4万人が避難してきて,荷物で埋め尽くされた。午後2時ごろにはホッとした顔が並ぶ写真が残っています。ジュースの売り子まで出ました。が,4時ごろに火災が起こり,荷物に引火していって火災旋風となり3万8,000人が命を落としました。
草野 たった1ヵ所で,しかも2時間で……。東京の犠牲者が6万9,000人でしたから,半数以上。信じられません。
武村 この火災を調査した中村清二という東大の物理学教授が書いています。「同じ失敗を何度となく経験しても吾々は一向賢明にならなかったのである。大八車が自動車にかわることはあろうけれども」と。何か思い当たりませんか。
草野 3.11の東京ですね。高速道路も一般道も大渋滞。まるで将来を予言したような言葉です。万一,火災が起こったら,大変な惨事となりかねません。
武村 震災では自動車で逃げてはいけないし,冷静に考え,自分のいる場所が安全なら,むやみに動かないほうがいい。かえって危険になります。
草野 地震そのものの被害もさることながら,二次的な原因,結局は人災といわれる点が問題なのですね。
武村 震災は,地震が原因であっても,それは引き金。人間の対応によって,震災は大きくも小さくもなるのです。

図版:家財道具を大八車に満載し,上野駅前の広場を埋め尽くした避難者(日本電報通信社撮影,共同通信社提供)

家財道具を大八車に満載し,上野駅前の広場を埋め尽くした避難者(日本電報通信社撮影,共同通信社提供)

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大正の人々の行動を知る

草野 関東大震災の研究の一環として,各地の慰霊碑を訪ねていらっしゃると伺いました。石碑はいったい何を教えてくれるのでしょうか。
武村 たとえば小石川の植物園に避難していた人たちが,出ていくときに「感謝の碑」を建てています。また,「お上の世話にならないように自分たちで頑張ろう」といった手記をよく見かけます。
草野 現在とは一概に比べられませんが,雰囲気がだいぶ違いますね。
武村 大井から羽田にかけての漁村では,流れ着いたご遺体の慰霊碑が,7回忌,13回忌に建てられました。
草野 地域の人たちが荼毘にふして,手厚く葬っただけでなく,何年経っても法要を行っていたのですね。
武村 愛知県への避難者は約15万人。公設の大テントがあふれると,社寺や富豪から庶民に至るまで,みなが避難者を受け入れたと記録されています。
草野 きっと1日,2日の短期じゃないですよね。もともとは「和をもって尊しとなす」国のはずが,いまは自分たちが被害に遭わなかったからラッキーという感じが,なきにしもあらずです。ボランティアの文化は育ちましたが,何かがちょっと違います。
武村 大正12年の人々の行動を知ると,現在の置かれている状況が見えてきます。
草野 私たちが失ったもの,失われつつあるものを再構築すべく働きかける一方で,大都会のなかで自分に何ができるか,何をすべきかを一人ひとりが考えなければいけませんね。

図版:草野満代

鹿島龍蔵と「天災日記」

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安全・安心の所在を見つめ直す

草野 防災という観点で見ると,被害予測や地震の予知については,どのように考えればよいのでしょうか。
武村 残念ながら,現在の地震学では未来を予測できません。ただ,どういう地震が起こったのかは,非常に速く,的確に分かるようになっています。
東日本大震災のあと,防災上,より大きな地震を想定する傾向がありますが,どんな地震が来ても人間のなすべき対応はそれほど変わらない。関東大震災と同じ地震がもう一度起こったら,各地がどういう事態になるのかをしっかり知らないと,防災対策の一歩を踏み出せません。
草野 分かります。つぎは南海トラフだ,三連動だと,恐怖心をあおられていると強く感じます。しかも,地下街が危ないとか,超高層ビルは安全なのかとか,そんな「一行情報」が大量に行き来するばかり。実態がつかめない状況に陥って,自分がどう行動すべきかは分からないままです。
本当は,情報を受け止める私たち自身が考えるべきことであり,安全や安心は行政や専門家に任せっきりにする風潮こそが危険なのかもしれません。でも,「みんなで一緒に考えましょう」と言いにくいのが,昨今のムードです。
武村 市民対象の講演で恐る恐るそれを話すと,みなさん強く共感してくれます。その問題意識をうまく引き出せば,日本の防災レベルはまだまだ向上できると思います。

図版:全潰した木造の家屋。かまどの火などが燃え移りやすくなり,初期消火活動を妨げた。写真は震度5強の日本橋浜町(東京都復興記念館保管写真)

全潰した木造の家屋。かまどの火などが燃え移りやすくなり,初期消火活動を妨げた。写真は震度5強の日本橋浜町(東京都復興記念館保管写真)

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犠牲者を激減させてきた耐震化

草野 実態を知るという観点で,建物の耐震を考えるとどうでしょうか。壊れたときは技術が非難され,壊れなくて当たり前というか,関心を持つ人は少ない気がします。
武村 1940年代と2000年代は,大きな地震が集中していて,頻度も規模も似ています。しかし,死者の数は100分の1以下になりました。
草野 確かにこの表(右)を見ると,劇的な減りかたですね。技術発展の成果が一目瞭然です。
武村 「全壊○戸」という情報も大きく意味が違います。関東大震災のときは「全潰(ぜんかい)」。家が完全に「潰れ」て,引き起こしても元に戻せない状態です。

図版:1940年代と2000年代のおもな地震と被害の比較

草野 木造だから,倒れても引き起こせる家もあったのですね。
武村 いまは「全壊」です。「建替えを要する被害」という考えは昔と同じなのですが,現代は設備関係の費用が大きくなったため,建物はほとんど大丈夫でも設備の被害で「全壊」となる家が非常に多い。関東大震災なら「一部損壊」にもならなかったでしょう。行政の救済網を広める意味ではよいことなのですが。
草野 そういう違いを知らされていないから,「全壊」があまり減らないように思えてしまいます。わが家の耐震を意識するようにはなるでしょうが。
武村 阪神・淡路大震災では6,000人あまりが亡くなりました。震度7の地域は全壊率が10%ぐらい。地震の規模が似ている福井地震(1948年)は30%だったんですね。同じ揺れに対して,全壊が3分の1に減ったのです。
草野 そういう成果を知らない市民に対し,「補強してください」と訴えるだけでは説得力に欠けてしまいますね。地震から2年,3年と経てば,意識が薄らいでいきますし。
武村 耐震補強すべき建物は,いまも相当数あります。新しい技術の開発も大切ですが,これまでの耐震化の成果を知らせないと,本当の意味での地震対策が行き届かないと思いますね。

震災と耐震化の歩み

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科学を過信する危険性

草野 多くの人は,将来の地震にしか興味がありません。90年前の震災を考えても,時代が変わったし,科学技術も進歩したから,参考にならないと思う人は少なくないでしょうね。
武村 科学の進歩は,超高層に住む,ウォーターフロントで暮らすといった選択肢を増やしましたが,地震時にエレベータが止まるとか,液状化でインフラが遮断される可能性があることを認識する必要があるでしょう。
草野 選択肢が広がっても,それを選ぶ力がないかぎり意味がないのですね。
武村 便利さは増しましたが,逆にわれわれから自然を遠ざけている可能性があります。震災の歴史は「人間の失敗の歴史」なのです。
草野 東日本大震災では「想定外」という言葉が繰り返し使われて,それで納得しようというムードさえ感じられました。
武村 関東大震災の翌年,当時としては世界的にも稀な耐震基準を日本でつくるのですが,当時コンピュータはもちろんありません。「震度法」と呼ばれる方法で,地震の力に相当する静的な力を建物に横から加えて,建物の各部が許容できる耐力以下になるように設計する基準を考えた。すると「科学的でない」と言い出す人が出てくる。
それに対し,建築構造学の開祖である佐野利器(としかた)という東大教授が説きました。「諸君,建築技術は地震現象の説明学ではない。現象理法が明でも不明でも,之に対抗するの実技である,建築界は百年,河の清きを待つの余裕を有しない」。つまり,地震や建物の振動理論が科学的に解明されるまで,耐震化を待たせるわけにはいかないと。
草野 科学を過信するのではなく,佐野さんが言うところの実技,「知恵の伝承」を生かさなければいけないのですね。
武村 科学技術だけでないプラスアルファ,つまり人間の経験とか感性を含めた地震対策が必要です。
日本の自然は「慈母の愛と厳父の厳しさ」の2面を持ち,その厳しさを日本人が忘れていると寺田寅彦は警告しました。科学を生んだヨーロッパは,地震が少ないから,自然を科学で征服できると考える。その危険性を,科学者の寺田が指摘したのです。
草野 日本の自然の両面性を,寺田寅彦さんは見抜いていたのでしょうね。
武村 かの名言「天災は忘れたころにやってくる」は,人間だから忘れて当然という意味でなく,「だから忘れないように努力しないといけない。それが唯一無二の地震対策だ」と受け止めるべきです。
草野 結局のところ,私たち人間の問題なのですね。これほど自然に打ちのめされつつも,自然を愛してきた国民は,ほかにいないと思います。そういう国に生まれ,育まれてきた大切なものを,もう一度取り戻さないといけませんね。

図版:対談イメージ

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失敗や欠点と向き合う

武村 「安心している人間ほど無防備な状況はない」。失敗学の畑村洋太郎先生が話してくれた名言です。いま非常に気になっているのは「安心」「安全」という言葉を簡単に口にしすぎることです。
草野 東日本大震災では想定外があることを,私たちは身にしみて知らされました。なのに,堤防の想定を越えてしまったから,もっと高くしよう,となってしまう。それも想定外かもしれないと思いつつ,そういう解決方法しか理解されない状況に追い込まれている日本が,すごく危ないなと私は思います。
武村 ある調査によれば,津波で亡くなった2万人の方のうち,すぐに逃げれば97%の方が助かったそうです。津波警報が最初3mで,堤防が5mだから逃げなくていいと思った人もいたようですが,3mはすごい高さですよ。間違った安心感こそが最大の問題ではないでしょうか。
草野 防災施設は完璧だと人任せに信じ込む危険さを,東日本大震災で学びました。本当の安全とは何かを,みんなが考え,突き詰めてこなかった結果だったのかもしれませんね。
武村 ですから,いろいろな角度から物事を見ることが大切になる。私は鹿島のOBですが,多様な技術をもった人間がいるのが鹿島のよいところです。超高層オフィス,ハウジング,トンネル,橋,エネルギー,地盤と,多角的に技術を見つめ,何を選択すべきか,その欠点は何か,それをどう補うかを含めて,お客さんに提案していける。そのときに,必ずお客さんと一緒に考えていく。このスタンスこそが肝要なのかなと思いますね。
草野 利益を追求するカンパニーでも,メリットだけでなく,デメリットも説明してくれたほうが,信頼度が上がると思います。何にでも弱点は必ずあると私たちは学んだのです。
武村 津波で命を落とされた方々の意思を受け止めて防災対策を考え,実践しなければ,つぎの地震でまた同じ失敗を繰り返してしまいます。
震災の歴史は「失敗の歴史」なんて言うと,亡くなった方を傷つけるようで悪い,と遠慮してしまう。関東大震災は当事者がほとんど存命でないからこそ,あの悲劇を生んだ多くの失敗と正面から向き合えます。それを,われわれの世代,つぎの世代への教訓として受け継いでいける。そういう時代のめぐりあわせを生かすことこそが,私たちの責務なのです。
草野 そうですね。東日本大震災の復興では,生活基盤を取り戻すハード面とともに,自分で選べる力,人間としての生きる力を再建しなければいけませんね。そうでなければ,本当の意味での教訓にならないと強く思います。今日のお話を伺って,地震への認識が大きく変わったような気がします。ありがとうございました。

(2013年7月11日,鹿島本社にて収録)

制震ビルと小堀鐸二博士/長周期地震動の揺れを半減させる制震リニューアル

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