イスラム国家の西のまた西
西は大西洋,北は地中海,南はサハラ砂漠に面し,中央にアトラス山脈が横たわるモロッコ王国。エリアによって気候・風土が全く異なるのがこの国の魅力で,豊かな国土が多くの文化を生んだ。そのひとつに所々に色濃く表れるイスラム文化がある。
イスラム世界の誕生は7世紀。ほどなくシリア・ダマスカスのウマイヤ朝が滅ぶと,イスラム教徒たちはアラビア半島からアフリカ北部を地中海沿いにひたすら西へ向かい,やがてジブラルタル海峡を渡って,スペインにイスラム国家を建国した。そのときに辿った国々が,現在のリビア,チュニジア,アルジェリア,モロッコなどで,アフリカ北部を東西にベルト状に広がっている。これらの地域は「マグレブ」とも呼ばれ,アラビア語で「日が没するところ」「西方」を意味し,そのなかでもさらに西の端がモロッコとなる。
モロッコ歴代のイスラム王朝は,フェズを都に定めた。以降ラバト,マラケシュ,メクネス,カサブランカなどの大きな街がつくられていったが,都が他の都市に移った後も,フェズはモロッコの人々の誇りであり続けた。日本で言えば京都のような存在であり,現在でも世界中から多くの観光客が訪れる。
鮮やかな模様と渾然とした活気
フェズの旧市街(メディナ)は2.2×1.2kmほどの区域。城壁に囲まれ,西側にブー・ジュルード門があり,多くの観光客はここを通って旧市街に足を踏み入れる。門の正面には色鮮やかで美しいタイルが貼られている。モロッコのタイルはヨーロッパでも人気があり,最近では日本にも輸入されている。そのデザインをさすアラベスクとは,アラビア風を意味する。イスラム地方の蔓草の模様にはじまり,スペイン・グラナダにあるイスラム建築の最高峰,アルハンブラ宮殿などにも用いられた幾何学模様である。イスラムでタイルが発達したのは,偶像崇拝禁止が大きく関わっている。
門を入ると小さな広場に出る。遠くに見えるミナレット(塔)が,ブー・イナニア・マドラサだ。マドラサとはイスラム神学校のことで,イスラムの都市においてはモスク同様に重要な建物である。
そのマドラサから,道は南北に分かれる。北のタラー・セギーラと南のタラー・ケビーラは,言ってみれば旧市街のメインストリート。決して広くない道の両側には,日用品,肉・野菜,観光客向けの陶器やなめし革細工,金属を加工した手工芸品などが所狭しと並んでいる。点在する工房には,モノづくりに励む人々の姿がある。渾然一体とした無数のモノと行き交う人々の喧騒。その生活感と活気に圧倒される。
迷路のような超過密都市
フェズの城壁内は「迷宮」と言えるくらい複雑に入り組み,一度中に入ったらなかなか出てこられない。初めてこの街を訪れる者には,2本のメインストリートだけが頼りとなる。そこから網の目のように張り巡らされた路地に足を踏み入れると,迷路へと吸い込まれることになる。
路地は所々で急に細くなったり,行き止まりと思いきや,その脇にトンネルのような通路があったりする。これだけ密集していると,人々は少しでも土地を有効に使いたくなる。アラブの街ではよく見かける光景だが,屋外空間を有効に使おうと2階が路地に飛び出し,やがてお向かい同士がくっついてブリッジのように上空を跨いでいる建物もある。その暗がりが,この街の深遠さをさらに強めている。このような空間は,イタリアの街やアドリア海のドゥブロブニク,中国新疆ウイグル自治区のカシュガルなど,多くの都市でも見られるが,空間の濃密さでフェズに勝るところはない。
もちろん自動車は一切入ることができない。物資の運搬は,人力かロバやラバが主力である。利便性とはかけ離れているように思えるが,人々の表情は生き生きとして見える。車幅に規定されない細い道が,人と人の距離感を心身ともに近づけている。時に肩を寄り添わせ,互いに道を譲り合う。現代では「狭いこと」がネガティブに捉えられがちだが,日本でも昔ながらの狭い路地に親しみやすさを感じるように,本来は居心地のよいものでもあるのだ。目に見えやすい利便性を重視し,広く開放的な道が整備され続ける現代に,私たちが見落としがちな空間の魅力もありえることを,この迷宮都市が教えてくれる。
濃密な都市に身を委ねる
路地に面する建物の外壁は,仕上げがあまり施されていないものも多い。迷路のような街の構造や住人たちの強い結び付きとあいまって,よそ者を寄せ付けない雰囲気すらある。
狭い路地を入っていくと,外からは目立たないが,大邸宅に出くわしたりする。旧市街に点在するこれらの古い邸宅は,かつての貴族の住まいらしく,静謐な中庭を持ち,室内は外観からは想像できないほど贅沢に仕上げられている。その主役はタイルで,濃密なデザインは圧巻である。厳密な数学・幾何学に基づいた目も眩むほどの繰り返しのパターンは,幻想的でもあり,宇宙にも連なるような不思議な感覚を覚える。
外部空間においても同様で,隙間なくタイルで覆い尽くされている場所を所々で目にする。このように「濃密さ」が人々の住む空間の隅々にまで及び,都市全体が濃密なものとなる。その空間に身を委ねると,多くの人々の息吹に包まれる。この街では,人と一緒にいるという安心感が,人々に幸せをもたらしているのである。
モロッコ王国
(Kingdom of Morocco)
面積:44.6km2
人口:3,392万人
首都:ラバト
●フェズへ行くには
パリからはカサブランカ,ラバトなど,モロッコの主要都市に多くの便が出ているが,その変化に富む国土を堪能するには,サハラ砂漠側の空港ワルザザートから入る方法がおすすめだ。車でアトラス山脈を越えていく途中,世界遺産の山岳都市アイト・ベン・ハッドゥに立ち寄ることができる。かつて隊商の中継地として栄えた集落で,カスバ(砦)と呼ばれる邸宅が数多く残されている。
峠近くには茶屋があり,ケバブを焼く煙がもうもうと立ち込めている。アトラスの山を一気に下っていくとマラケシュの街,次いでカサブランカに出る。名作映画の舞台となったカサブランカは近代化が進み,ハンフリー・ボガートやイングリッド・バーグマンが愛し合ったかつての街の面影はない。カサブランカ空港からフェズへは1時間足らずで行ける。他の都市からの直行便はない。
●各国の影響を受けたモロッコ料理
モロッコ料理は世界で最も多様性に富んだ料理のひとつ。スペインから追放された人々がもたらしたアラブ・アンダルシア料理,トルコ人が持ち込んだトルコ料理,アラブ人の中東料理など,モロッコの歴史に登場する各国の料理から影響を受けている。クスクス,タジン(円錐形の蓋の付いた土鍋で蒸し煮にした煮込み料理),ハリーラ(豆のスープ)など日本でもお馴染みの料理が挙げられる。2010年,イタリア,ギリシャ,スペイン料理とともに,「地中海の食事」としてユネスコの無形文化遺産に登録された。