白いライオンの橋
「ライオン橋」と呼ばれるその橋は,サンクトペテルブルクの旧市街を横切るグリボエドフ運河に架かっている。幅2mに満たない,板張りの歩道橋である。吊材のチェーンの端を4隅のライオンががっしりと口にくわえ,像が台座とともにアンカーの役割を果たすというユニークなデザインになっている。この橋にことさら魅力を感じるのは,ライオン像が構造的役割を果たしているからである。
立派なライオン像が橋詰に置かれている橋はいくつかあるが,それらは飾りとして置かれたものである。この橋ではライオンが後ろ向きで,鑑賞には好ましくない配置ではあるが,橋の構造部材となっていることを高く評価したい。
同じ構造形式で,翼のある伝説上の動物,グリフィン(グリュプス)像をもつ「銀行橋」と呼ばれる橋もある。
浮橋と木橋
サンクトペテルブルクは今では人口460万人をもつロシア第2の大都市になっているが,ロシア帝国がその西端にヨーロッパへの玄関口を確保するために,ネヴァ川河口の沼沢地を開拓して新しくつくった町である。
この町の建設は1703年にロマノフ王朝のピョートル1世によってまずペテロパヴロフスク要塞の基礎工事から始められた。そして最初に架けられた橋は,この要塞からペテログラード側に架けられた浮橋であった。
1712年に遷都されると町の建設が加速される。まず海軍省から西へ向かって,現在もメインストリートとなっているネフスキー大通りがつくられた。当時はフォンタンカ川が町の境界で,軍事拠点があった。ここに軍隊によって木橋のアニチコフ橋が架けられた。
また町の拡張によってネヴァ川にも橋が必要になり,1727年に木製浮橋が架けられたが,毎夏架け直されることになっていた。
運河が整えられ,そこには18世紀半ばでおよそ40の木橋が架けられていたが,約半数が跳ね上げ式の可動橋であったとされている。
石橋と鉄橋へ
市内の橋が耐久性の高い橋になるのは18世紀後半以降のことである。ネヴァ川に沿って護岸や道路が整備され,1760年代後半には夏の庭園を挟んで2つの石橋が架けられた。現在も健全で,洗濯橋,上白鳥橋と呼ばれている。いずれも簡素で控えめなデザインである。
1784年から1787年にかけてフォンタンカ川に7つの石橋が架けられた。いずれも3径間で,船を通すために中央径間が塔に沿って引き上げられるようになっていた。
アニチコフ橋は,市民の愛着が深い橋である。ネフスキー大通りの拡幅にともなって1842年に全面的に架け替えられた。3径間の石造アーチで,橋の4隅には暴れ馬を調教する男の力強い彫刻が飾られている。橋は1908年に全面改修されたが,そのデザインは踏襲された。そして1941~44年にかけてドイツ軍の激しい砲火にさらされるなか,彫刻は市民が近くの庭園に埋めて守ったといわれている。
王朝風のデザイン
冬宮(現エルミタージュ美術館)から夏の庭園周辺にはサンクトペテルブルクらしいデザインをもった橋が集まっている。
1829年に完成した第一エンジニア橋はその代表的な橋といえる。主構造は穴あきの鋳鉄アーチ,精巧な装飾をもち,高欄の側面には楯と剣をモチーフにし,中心には神話のメデューサの顔が浮彫りされている。
この橋に接する聖パンテレイモン橋は,1908年に架け替えられたもので,同様のモチーフの浮彫りが淡い緑の上に金色で浮かび上がるように彩色され,ひと際目を引くデザインである。
血の上の救世主教会と呼ばれるロシア独特のデザインの教会に通じる小コニュシェニー橋は,1830年に完成した。モイカ川を1径間の鋳鉄アーチで渡っているが,同様の華やかな装飾が施されている。
ネヴァ川の橋
ネヴァ川に本格的な橋が架けられたのは1850年のことである。現在のシュミット中尉橋の所に鋳鉄アーチを並べた橋が完成したが,後に架け替えられた。
三位一体橋と邦訳されるトロイツキー橋が完成したのは1903年である。橋の主要部は6径間の鋼アーチから成り,南側の1径間が跳ね上げ式になっている。ちなみにネヴァ川の橋はすべて可動橋になっていて,夜には跳ね上げられて陸上交通は遮断される。
1892年にこの橋の設計コンペがあって,フランスのバティニョール社の2人の技師の設計提案が採用された。橋が完成した年はサンクトペテルブルク建設着手から200年目の年にあたり,完成式典にはフランス大統領も出席したようだ。しかしこの2年後には,日露戦争敗北,血の日曜日事件が起こるなどロシアは激動の時代に入っていくことになる。