記憶と経験で臨む
江戸期の天守が残る城郭のなかでも,規模と美しさが際立つ姫路城は,国宝と世界遺産にいち早く名を連ねてきた。幾多の修理を重ね,戦火をくぐり抜けて美観を保ってきたが,「昭和の大修理」(1956~64年)は大天守を全解体した大がかりな工事で知られている。このとき当社は,丸太造りの素屋根(すやね)の工事を担当した。
今回の「平成の保存修理工事」では,屋根や壁のメンテナンスを中心に,一部を解体・調査。必要に応じて構造補強も検討する予定だ。瓦や漆喰が剥がされた状態はおよそ3年。その間の城の保護のために,再び素屋根で覆われることとなった。平成のそれは鉄骨造。13階建てビルに相当する高さ46mの大天守を包み込む。
工事を担当する当社JV工事事務所の野崎信雄所長は,城下で生まれ育った姫路っ子だ。「昭和の大修理のころは小・中学生。よく覚えていますが,まさか自分が携わるとは。でも,お城の姿は隅々まで頭に入っていたのでしょう。素屋根の設計図を一目見て,施工の難所が分かりました」
野崎所長は特殊建築施工のエキスパート。斬新なかたちの超高層ビルから巨大な発電所のサイロまで,39年の現場経験をもつ。姫路城はその「集大成となる複雑な工事」だという。天守閣が単独でない。大天守の周りに3つの小天守が立ち,それらを渡櫓(わたりやぐら)が連結する。屋根の形状もさまざま。「この複雑さが美しさを生み出しているのですが,それは素屋根工事の困難さも物語っているのです」
“国宝のすき間”を測り,鉄骨で縫う
大天守にはもちろん傷ひとつつけられず,屋根や壁に鉄骨が触れるのは万一も許されない。そのうえで,複雑に重なる屋根の軒下すべてに,工事用の足場を巡らせ,全体を鉄骨で覆うのだ。
「たとえば,本来は柱を建てる場所が,じつは小天守が迫っていてスペースがない。そんな注意点も大天守だけの図面で分かりました」。現地を調査すると,幸いにも台所の裏手に小さなすき間を確認でき,細い仮設支柱を建てることにした。
「素屋根の設計図をもとに,施工用に綿密な調査を行うことが何よりも大切です」と野崎所長は文化財工事のポイントを語る。軒先の高さ,反りの曲線,隣の壁との間隔,そこを通せる部材の大きさなど,すべての“すき間の寸法”を調査したうえで,「鉄骨で縫うようにすき間を通し,国宝を包んでいった」のである。
杭を打たずに5,400tを建てる
文化財は建物だけではない。大天守が立つ地面そのものも特別史跡である。江戸期より遡る豊臣秀吉の遺構が眠っているからだ。地面は傷つけられず,高さ52mの“高層建築”である素屋根を杭打ちなしで建てるのだ。
史跡保護のためには,地盤への圧力さえも検討課題となる。素屋根の設計では軽量化が追求され,柱・梁ともに四面が鉄骨トラスで構成されている。いわば“中空”の部材である。
鉄骨の総重量は1,700t。コンクリート基礎は3,700t。これらが地面に置かれただけのかたちで,自重で建っている。一連の工事の設計監理を担当する文化財建造物保存技術協会の加藤修治工事主任は,この素屋根は史跡の修復工事としても非常に特殊だという。
「大規模な文化財の現場の素屋根は,現在では大半がスライド工法。社寺では隣地にゆとりのあるケースが多く,そこで素屋根を組んでから持ち上げ,水平移動させます」。しかし姫路城の大天守は高台に立ち,足元にスペースがない。また,「ほとんどの社寺は,四角形の平面で断面は単純。だからスライドできますが,お城にはない。国宝の頭上で,直に鉄骨を組むほかありません」。
これまで多くの文化財保存の現場に立ち会ってきた加藤主任にとっても,この素屋根ほど難しい工事は想像できないという。「そもそも攻めにくいように不整形にできた天守ですから,素屋根が築きにくいのも当然です」
関係者が一丸となって取り組んだ素屋根の鉄骨工事は,来月,竣工を迎える予定だ。見学スペースがいよいよ設けられ,“いましか見られないアングル”が登場する。