雄鹿の如く突き進むチームへ
1989年,鹿島ディアーズは創業150年の記念すべき年に産声を上げた。「記念事業の一つとしてスポーツチームの設立を」という若手社員からの提言から,全社員へアンケートを実施。最も票を集めたのがアメリカンフットボールだった。チーム名も社員から募集。1,000通超の応募が寄せられたなか,鹿島の“鹿”と“雄鹿のように力強く前へ突き進め”という願いを込めた「鹿島ディアーズ」に決定した。
「どうせ始めるなら日本一を目指せ」。鹿島昭一社長(当時)からの力強い達示により,鹿島社長をチームオーナーに,初代部長としてチームの体制づくりに尽力したのが梅田貞夫元会長(当時石川六郎会長秘書役)だった。まずは選手がいなければ話にならない。経験者の社員はもちろん,未経験者や新入社員からも有志を募り一人でも多くの選手を確保すべく奔走し,何とか19名でスタートを切った。
順調な滑り出し
1989年4月22日,柴崎グラウンド(東京都調布市)で初練習が行われた。金氏眞(現日本アメリカンフットボール協会専務理事)へッドコーチのもと,選手・スタッフともに社員中心で構成された素人集団であったが,秋にはパレスサイドリーグ※に出場,全勝優勝の快挙を成し遂げた。翌年には,日本社会人アメリカンフットボール協会に加盟。新卒採用の際には大学から有力選手をスカウトするなど積極的なアプローチを行い,次第に選手層も厚くなっていった。
1991年のシーズン,2部リーグを4勝1敗で切り抜け見事優勝。入替戦でも,古豪クラブチームのシルバーオックス(当時)に24対16で勝利し,創部3年目で念願の社会人1部リーグに昇格した。
※パレスサイドリーグ:皇居周辺に所在する企業チームによるプライベートリーグ。当時,実業団リーグ加盟における登竜門だった
初めての日本一
ディアーズは優勝候補の一角と目されるまでに力をつけていく。そして,創部から8年目,1997年秋のリーグ戦,ディビジョン優勝を全勝で飾り,オンワードオークス(当時)との準決勝をタイブレイクの末にサヨナラ勝ちで制し,社会人決勝・東京スーパーボウルの出場権を獲得する。相手は松下電工インパルス(当時)。試合開始早々,エースRB堀口靖の独走タッチダウンで先制。その後もディフェンス陣のインターセプトやK中筋圭吾のフィールドゴールなどで畳みかけ,強豪インパルスを48対12でくだし,初の社会人王座を手に入れた。
年明けのライスボウルでは,法政大学と対戦。選手権史上初の完封となる39対0で圧勝し,念願の日本一に輝いた。
1998年1月3日のライスボウル。初の日本一を祝うディアーズ
企業チームの原点へ
“日本一”の目標を達成したディアーズは2001年,森清之ヘッドコーチを迎え新体制のスタートを切る。次々とクラブチーム化が進むなか,森ヘッドコーチは企業スポーツの重要性を選手たちに徹底的に叩き込んだ。社員・会社のためにできること──それは勝つことしかない。ディアーズに再び歓喜の時が訪れたのは,2009年のシーズンだった。
12月21日,富士通フロンティアーズとの決勝戦,試合開始早々に先制を許し前半は0対7。しかし後半,2本のフィールドゴールで1点差まで迫り,RB丸田泰裕のタッチダウンで12対7と逆転に成功する。その後もロングパスなどで加点し,相手の追撃を振り切り21対14で勝利。社会人日本一を奪還した。
ライスボウルでは学生王者・関西大学に先制を許すも後半に追いつき,K鹿島弘道が残り4秒で“サヨナラ”のフィールドゴールを決め,12年ぶり2度目となる日本一の栄冠を手にした。
2009年のシーズンでは,12年ぶり2度目となる日本一の栄冠を手にした
観客参加型の応援でチームを一つにしたKDC
「ディアーズが日本一を目指すならチアリーダーも日本一に!」。ディアーズと時を同じくして創部したKDC(Kajima Deers Cheerleaders)も,四半世紀の歴史を刻んできた。創部にあたっては,本誌にもチラシを挟みメンバーを募った。集まった15名はアメフトのルールも知らない,チア経験もない初心者が中心で,失敗と挑戦の連続だった。
1994年からパフォーマンスにスタンツを採り入れた試みは社内外から好評を得て,同年,日本社会人アメリカンフットボール協会より初めてチームワーク賞を受賞した。2001年からは一般のオーディションを開始。社外選考メンバーを加えて新体制をスタートし,華やかなパフォーマンスでチアリーダーの最高峰・チアリーダーズ・オブ・ザ・イヤーを通算4回受賞している。
近年,アメフトの応援以外にも地域のイベントへの参加や鹿島ディアーズキッズチア「バンビーズ」(2003年結成)の指導など,多方面で精力的に活動を展開している。
観客参加型の応援でチームを一つにするKDC
チアリーダーズ・オブ・ザ・イヤー,チームワーク賞,テクニカル賞の3冠に輝いた2006年のKDCメンバー
春季 パールボウル優勝
2013年春,鹿島ディアーズの活動を今シーズンで休止することが告げられた。こだわり続けてきた企業チームの活動に終止符を打つ時が来たのだ。選手,関係者共に事実を受け止めることが精一杯のなか,ディアーズはこの日も平時と変わらず練習を行った。勝つことへの執念──。スローガンに「覚悟」を掲げ,春のパールボウルトーナメントでは決勝まで駒を進める。
6月24日,約2万人の観客が東京ドームを埋め尽くした。前半は,相手の富士通フロンティアーズにリードを許すも,後半から怒涛の反撃に出る。開始僅か45秒でのタッチダウンを決めると,WR岩井悠二朗がQB山城拓也の絶妙なパスをエンドゾーンぎりぎりで執念のタッチダウンに結びつけるなど,17対10で逆転勝利をおさめ,4年ぶり8回目のパールボウル優勝を果たした。
秋季 ファイナルステージ進出
いよいよ最後のXリーグを迎えたディアーズ。全勝を賭けて臨んだ最終節,富士通フロンティアーズに7対15と敗北,2位での第2ステージ進出となった。
第2ステージ初戦ではIBMビッグブルー戦を落とし,次のパナソニックインパルス戦に敗れるとファイナルステージへの道が閉ざされる厳しい状況に陥った。会場は大阪市長居陸上競技場。相手の本拠地にもかかわらず関西支店を中心に全支店から大勢の応援が駆けつけ,会場はいつも以上の熱気に包まれた。前半は目まぐるしい点の取り合いで21対27で折り返す。苦しい展開を打破したのはRB丸田泰裕主将の力強いランとQB加藤翔平の見事なパスワークだった。逆転に成功したディアーズは,第4クォーターで相手に再逆転を許すが闘志は衰えない。奮起した守備陣も相手の反撃をシャットアウトする。47対45で薄氷の勝利を得て,次の準決勝・ファイナルステージへの進出を決めた。
ありがとう,鹿島ディアーズ
12月1日, 3年連続日本一の王者・オービックシーガルズとの準決勝。ディアーズはフィールドゴールで先制するも試合巧者の相手に逆転されてしまう。その後,K青木大介のフィールドゴールで1点差まで迫るが,相手にタッチダウンを許し6対14で前半を終える。後半,スタンドからは鹿島コールが鳴り止まない。その声援に応え,第4クォーターにはタッチダウンで2点差にまで迫るも,その後相手に追加点を許してしまう。最後まで諦めないディアーズは懸命の守備と執念の攻撃で追いすがったが思いは届かず,12対21でゲームは終了した。試合後,挨拶する選手たちに向けられた鳴り止まない温かな観客からの拍手は,まさに企業チームの“一体感”を象徴していた。創部から追い続けた理想のチーム像であったと言えよう。
鹿島ディアーズは,2013年12月1日のオービックシーガルズ戦をもって,25年にわたる活動を終えた。来シーズンからは,“ディアーズ”の名称とその精神を引き継ぎ,クラブチームとして新たなステージで活動を続ける。
2013年12月1日のオービック戦でフィールドを疾走するQB加藤翔平。大勢の観客が総立ちで応援し,会場は“一体感”に包まれた
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