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鼎談 緊急復旧工事を終えて

激動の2週間を経て,緊急復旧工事が完了した。
現地対策本部長を務めた国土交通省関東地方整備局の
堤盛良水理水文分析官をお招きし,
日本建設業連合会関東支部長の増永専務,
現場代理人として従事した半澤所長と復旧工事を振り返り,
語ってもらった。

出席者

堤 盛良(つつみ もりよし)

堤 盛良(つつみ もりよし)
1956年生まれ。1979年建設省入省。
霞ヶ浦工事事務所勤務。2011年4月,河川局防災課災害対策室課長補佐,2013年4月関東地方整備局渡良瀬川河川事務所長,2015年4月関東地方整備局河川部水理水文分析官。鬼怒川堤防緊急復旧工事では,現地対策本部長を務め,現地で指揮を執った。

増永 修平(ますなが しゅうへい)

増永 修平(ますなが しゅうへい)
1948年生まれ。1971年鹿島入社。
東北支店の現場勤務などを経て,2001年東北支店土木部長。2003年土木管理本部土木工務部長,2007年執行役員土木管理本部副本部長。2008年常務執行役員,2009年常務執行役員九州支店長,2011年専務執行役員関東支店長,2012年4月より専務執行役員土木営業本部長。日本建設業連合会関東支部長も務める。

半澤 光洋(はんざわ みつひろ)

半澤 光洋(はんざわ みつひろ)
1965年生まれ。1991年鹿島入社。
関東支店茨城営業所管内の造成現場勤務などを経て,2007年にアルジェリア東西高速道路建設工事工事課長。2011年3月,武蔵水路中流部改築工事事務所工事課長。2014年8月同副所長。2015年9月原子力東海村工事事務所長。鬼怒川堤防緊急復旧工事では,現場代理人として復旧に尽力した。

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2週間の苦しい工程

 台風18号が接近した9月9日,関東地整では警戒体制を敷いていて,10日の朝4時に非常体制に移行しました。こうなるとほぼ全員集合のような事態です。地整内には鬼怒川は安全という認識がありましたが,線状降水帯により流域に降水が集中して12時50分,堤防が切れた。

増永 私も出張を取りやめて状況を注視していました。破堤してすぐに関東地整から日建連関東支部に,災害協定に基づく出動要請の連絡が入り,同時に加盟各社の態勢について調査も来ました。

写真:半澤 光洋,堤 盛良

 1947年のカスリーン台風で利根川の堤防が決壊したとき,当時の内務省から鹿島組の役員に直接お願いした記録が残っていますが,以前は緊急時の特命もありました。現在では選定の妥当性も問われますので,今回は日建連を通じて加盟各社の態勢を確認して,物量と施工体制の両面で優位なところにお願いすることになりました。

増永 各社それぞれに駆けつけて支援したいという気持ちがありますからね。

半澤 私に連絡が来たのは16時でした。原子力東海村工事事務所で職務に就いていましたが,実は出動の連絡が来るのではと思っていた矢先に電話が鳴ったのです。緊急復旧に向けての待機命令ではありましたが,自宅に常備している緊急備品一式,長靴やカッパなどを車に詰め込んで,片っ端から協力会社に電話をかけました。

増永 その日の夜,工程表と手書きの図面,備蓄資材表が示されました。はじめの1週間で荒締切を復旧させて前面の二重締切を翌1週間で完成させる。工事が終わらないと避難指示が解除にならない。だから1日も早くということでしたね。

 2週間は,苦しい工程でした。今回の破堤延長は201mであり340mが破堤したカスリーン台風以来の規模です。その前の1981・86年の小貝川,少し前に起きた九州北部豪雨では,工期こそ1週間程度ですが,全て100mに満たない破堤でした。

半澤 2週間で全体を終わらせるのはともかく,荒締切に1週間は非常に厳しいと感じました。当時のメモ帳をめくったら,1週間の部分に「???」と書いてある。当時,台風20号が18号と同じような軌道で進んでいたこともあり,完成は早い方がいい。それで腹をくくりました。武蔵水路中流部改築工事の職員が合流すると聞き,現場の道脇所長に連絡して今後必要なことを早々に決めた。正直,気が昂りましたね。朝を待って集合と示し合わせましたが,居ても立ってもいられず,3時に自宅を出て5時前には現地に着いていました。

 私も現地対策本部に着任したとき,高揚感を覚えました。そういう性分がある。

半澤 陽が昇るにつれ被災状況が明らかになり,常総市役所周辺は半分ほど水没していました。車を停めて歩き,たどり着いたのが破堤した上流側。他の職員と合流して早速現地踏査を開始した。9時に現地対策本部が設営され,13時まで現地を踏査してから工区割りを決めるという流れになりかけたので,一刻も早く着手したいので施工計画のイメージができている,上流をやらせてくださいと手を挙げました。

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災害復旧は建築業の第一義

 復旧状況を国交省が確認できるよう,対岸と現場の上流端・下流端にCCTVカメラを設置した。霞が関の災害対策本部でもライブでその映像を見るわけです。当然,大臣も見る。負担も大きかったでしょう。

半澤 プレッシャーはありましたね。ブロックの第1投を着工を示す“鍬入儀式”にする予定で,その日の22時と申し合わせていましたので,それは意識して間に合わせました。

 本来なら,もっと効率のいい段取りもありましたが,とにかくその日のうちに形にするのがひとつの目標でした。目に見える形で復旧工事が始まれば,地域の方の安心感につながる。現場に相談して納得いただきました。

写真:堤 盛良

増永 災害復旧では,枯れ木も山のにぎわいですよ。とにかく現場が動いている必要がある。昔は災害が起きて現場に駆け付けたら,まず旗を立てた。「ここはうちがやる」という意思表示ですね。建設業の第一義は災害復旧。その旗を立てられないようだったら,何のために建設業をやっているのかと。その気持ちは今でも皆が持っている。

 枯れ木も山のにぎわいという意味では,我々も同じです。今回,氾濫範囲が40km2に及びました。なるべく早く解消したいと相当数の排水ポンプ車を展開した。合理的に考えればもっと少なくてもいいのですが,戦力の逐次投入は避ける必要があります。

増永 それは段取り負けですからね。建設業界ではとにかく段取り八分ですよ。まずは大段取りをかけろと。先に大きく構えて,満足すれば減らせばいい。足らずを補充するやりかたでは周りが心配になる。人情の機微ですね。加えて,報道を通じて国民が見ているわけでしょう。検討ばかりで現場が進まないとなれば様々な意見も飛んでくる。

 1981年に小貝川が氾濫したときは,水流に阻まれてブロックも投入できない状況が続きましたが,やはり国交省に問い合わせが殺到しました。

半澤 “あらゆる目”が見ていることは意識していました。夜間にダンプ20台で根固めブロックを搬入しましたが,それを破堤した場所から50m離れた川側に並べた。どうせ仮置きするなら,少しでも進んでいるという感覚を皆が共有できるほうがいい。一夜明けて,上空を飛ぶ報道ヘリコプターの数に,こだわってよかったと思いましたね。同時に,完全に開き直った。対岸にある国交省だけを相手に仕事をしてはだめだと。“あらゆる目”を意識して仕事しなければ絶対にだめだと思った。ブロックが整然と並んだあのニュース映像は,おそらく一生忘れないですね。

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図面のない工事

半澤 他の建設会社など,様々な立場を考えて進めることにも腐心しましたね。当社が着手する前,地元業者が夜通し道路の拡幅をしていました。11日の昼までに引き渡される予定でしたが,アプローチすらなく苦戦を強いられていた。仕事の線引きにこだわらず,予定時間を過ぎた時点で重機を全部投入して一緒に工事をしました。拡幅が最大のポイントだったこともありますが。開始直後は2昼夜寝ませんでした。施工手順も含めた設計図面は私の頭の中にしかない。それを職員に展開するのですが,現場は混乱していますから,一度に伝えてもパンクする。徐々に伝えて流れをつかむまでに3日かかりました。

 緊急復旧は図面のない工事ですよね。通常であれば地質調査と測量,各種設計を経て設計図面ができる。緊急復旧は検討する時間もないから,即断即決で。

半澤 緊急対応も通常の延長線ではあるのですよね。時間を優先するがために品質を反故にしてはいけない。仕上げの連節ブロックの施工方法ですれ違いがありましたが,職人から「緊急復旧でインチキをしたと言われたくない。全部直す」と申し出がありました。職人の意地を見ましたね。

 図面がないから,そういうことも起きる。しかし,あれだけ重機が錯綜してよく事故が起きなかった。

増永 図面がない分,職員が現場に張りついて指示を出していたのは大きいでしょうね。安全にも品質にも影響してくる。

 施工中には,現地対策本部に地元の方から,炊き出しでおにぎりの差し入れを頂きました。

半澤 現場でも頂きました。手伝わせてくれとボランティアの方々がマイクロバスで来られたりもしました。危ないので丁重にお断りしましたが。仮設トイレのくみ取りでも「この現場からはお金はもらえません」と言われたこともありました。

 カスリーン台風のときの資料を読み返すと,鹿島婦人会が統制品の砂糖でおはぎをつくって現場に差し入れたとあります。期待を背負うのはいつの時代でも変わらないですね。

増永 施工を終えた翌日,関東地整の石川雄一局長が来現されて現場の人間にねぎらいの言葉をかけていただきました。懸命にやり遂げたことが認められ,皆,感激していましたね。今後の励みにもなったと思います。

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今後の課題と人材育成

 今回問題になっているのが,避難せず救助された方が4,000人もいたことです。避難してもらうために,どう情報提供していくか。大きな課題ですね。また,今回は日建連との災害協定がうまく発動できましたが,地震のとき,たとえば首都直下型地震ではどうか。

増永 日建連でも首都直下型地震にどう対応するかを検討しています。最大の懸念が連絡手段。交通・通信インフラが断絶したときにソフト面をいかに活用するか。今回もリエゾンが機能して初動がうまくいった。

 我々の災害対策室に日建連が合流したのは有効でした。

増永 首都直下型地震では,8方向は48時間以内に道路啓開を実施して緊急車両を通す。それが日建連の役目だと言われています。昨年法律が変わり,警察と消防に加えて道路管理者も存置車両を動かせるようになった。専用の重機も開発されて訓練も行われています。建設業に課せられた社会的な責任は重いですね。

写真:増永 修平

 2011年の秋,台風12号で紀伊半島が被災しました。被災地の奈良県十津川村は明治期にも大水害が起きたところで,北海道に新十津川村をつくって移住する人が出たほどの被害を被ったのです。その経験があって,時代を経てハードウエアが整備されても,また災害が起きてしまう。自然を完全に治めることはできません。だから復旧などの事後対応も重要になる。

増永 新潟県中越地震でも日建連の立場で崖崩れの現地に入りました。自衛隊や消防レスキュー隊の救助活動が称賛されましたが,その立入り可否などを差配していたのは国交省の崖崩れの専門家でした。

 余震が続く中の救助活動でしたね。

増永 当社はバックホウで道つけをしました。無線操縦が必要になるので,雲仙・普賢岳や有珠山噴火の対応を経験した社員を北海道から呼び寄せて対応した。そういう話は一般に取り上げられませんが大切な役目です。

 東日本大震災でも,津波の瓦礫で埋まった道路を啓開する建設業の努力があったからこそ緊急車両が現地に届いた。縁の下の力持ちだと,関係者は理解しているのですが。知ってもらうことも課題かもしれないですね。

半澤 強く感じたのが,人材育成の重要性ですね。現在はマニュアルに従うことをよしとする風潮があるじゃないですか。そのやり方で災害に対応できるかというと,そうはいかない。特殊な環境を経験した人間だけがノウハウを持っている。これでは災害に対応できる組織は確立できません。

増永 関東支店,特に茨城や栃木は東日本大震災を経験しているので,今回迅速な手配ができた。技術陣はもちろん,事務方も食事や宿泊などの後方支援で活躍しました。

 兵站は重要ですね。皮肉なことですが,災害に対応することで大きく技術力が上がる。国交省の職員もいい経験をした。ただ,それは個人の記憶にすぎない。個人の記憶を組織の記憶にと言うのですが,経験を展開するのが難しくなってきているように思います。

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増永 昔は酒を交わしながら,先輩から後輩に伝えていくものでした。

半澤 個人の記憶を組織の記憶にと心得つつ,若手を育てていきたいと思います。ひとつは,臨機応変に行動できるセンスを潰さないこと。あとは,スピード感ですね。

 本日,お二人の話を伺い,まさに災害対応のDNAが鹿島建設に根づいていると感じました。これからも益々の活躍を期待しています。

(11月20日当社関東支店にて開催)

写真:特別座談会

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