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鹿島今昔Interview

パソコンがない,携帯電話やスマートデバイスがない――
今では当たり前のように存在する機器が普及した時代・平成。
この30 年,インターネットを代表とするIT 分野などは急速に成長し,
人々の生活に大きな変化をもたらした。
それは働き方にも影響し,当社社員を取り巻く環境も同じだ。
ここでは,1989(平成元)年入社の鹿島太郎さん(仮名)に,
当社での平成のはじめと現在の様々な違いを聞いてみた。

Q 平成の始まりとともに入社してきた世代ですが,
入社当時の印象に残っていることはありますか。

A私が入社した1989(平成元)年はバブル景気の最中で,当社や建設業界のみならず,日本全体が華やかだった印象があります。当社は創業150年の年でもあり,これに合わせて様々な記念行事がありました。その一環として,アメリカンフットボール部・鹿島ディアーズが創部されました。それまでアメフトのルールを知らなかった社員も,ディアーズに熱中した方は多いのではないでしょうか。たくさんの社員が何度も応援に駆け付けました。1998年に初めて日本一に輝いた試合は今でも忘れられません。クラブチームとなった今でも応援しています。

また入社したちょうど4月から,作業服が現在のデザインにモデルチェンジされました。作業服を見直してほしいという要望が多数あったことをきっかけに,若手社員でプロジェクトチームを結成して作成したそうです。「シンプルかつエレガント。オフィス空間でも受け入れられるようなシックなデザイン。機能性・安全性に優れ,外出時,通勤時に着用しても違和感のないもの」をコンセプトにデザインが決定したと聞いています。併せて保護帽と安全帯も改められ,トータルでデザインされたものとなりました。その後,土木用のブルゾンが登場し,近年は女性技術者が増えてきたことからユニセックスのサイズも展開されています。

作業服
当時は半袖の作業服もあった

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創業150年記念行事

1989年の創業150年記念行事には,記念式典や社員慰労パーティーをはじめとして,様々な文化的イベントが開催された。

● 主な行事

記念式典:創立記念日の前日である1989年2月21日に本社,各支店でそれぞれ記念式典が行われた。

社員慰労パーティー:社員の慰労,未来への活力を培うため各地でパーティーが行われた。東京では東京ディズニーランドを貸切りにして記念セレモニーが開催された。

創立記念日を休日に:この年から2月22日の創立記念日を休日とした。この休日は2009年まで続いた。2010年からは休日扱いではなくなり,年1回各個人で自由に設定した「記念日」を有給休暇にできる「記念日休暇」となった。

新しい社歌:「詞ひとつあなたに作ってもらいたい」をキャッチフレーズに歌詞を募集。203作品の応募の中から「限りなきクリエーション」に決まった。

彫刻コンクール:「彫刻・建築・空間」をテーマにコンクールを開催。国内唯一の屋内彫刻展として隔年で開催されており,昨年まで15回と回を重ねている。

アメリカンフットボール部の創設:「記念事業のひとつとしてスポーツチームの設立を」という若手社員の提言からアンケートを実施。最も票を集めたのがアメリカンフットボールだった。チーム名は鹿島の“鹿”と“雄鹿のように力強く前へ突き進め”という願いを込めた「鹿島ディアーズ」に決定した。

ヨットレースのオフィシャルスポンサー:アメリカのサンディエゴで行われるアメリカズ・カップ・ヨットレースに日本チャレンジチームのオフィシャルスポンサーとして参加した。

図版:本社での記念式典

本社での記念式典

図版:第1回KAJIMA彫刻コンクールの展示の様子

第1回KAJIMA彫刻コンクールの展示の様子

図版:ニッポンチャレンジチーム艇

ニッポンチャレンジチーム艇

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鹿島ディアーズとKDC

1989年,19名の選手でスタートした鹿島ディアーズは創部3年目で社会人1部リーグに昇格。着実に力を伸ばし迎えた1997年,社会人決勝・東京スーパーボウル(2003年からジャパンエックスボウルに名称変更),年明けの学生代表との日本一決定戦・ライスボウルを制し,創部9年目にして念願の日本一の栄冠を手に入れた。その後も着実に成果を挙げ,通算で8度の春季パールボウル優勝,2度の日本一を遂げる強豪チームとなった。

ディアーズとともに創部したチアリーダーKDC(Kajima Deers Cheerleaders)の応援も,ディアーズの躍進を支えた。華やかなパフォーマンスは高い評価を受け,1994年にチームワーク賞を初受賞,最優秀チームに贈られるチアリーダーズ・オブ・ザ・イヤーを通算4度受賞している。

2014年春,ディアーズは25年にわたる活動を終え当社を巣立ち,現在は新たなスポンサーのもとクラブチームとして奮闘を続けている。

図版:鹿島ディアーズとKDC

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Q 平成はIT分野が大きく進化しました。
現在と比較して,とくに変化が大きかったものを教えてください。

Aパソコンが普及したことによる働き方の変化は非常に大きいです。図面はほとんどが手描きで,ドラフター(製図台)で作業し青焼き機で印刷するのが当然の時代でした。書類はワープロで作成し,稀に自部署内で回覧される書類の中には手書きのものもありました。パソコンはどこの部署にも数台しかなく,私はN5200というパソコンでLANPLAN(表計算ソフト)やLANWORD(ワープロソフト)などを使うことが多かったです。

そして1995年にWindows95が発売されたのを契機として,パソコンは急速に普及していきました。元々OAライセンス制度などOA教育が盛んな当社では,Windows対応の教育も熱心でした。今ではパソコンは仕事に欠かせない存在となりました。

また,電話の変化も大きいです。入社当時,部署や現場によって固定電話はまだダイヤル式電話機(黒電話)を使用しているところもありました。非役職者は2人で1台を共有することがほとんどで,長電話だと隣で順番待ちをしなければいけないことも。さらに,ダイヤルインが普及していたものの,本社やいくつかの支店では電話交換の方がいました。鹿島のコールセンターといえば分かりやすいでしょうか。

そのような中,まだ珍しかった携帯電話を導入している部署もあり,肩掛けタイプのショルダーホンを使用していたようです。重さは約3kgもあり,現在使用されているスマートフォン(スマホ)のほとんどが200g以下なので,その違いに驚きます。1990年代半ばまでは,携帯電話ではなくポケットベル(ポケベル)利用者が多数でした。外出先では基本的に公衆電話を利用するので,テレホンカードが欠かせず,番号も手帳にすべて手書き。現場でもポケベルかトランシーバーを使っていることが多かったです。

1990年代半ばにPHSが登場し,90年代後半からは携帯電話でのインターネット接続サービスやE-mailが始まり,この頃から機能が飛躍的に進歩していきます。写真付きのメールを送ることができるようになり,略称「写メ」という言葉を未だに使ってしまう人も多いのではないでしょうか。

2010年代になるとスマホの時代となりました。今では誰もがスマホを持っていることが当たり前の光景ですが,30年前と比べると技術の進歩には目を見張るものがあります。

図版:ドラフター

ドラフター
ドラフターでの作業の様子

図版:ワープロ

ワープロ
パソコンが普及していない頃,書類はワープロで作成していた

図版:パソコン

パソコン
1992年頃。まだ全員の席にパソコンはなかった

図版:電話交換

電話交換
電話交換室の様子。名簿やパソコンを駆使して番号を検索し,電話を繫いでいた

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Q その他に働き方に変化をもたらしたものや,当時の特徴などはありますか。

A1991年4月から完全週休二日制がスタートしました。今でいう働き方改革と同じでしょうか。それまで土曜日は第2,第4が休みでした。制度導入時は戸惑いの声も多く,私も仕事が終わらないのではと心配していましたが,すっかり馴染みましたね。

また,平成のはじめはインナーコミュニケーションがとくに活発で,社内報「KAJIMAGE(カジマージュ)」や社内CATV「Kiss(キッス)」というものがありました。どちらも社員に人気で,今のようにインターネットがない時代でも全国各地の支店・現場の情報を共有できるツールとして,大変重宝されていました。それ以外にも,スマート通信という社内コミュニケーションツールがありました。これは電話回線を通じて手元のワープロやパソコンからメッセージの書き込みや,人の書き込みを読むことができるものです(パソコン通信)。電子掲示板のようなものでした。

様々なインナーコミュニケーション媒体

当時は社内のコミュニケーション媒体として冊子「KAJIMAGE(カジマージュ)」や社内CATV「Kiss(キッス)」が存在した。

KAJIMAGEは1988年9月に創刊。「カジマのAGE,IMAGE」からその名がつけられた。それまで月報や各支店・本部報は発行されていたが,より円滑な社内コミュニケーションを目的に,社員の素顔,肉声を中心に誌面を構成。社内のニュースや部署紹介から社員の恋愛事情などユニークなテーマまで取り上げ,社員から多くの応募があり人気を博した。1999年に11年,58号をもって役目を終えた。

1989年11月1日に開局したKissは,トップの経営理念,経営方針,社内の出来事などの情報を,映像を通じてわかりやすくタイムリーに伝えた。時代の流れとともに放送の形態を変え,開局のほぼ1年後には無線電波から衛星放送に切り替え,各支店・営業所・現場事務所など全国約2,000ヵ所の拠点でリアルタイムに視聴できる環境が整備された。2004年からは,情報発信の手段をTVからWebへ移行。これにより海外社員も活用できる媒体へ進化した。

その後,イントラネットが普及し,文字情報だけで十分かつタイムリーに伝達できるシステムが構築されたため,2009年4月に約20年続けられた放送を終了した。

図版:様々なインナーコミュニケーション媒体

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Q この30年で本社関連ビルは建替えが進み様子が一変しました。
旧本社ビルの様子はいかがでしたか。

A旧本社ビル第1棟の地下には,理髪店「バーバーカジマ」があり,私もよくお世話になっていました。故石川名誉会長も,かつては毎週のように通われていたそうです。第2棟20階には会議室があり,株主総会や経営会議などはここで開催していました。元赤坂周辺には高層ビルはあまりなかったので,窓からは霞が関や新橋まで見渡せたものです。

また,当時はどこもかしこもタバコが吸える環境でした。喫煙率が高く,自席に灰皿を置いている方が多かったです。会議室に灰皿があるのは当たり前。駅のホームや飛行機,映画館の中でも喫煙している光景がよく見られました。今ではとても考えられませんね。

1991年に当社は21世紀を展望した企業像とその実現のために長期経営計画「KAJIMA EVOLUTION 21(KE21計画)」を策定しました。この計画は,建設業の一層の強化を図るとともに,多角化・国際化を進展させ,世界的な複合企業グループへの進化を目指すものです。同年10月には,当社の通称として「鹿島」を使用することになりました。これは,従来の建設分野にとらわれることなく,新たな事業機会を積極的に求め,挑戦していく新生鹿島を内外に示すために“建設”の2文字を取ったものです。

新しい通称と併せて,シンボルマーク和文ロゴタイプも改定しました。シンボルマークは,基本的には以前のイメージを維持しつつ,21世紀へ向けて新たな飛躍を目指していくという当社の姿勢を象徴するデザインです。和文ロゴは「人間にとって真に快適な環境創造」を通して,社会に貢献する企業に相応しいデザインになりました。

日常の風景

図版:自席や会議室には灰皿があるのが当たり前だった

自席や会議室には灰皿があるのが当たり前だった

図版:上手い,早い,安いが売りの理髪店「バーバーカジマ」

上手い,早い,安いが売りの理髪店「バーバーカジマ」

図版:90年代は全国で100近くものサークルが活動していた

90年代は全国で100近くものサークルが活動していた

図版:仕事始めには着物を着ることが多かった

仕事始めには着物を着ることが
多かった

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本社ビル群の変遷

当社が東京・八重洲から赤坂見附の地に本社を移したのは1968年のこと。18階建ての旧本社ビル第1棟が完成し,その3年後の1971年に第1棟に隣接して21階建ての第2棟が建てられた。

時代は平成に移り,1989年にKIビルが完成。その後,旧本社ビルの老朽化や近傍の土地でビル建設の環境が整ったことを契機として,本社機能の集約と再配置の計画が始動。2007年に現在の本社ビルと赤坂別館が竣工した。

役目を終えた旧本社ビルはビル外観をそのままに「だるまおとし」のように建物を足元から解体していく「鹿島カットアンドダウン工法」で解体され,跡地には高さ約160m,地上30階建ての超高層複合ビル「AKASAKA K-TOWER」が建設された。また,2008年に技術研究所本館 実験棟,2011年に同研究棟が竣工。2016年には当社東京土木支店,東京建築支店の新社屋となるKTビルが本社ビル隣接地に建設されている。

図版:旧本社ビル

旧本社ビル。
右から第3棟,第1棟,第2棟

図版:右からAKASAKA K-TOWER,本社ビル,KTビル

右からAKASAKA K-TOWER,本社ビル,KTビル

図版:KIビル(手前)と赤坂別館

KIビル(手前)と赤坂別館

図版:シンボルマークの改定

コミュニケーションツールをはじめ働く環境が大きく変化した時代であったが,ICTツールの活用などで今後さらに変化していくことが予想される。しかし,平成の中でも改元された後でも,社員たちのものづくりに対する想いは変わらない。

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