ホーム > KAJIMAダイジェスト > July 2021:#kajima

#kajima
渋沢栄一と鹿島岩蔵

実業家・渋沢栄一は,その生涯で500以上の事業に関係したと言われる。
建設業界で渋沢と密接なつながりがあったのは清水建設で,経営にも深くかかわっていた。
また大成建設の祖・大倉喜八郎らとは日本土木会社を創立している。
しかし,あまり知られていないが鹿島岩蔵と渋沢栄一もまた深いつながりがあった。

図版:渋沢栄一

渋沢栄一 深谷市所蔵

図版:鹿島岩蔵

鹿島岩蔵

役人から商人へ

渋沢栄一は,1840(天保11)年,鹿島岩吉が江戸中橋正木町で町方大工として創業したのと同じ年に埼玉県深谷市に生まれた。家業の畑作,藍玉の製造・販売,養蚕を手伝う一方,幼少期から父に学問の手ほどきを受け,従兄の元で「四書五経」や「日本外史」を学んだ。1863(文久3)年には尊王攘夷論に共鳴。高崎城乗っ取り,横浜焼き討ちを企てるが中止して京都に出る。そこで一橋慶喜に仕えることになる。1867(慶応3)年にはパリ万博の使節団の一員として,慶喜の弟徳川昭武の随員となって渡仏,1年半の間ヨーロッパ諸国を回った。1869(明治2)年,日本初の株式会社「商法会所」を設立。その後,明治政府に仕え,民部省租税正,富岡製糸場設置主任,大蔵少輔(おおくらしょうゆう)事務取扱を歴任したが,1873年に大蔵省を辞任する。「今日の商人ではとうてい日本の商工業を改良進歩させることは成し能(あた)わぬであろう,ついてはこのさい自分は官途を退いて一番身を商業に委ね,およばずながらも率先してこの不振の商権を作興し,日本将来の商業に一大進歩を与えよう」(『雨夜譚―渋沢栄一自伝』)と立ち上がったのだった。

改ページ

抄紙会社工場の施工

渋沢と鹿島のかかわりは,抄紙会社(後の王子製紙)の工場建設から始まったとされる。渋沢は,1867年に徳川昭武に随行して渡欧した際,洋紙製造の必要性と将来性に着目,渋沢の提唱によって1872年に抄紙会社の設立が出願された。

鹿島岩蔵は,この抄紙会社工場の用地選定からかかわっていた。渋沢が望んだのは,製紙に必要なきれいな水,平らな土地,原料・製品・機械の輸送の利便性,情報発信力の強い東京近郊,というものだった。最終的に,王子に建設することに決まる。

東京付近では初めての本式の煉瓦造西洋建築で,毎日大勢の人が弁当持参で見物に来たという。渋沢も「王子製紙株式会社回顧談」の中で,「建築工事は鹿島組が請負うことになった。これは鹿島岩蔵という人がやっていた請負業者で,非常に勉強する一派で,(中略)請負建築ということについても抄紙会社なぞは殆ど初頭の試みであったと云ってよい。偖(さ)て大概の仕事は鹿島組がやる(後略)」(紙の博物館編『百万塔(臨時増刊)』)と書き残している。

岩蔵は,工場の施工後も渋沢と王子製紙に深くかかわり,1899年に監査役,1903年から亡くなる1912(明治45)年まで取締役を務めている。

図版:古今東京名所

古今東京名所 飛鳥山公園地王子製紙会社(歌川広重(三代),1883(明治16)年,紙の博物館所蔵)。煙突から煙を吐き出す抄紙会社(1876年に「製紙会社」と改称)の煉瓦造の工場と桜が観光名所となっていた

改ページ

星野兄弟との出会い

のちに渋沢の片腕となるのが星野錫(しゃく)だ。明治期に「鹿島の三部長」として名を馳せた星野鏡三郎の長兄。父が浪人となり旅に出てしまい,母と彼ら5人の息子は極貧の中,何度か居候の後日暮里の長屋で暮らす。程なくして,鏡三郎は浅草の瓦屋に預けられた。鹿島岩吉は,その瓦屋の親戚で,時折訪れていた。利発な鏡三郎を見出し,12歳の時から店童(見習)として手元に置いた。鏡三郎は16歳で鹿島組の倉庫番となり,頭角を現していく。

図版:渋沢栄一

渋沢栄一(1870-1873年頃) 渋沢史料館所蔵

図版:鹿島岩蔵と星野鏡三郎

鹿島岩蔵と星野鏡三郎(1872年)

錫は1873年,岩吉の紹介で景諦社(けいていしゃ)の印刷工となった。横浜にあった岩蔵の家から通う。景諦社は横浜の活版印刷の会社で,先駆的な製本・印刷事業に取り組んでいた。錫が入社した翌年,景諦社は抄紙会社に譲渡され,抄紙会社横浜分社となる。錫は同社東京工場に転勤。岩蔵の紹介で抄紙会社の渋沢と面識を得た。1887年には2年間のアメリカ留学。写真版印刷技術を日本人で初めて取得し,帰国する。その後,渋沢の関係する印刷諸会社の経営,渋沢の私設秘書と,渋沢の腹心となっていく。1896年には,王子製紙東京製紙分社と横浜製紙分社を譲り受けて東京印刷株式会社を設立,星野錫は社長となり,鹿島岩蔵が監査役を務めた。

朝鮮半島初の鉄道

1897年,敷設権を取得していた朝鮮半島在住のアメリカ人鉱業家のモールスが,京仁線京城―仁川間の鉄道工事を開始する。1年以内の起工と,起工から3年以内の竣工が条件だったが,資金調達は難航し,モールスは日本に敷設権を譲渡する。これを受け,日本側は1898年に京仁鉄道引受組合をつくる。渋沢栄一,岩崎久弥,大倉喜八郎,安田善次郎ら当時の財界人が名を連ねていた。その後モールスは何度も設計変更による増額要求を続けるが,工事は進まず,最終的にすべての権利を京仁鉄道引受組合に譲渡した。引受組合は翌年5月,渋沢を社長に京仁鉄道合資会社を発足させ,ほとんどの工区を鹿島組に特命発注した。

日本初の海外での鉄道工事だったが,鹿島組は漢江橋梁などを難なく施工。1900年7月,朝鮮半島に初めて鉄道が通った。

渋沢の日記の中には,この京仁線とその次の京釜線(京城―釜山間444.5km)で鹿島岩蔵が何度も渋沢邸を訪れて打合せしている様子が書かれている。

改ページ
図版:朝鮮・京仁線漢江橋梁(1900年)

朝鮮・京仁線漢江橋梁(1900年)

column

抄紙会社こそが
日本の機械工業の起源
―紙の博物館より

渋沢は1867年,パリ万博の使節団の一員として渡欧した際,開会式の演説が翌日の新聞ですぐに報じられていることに驚き,新聞や印刷業に興味を持ちました。そして,明治新政府で近代国家づくりを目指す中で,新聞や書籍が広く普及し,人々が知識を得て,文明を発展させていくことが必要であると考え,抄紙会社の設立を決意しました。

当時,西洋式の近代製紙業を起こす試みは始まったばかりで,渋沢は幾多の困難・逆境に直面しましたが,諦めることなく製紙業界全体をけん引して文明の発展に務めました。渋沢自身,この抄紙会社こそが日本の機械工業の起源であると『王子製紙株式会社回顧談』で語っています。

当館所蔵資料「明治七年八年 建築方諸證書」,「抄紙工場 建築費積書類」には,鹿島岩蔵と抄紙会社が取り交わした幾多の証憑があります。

図版:抄紙会社 建築関係証書類 紙の博物館所蔵

抄紙会社 建築関係証書類 
紙の博物館所蔵

ほかにも,当館所蔵の「亀山洋館の図面」は,抄紙会社が雇用した2人の外国人技師の住居とするため岩蔵に建設を依頼したものです。外国人技師たちが1877(明治10)年に任期を終えた後,一時空き家になっていましたが,コレラの流行により渋沢がこの洋館に避難して半年ほど仮住まいをしたそうです。

改ページ

[紙の博物館]

世界でも数少ない紙専門の総合博物館で,日本の伝統的な「和紙」,近代日本の発展を支えた「洋紙」の両面から,紙の歴史・文化・産業などを紹介しています。

地図
  • #初代組長鹿島岩蔵
  • #激動の明治を生きた事業家の交友
  • #鹿島の軌跡
  • #青天を衝け
  • #紙の博物館で企画展「渋沢栄一と近代製紙業」開催(9/18〜)

ContentsJuly 2021

ホーム > KAJIMAダイジェスト > July 2021:検索

ページの先頭へ