ささの葉 さらさら
のきばに ゆれる
お星さま きらきら
きんぎん すなご
ごしきの たんざく
わたしが かいた
お星さま きらきら
そらから みてる
詞:権藤はなよ
『うたのほん 下』(文部省,1941)収録
文部省唱歌の『たなばたさま』ですが,七月七日の「七夕(たなばた)」の様子が見事に生き生きと表現されています。
「のきば」は漢字で表すと軒端。屋根の軒下の端の部分で,そこに笹竹を飾り,笹の葉が揺れながらさらさらと乾いた音を立てている様子がうかがえます。目には見えていませんが,何かが訪れている気配が漂っています。
目を夜空に転ずれば,天の川がきらきらと金銀の切り紙と箔の粉末である砂子を撒いた料紙(りょうし)のようです。まるで,平安時代の装飾経の料紙を思い起こさせる比喩表現ではないでしょうか。金銀砂子という典雅な比喩は「七夕」が平安時代の宮中行事だったことと無縁ではないと思います。
七夕のルーツと平安時代の七夕
七夕は,中国の漢代の伝説から生まれた乞巧奠(きっこうでん)がルーツ。巧(たくみ)を乞(こ)う,奠(まつる),「乞巧奠」は中国では,五色の糸束や布を供えて,針穴を月にかざして糸を通し,裁縫の上達を願う女性たちの行事でした。これにさらに古くからの織姫・牽牛(けんぎゅう)の伝説が重なります。
その複雑化した行事が平安時代に日本の宮中行事となり優雅な遊び的要素が加わりました。すなわち,五色の糸を通した金銀七本の針をお供えし,琴を鳴らし,香を焚き,星を眺めながら詩歌を吟じるかたちとなったのです。藤原定家の末裔の冷泉家では,旧暦7月7日に今でも梶(かじ)の葉に和歌を書きそれを水面に浮かべ,星祭りが行われています。
江戸時代の七夕
時代は下って江戸時代には,徳川幕府は七夕(しちせき)を五節供のひとつに制定し正式な式日としました。各大名はその前日に祝儀として将軍家に届け物をし,当日は江戸城に上がり祝言(しゅくげん)を述べたそうです。このように武家社会での武家故実や行事は,幕藩体制を強化する装置としても機能していました。折形は贈答の際の包みと結びの武家故実ですが,そのような事実もふまえ,客観性と批評性を持ちつつ研究するように自らを戒めています。
一方,一般庶民の間では,日本古来の棚機津女(たなばたつめ)信仰と中国の織姫星(おりひめぼし)信仰が習合し独自の発展を遂げました。七夕の夜には織姫星と牽牛星の二柱が来臨し逢瀬を楽しみ,翌日には天空へ帰るので,その際に禊(みそぎ)を行い穢(けが)れを持ち去ってもらおうと考えたようです。地上の川が天空の天の川になぞらえられ,笹竹は願い事をしたためた五色の短冊ごと川や海に流す習慣も生まれています。春の雛祭りでも,夏の灯籠流しでも,川や海に人形や灯籠を流すことを年中行事で行うのは,川や海が身近である風土や黄泉の国が海の先にあるという素朴な信仰があるからかもしれません。
近年の七夕
さて,昭和の唱歌「たなばたさま」の2番には,「ごしきのたんざく/わたしがかいた」と歌われています。五色は,陰陽五行説の五つの元素を表す色でしたが,本来の色の意味は失われ,願い事を記す五色の短冊として子供たちは受け入れていたと思います。意味を失いながら形だけが残るのも伝承のひとつのかたちでしょう。折口信夫の言う『生活の古典』の代表的な事例です。
続く「お星さまきらきら/そらからみてる」には,1番ではお星さまを地上から見ていましたが,2番では韻文としてきらきらがリフレインされて,見る/見られるという関係が逆転しています。五色の短冊に書かれた願いが天空の星に届いたことが暗示されています。
素朴で純粋だった童心に戻り七月七日の夏の夜空をもう一度眺めてみたいものです。