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大地の建築術 自然と共生する叡智 第6回 中国・瀋陽(旧・奉天)—大平原に築かれたバロック都市

写真:瀋陽駅(旧・奉天駅)前広場

瀋陽駅(旧・奉天駅)前広場。かつての大平原に後藤新平の指揮で築かれた新市街の中心部。
右が瀋陽駅,赤レンガの建築群が広場を囲むように並ぶ(1990年代撮影)

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都市空間を印象づけるもの

日本には,ヨーロッパ都市で見られるような美しい広場がないと言われつづけてきた。そこには,シンボルとなる建築群が欠かせない。広場と建築群をスパイン(脊椎)状に結び,都市と建築の内外空間を一体的につくることで,その街を印象づける景観が生み出されるからだ。西洋の典型とされるバロック都市である。

そのような都市空間は,巨大建築が建ち並ぶ現在の日本の都市に,残念ながら見出すことはできない。しかし,20世紀前半の中国大陸のかつて満州と呼ばれた地域では,日本人の手でバロック都市の空間が大規模に実現され,その姿は今でも目にすることができる。

地図

もうひとつの東京・丸の内

満州とは,日本の統治下にあった1905年から1945年までの40年間に使われた,現在の中国東北地方の名称である。それ以前に進出していたヨーロッパ列強を新国家の建設で凌駕するために,日本は莫大な資金と人材をかき集めて大陸に渡った。

都市の建設は,満鉄(南満州鉄道)の総裁・後藤新平により着手された。のちの関東大震災の復興事業において「大風呂敷」といわれたほど高い理想を掲げることになる後藤は,満州ではジョルジュ・オスマンのパリ改造計画の図面を取り寄せ,若い建築家や都市計画家たちを鼓舞した。特に大連,瀋陽(旧・奉天),長春(旧・新京) などの大都市では,東京や大阪でも見られない壮麗な建築群が,資材を惜しまず建てられていった。

かつて清王朝の都だった瀋陽は,円形の中に四角形をはめ込んだような都市計画の街がすでに完成していて,その四角の中には瀋陽故宮(旧・奉天故宮)があった。新市街は,その旧市街の外側の広大な敷地に鉄道駅を配置し,そこを中心にオスマン流の都市をつくり上げようというものであった。この地は先に支配した帝政ロシアが新たに都市計画を行わなかったため,都市を自由にデザインできたのである。

写真:東京駅をモデルにした瀋陽駅(旧・奉天駅)

東京駅をモデルにした瀋陽駅(旧・奉天駅)

写真:旧市街の外側に広がる大平原に新市街を建設

旧市街の外側に広がる大平原に新市街を建設。中心となる駅前広場からは道路が放射状に並び、要所に広場がつくられた

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瀋陽駅 (旧・奉天駅) は,東京駅をモデルにした堂々たる建築であった。そして駅舎の正面に建つ建築群は,すべて東京駅と同じように赤レンガが積まれ,駅前広場を囲むように壮大な都市空間が現れた。明治時代に三菱が東京・丸の内に建設した「一丁倫敦(ロンドン)」もこのような姿ではなかったかと思われる。

駅の正面から真っ直ぐに伸びる道路が中華路(旧・千代田通り)である。この通りを軸にして,駅の左右から中山路(旧・浪速通り)と民主路(旧・平安通り)が放射状に伸び,通り沿いにはシンボル的な建築群が並んだ。東京・丸の内の理想形ともいえる都市空間が実現したのである。

写真:駅前広場をはさんで瀋陽駅に面する赤レンガの建築群

駅前広場をはさんで瀋陽駅に面する赤レンガの建築群。明治時代に東京・丸の内に建てられた「一丁倫敦(ロンドン)」のようである

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都市空間をつくるシンボル性と調和性

中山路をしばらく歩くと,中山広場(旧・奉天大広場)に出る。この広場を囲むように主要な建築群が連なり,一角に遼寧賓館(旧・奉天ヤマトホテル)がある。満州各地につくられたヤマトホテルのなかでも,モダンさを売り物にしていたこの建築は,当時としては珍しく,日本全国を対象にした公開型の設計コンペによるものであった。私は90年代後半,瀋陽で仕事をしていたころ,ここを常宿にしていた。白いタイルの外観もさることながら,エントランスホール,エレベーター回り,上部まで吹き抜けた階段などは,いま見ても意匠的に素晴らしい。かつて一世を風靡した李香蘭がデビューしたのもこのホテルだったと聞くと,感慨深いものがある。

写真:旧・奉天ヤマトホテル。中山広場(旧・奉天大広場)に面して建つ

旧・奉天ヤマトホテル。中山広場(旧・奉天大広場)に面して建つ

写真:旧・奉天自動電話交換局

旧・奉天自動電話交換局。当時の関東庁内務局土木課による設計。現在は大手通信会社の社屋になっている

この広場には,ほかにも銀行やオフィスビル,警察署など見どころが多い。それぞれは形態も高さも,外壁も仕上げも異なっているが,一体の景観として違和感がない。広場の外縁に壁面を合わせて整然と建っている構成が,全体で調和している。

瀋陽や大連,また長春にも残る日本人建築家による建築群を,中国政府は文化財として指定し,将来に向けて保存を決定した。中国銀行大連支店(旧・横浜正金銀行大連支店)や長春の中国人民銀行(旧・満州中央銀行総行)など,さまざまな見ごたえのある建築が現存し,都市空間のシンボル性と調和性を見事に両立している。

写真:城壁に囲まれた正方形の瀋陽旧市街

城壁に囲まれた正方形の瀋陽旧市街

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日本人建築家たちの夢

当時の日本人建築家にとって満州は憧れの仕事の場であった。明治時代から西洋建築を学んできた成果が結集し,力のこもった建築群を並べることができたため,西洋に引けを取らない都市景観が満州に出現したのである。前川國男や遠藤新など,近代建築で著名な建築家も設計活動を行っている。

100年ほど前,日本が満州を侵略したことは歴史的に不幸な出来事であったが,夢とロマンを賭け,都市と建築の創出に情熱を傾けた建築家の誇りに満ちた息吹が,いまでも聞こえてきそうだ。

写真:妻木頼黄設計による中国銀行大連支店

妻木頼黄設計による中国銀行大連支店

ローマやパリ,ワシントンD.C.,あるいはブエノスアイレスといった大都市が人々を魅了するのは,決して西洋中心主義の嗜好ではなく,美しい建築群と相まった都市空間が形成されているためだ。日本に存在しなかった確固たるアーバンデザインに基づくバロックの都市空間が,広大な大地に一からつくり上げられた事実は,確かにこの地に残されている。それもまた人類の叡智による大地の建築術といえるだろう。

写真:長春(旧・新京)の中国人民銀行(旧・満州中央銀行総行)

長春(旧・新京)の中国人民銀行(旧・満州中央銀行総行)。ドリス式列柱が壮大なスケールで並ぶ

写真:同内部

同内部。迫力のある柱に圧倒される

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古市流 地球の歩きかた

瀋陽市国旗
Shenyang

面積:約1.3万km2
人口:約829.2万人(2016年)
遼寧省の省都。
中国東北地方の経済・文化の中心地。
かつて清朝が都としていたことでも知られる。

餃子の故郷・瀋陽

世界中で人気がある餃子は,清王朝を興した満州族の人がもともと家庭料理として食べていたものが起源である。餃子の種類は300〜400種ともいわれるが,それらを本格的な料理としたのは,今でも瀋陽に残る老辺(ロウベン)餃子館(東京新宿にも提携店がある)で,1829年に創業された。日本で餃子といえば薄い皮の焼き餃子のことであるが,満州では皮が厚い蒸し餃子をいう。パリパリ感はなく,むしろ日本の柏餅のような食感であるが,肉,野菜を使った豊富な種類と付け合わせのタレのバリエーションで,豊かな味わいを楽しむことができる。日本に餃子が入ってきたのは昭和の初期,残った蒸し餃子を焼いて食べたのが日本スタイルの始まりといわれる。

写真:種類の豊富な瀋陽餃子

種類の豊富な瀋陽餃子

餃子は,満州から中国全土に広がって,中央アジアから中近東へと渡り,トルコを経てローマでラザニアやラビオリとなって現れる。トルコではマントゥ(饅頭),シリアではシュシュバラック,ウズベキスタンではマンティと呼ばれ,シルクロードにたとえれば,さながら「チャオズ(餃子)ロード」である。

餃子の形が半円形なのは,中国の「馬蹄銀」と呼ばれる貨幣に似せたからだという説があり,現在でも旧正月や祝い事には欠かせない。

私は縁あって1990年代後半から瀋陽に五十数回通い続けたが,瀋陽餃子を知ったのは,通い始めてから数年後である。いつも現地の人にご馳走してもらっていたのに,彼らからすれば,餃子で海外からの客を接待するのは失礼にあたると考えたのかもしれない。それほど餃子は大衆の料理なのである。

古市徹雄(ふるいち・てつお)
建築家,都市計画家,元千葉工業大学教授。1948年生まれ。早稲田大学大学院修了後,丹下健三・都市・建築設計研究所に11年勤務。ナイジェリア新首都計画をはじめ,多くの海外作品や東京都庁舎を担当。1988年古市徹雄都市建築研究所設立後,公共建築を中心に設計活動を展開。2001~13年千葉工業大学教授を務め,ブータン,シリア調査などを行う。著書に『風・光・水・地・神のデザイン―世界の風土に叡知を求めて』(彰国社,2004年)『世界遺産の建築を見よう』(岩波ジュニア新書,2007年)ほか。

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