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いち早い復旧 事業者の決断

震災から1年が経とうとしている。
津波で大きな被害を受けた沿岸部の復興には遅れがみられているが,
そのなかで,復旧を果たして事業再開を迎えている企業も存在する。
そこには,事業者の早い決断があった。
こうした決断が被災地の雇用を支え,復興がなされていく。
日本製紙石巻工場とレンゴー仙台工場の事例を紹介する。

日本製紙石巻工場

日本製紙石巻工場は,日本製紙グループの基幹工場。約111haの敷地に世界最大級・最新鋭の抄紙マシンを導入している。印刷用紙の単独工場としては世界トップレベルの生産能力を誇り,1938年の開設以来,石巻市の産業を支えてきた。

広大な敷地に,津波は最大5mの高さで押し寄せた。全域が浸水して操業は停止し,構内には大量のがれきや土砂が堆積していた。甚大な被害に,存続を危惧する声も多かった石巻工場だが,3月26日,日本製紙グループ本社の芳賀義雄社長が現地被害状況を確認し,その場で工場復興を宣言した。従業員はすぐさまがれき撤去などの復旧作業を開始し,全国から駆けつけた応援も含め,1日に1,800人以上もの人が作業に従事したという。

「日本製紙グループの皆さんが懸命に作業を行っていて,現地入りしたときには,既にがれきの大半が片付いていました」と当時を思い返すのは,当社東北支店で石巻地区の復旧現場を担当している岡野春彦所長。必死で作業する客先従業員の姿に,奮起したという。岡野所長が現地に入ったのが,連休が明けた5月9日。流されたフェンスを仮囲いで復旧するのが最初の仕事だった。「工場再興に向けて,とにかく早い対応が求められました。当時,資材も人員も不足していましたが,延長450mの仮囲いを明日明後日で復旧してほしいと。協力業者に頭を下げて,なんとか間に合わせました」。

その後,岡野所長はそれぞれの業者と協力しあい,排水設備建屋や電気室などインフラの立上げを急いだ。作業は急ピッチで進み,8月10日,自家発電用ボイラーの火入れ式が行われた。煙突から昇る白煙は,震災前の日常の景色。工場復活の“のろし”は,住民を勇気づけた。

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写真:震災翌日の日本製紙石巻工場正門前

震災翌日の日本製紙石巻工場正門前

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そして,トップの決断からわずか半年の9月16日,抄紙機が稼働して生産が再開された。この日行われた復興立上式では,万感の思いに至った従業員が涙ぐむ光景も見られた。岡野所長は振り返る。「復興にかけてきた半年間の思いが自然にわき出たものでしょう。それだけ被害が大きく,皆さん懸命だった」。

現在当社は,工場の一角でPPC用紙倉庫の新設工事を行っている。工場内で復旧ではなく新設工事が行われるのは,これが初となる。「地域経済の中心に立つ日本製紙さんが事業に弾みをつけるのは,地域にとっても励みになる。復興に向かって,職員一同張り切っています」。

写真:1日1,800人以上が作業に従事した

1日1,800人以上が作業に従事した

写真:日本製紙グループ従業員による必死の作業

日本製紙グループ従業員による
必死の作業

写真:煙突から昇る煙が住民を勇気づける

煙突から昇る煙が住民を勇気づける

写真:岡野春彦所長

岡野春彦所長

レンゴー仙台工場

いち早く移転を決断した企業もある。段ボールなどの包装材最大手のレンゴーだ。仙台塩釜港近くに位置する仙台工場は,津波で壊滅的な被害を受けた。

地震発生後,津波到来の情報を得て避難を指揮した堀井徹レンゴー仙台工場長は,到来した津波の凄まじさに呆然とした。「周囲にいる仲間と,生きるためにどうするか。それだけでした」。水没して水が引かず,一晩明けるとそれは,“いかにして脱出するか”になり,その晩は“どこに泊まるか”。翌日は“別れた人はどうしたか”。目の前のことを一つひとつ解決するしかなかったという。

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仙台工場が混乱するなか,レンゴーの大坪清社長は「百万一心」という言葉を引合いに,心を一つに被災地の救援に力を合わせようと宣言した。20kmほど離れた宮城県大和町に移転を決定したのが3月29日だった。

堀井工場長はいう。「経営陣には,工場や周辺の被害状況と我々の心情など,様々なことを考慮してもらい率直にありがたかった。“地元の宮城から逃げない”というメッセージをいち早く打ち出したことは,被災地の復旧・復興へ向けて大きな力になったと思いますし,我々現地の人間にとっても,本当に励みになりました」。

堀井工場長がこの移転を従業員に伝えたのは,年度もかわった翌月4月1日の社員説明会だった。当初集まった従業員には将来への不安がみてとれたという。この頃,仙台市内ではガスがやっと一部再開され,電車も動き始めた時期。ガソリンスタンドには長蛇の列ができていた。「新工場の再建を発表したとき,従業員の目の輝きが変わった。喜んだのは勿論ですが,迅速な決断には驚きもあったようです」。

レンゴーが移転を急いだ一番の理由は,従業員の雇用を確実に守ることだ。“労働こそが財貨とサービスを生みだす”というのが大坪社長の考え。2009年には1,000人の派遣労働者を正社員に登用したことも話題になった。新仙台工場完成までの間,仙台工場の従業員には東北各県の工場を職場として用意し,雇用が途切れることはなかった。

この移転計画で当社は,事業用地を紹介し,移転工事の設計・施工を担当している。新工場が起動するのは,3月15日。“一心の塔”“絆 3.11”と名付けたモニュメントも建立する。段ボールと地元経済は表裏一体,震災を忘れず力強く復興に取り組むというレンゴーの決意の表れだ。「鹿島さんは,復興に向けた同志。厳しい状況下で建設頂いた工場を“復興のタスキ”だと思い,これをつなぐ気持ちで,復興に寄与していきます」。

写真:雪が降る中,作業は追込み時期を迎えている

雪が降る中,作業は追込み時期を迎えている

写真:工場起動は3月15日の予定

工場起動は3月15日の予定

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写真:レンゴー仙台工場の被害状況

レンゴー仙台工場の被害状況

写真:堀井徹レンゴー仙台工場長

堀井徹レンゴー仙台工場長

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