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那覇:時を超える琉球のしらべ

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波の上ビーチと琉球王国時代より土地の総鎮守として信仰されてきた波上宮(なみのうえぐう)

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かつての首里城正殿。2025年に向けて再建が進む

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首里と那覇は,琉球・沖縄において別々の都市として歴史的に展開してきた。

首里は15世紀初頭,第一尚氏によって統一建国された琉球国の政治的中心地であり,王国の象徴たる首里城の城下街として着々と整備され,その機能を充実させてきた。たとえばいまも首里城の北にある龍潭(りゅうたん)は,中国由来の風水思想に基づいて人工的に掘削・整備された池である。

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首里城久慶門越しに望む那覇の街並み

©line / PIXTA

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1609年の薩摩藩による琉球侵略以降,琉球国は表向き東アジアの冊封体制のもとで中国(明・清)に服属するが,裏では江戸幕府と薩摩藩に監視・管理されるという「両属的」な体制を余儀なくされた。このような中国と日本の間の複雑な政治状況の中で,沖縄の古典芸能の粋である組踊(くみおどり)は生み出された。中国から琉球国の新王を承認するために訪れる冊封使(さくほうし)を歓待する役職についた玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)は,琉球古典音楽,琉球古典舞踊と能,浄瑠璃,歌舞伎など日本本土の芸能の両要素を取り入れた琉球独特の新しい楽劇として組踊を創造した。その内容は儒教的な「忠」・「孝」思想に沖縄の故事を盛り込んだもので,1719年の冊封使歓待の宴においてはじめて上演され,以降も後続の芸能者によって仇討ち物などの新作が次々と生み出されていった。こうして組踊は,琉球を統治する士族階級にとって必須の教養として他の諸芸と共に習得が奨励された。

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琉球古典舞踊「四つ竹」。四つ竹(よつだけ)という小道具を手に持ち拍子を取りながら踊る

©alamy.com

一方の那覇は,琉球国を支える貿易港として,アジア各国との交易を担ってきた。かつて那覇は国場川(こくばがわ)と安里川(あさとがわ)の河口に浮かぶ島々であったが,琉球国の発展を助ける中国系移民の居住地として久米村が作られ,また中国からの冊封使を迎えるために「長虹堤(ちょうこうてい)」と呼ばれる堤道なども整備された。1879年の琉球処分により近代国家日本に編入されて沖縄県となって以降,那覇は沖縄における物資の集積地および商業都市として繁栄し,次第に河口や湾が埋め立てられて那覇は完全に地続きの平地となった。

那覇の中心地には誰でも入場できる芝居小屋が作られ始め,ここで組踊や琉球古典舞踊など士族層の芸能が一般庶民にも鑑賞され広まっていく。さらにそこから雑踊(ぞうおどり:各地域の民謡曲に庶民の風俗を振り付けた踊り)や沖縄歌劇,沖縄芝居など近代の息吹を盛り込んだ新たな芸能が続々と生み出されていった。

1921年には市制が導入され,那覇は近代都市としての相貌を整えていった。

しかし太平洋戦争末期の1944年10月10日の米軍機による空襲(十・十空襲)と,1945年4月から始まった沖縄戦によって那覇の市街地は完全に破壊され尽くした。首里も,米軍の艦砲射撃と空爆によって徹底的に破壊された。

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戦後は米軍によって那覇市が沖縄の中心都市と位置付けられ,米軍管轄下の琉球政府のもとで戦災からの復興が進められていった。1954年には首里市と小禄村(おろくそん)を,1957年には真和志(まわし)市も編入して,戦後の新しい那覇市が誕生した。

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米軍の物資集積所があった新県道周辺は戦後いち早い復興を遂げて「国際通り」となり,
「奇跡の1マイル」と呼ばれるようになった

©まちゃー / PIXTA

戦後沖縄においては,琉球舞踊や民俗芸能エイサーがコンクールを通じて隆盛を見せる一方,組踊継承の努力も続けられた。沖縄が日本に復帰した1972年には,組踊が国の重要無形文化財に指定された。2000年代以降も,組踊音楽(歌三線,太鼓)や琉球舞踊から人間国宝の指定が続いている。現在,沖縄県立芸術大学(那覇市首里)や国立劇場おきなわ(浦添市)において,組踊を核とする琉球古典芸能の後継者育成が進められている。

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「万歳敵討」のひと場面。組踊は立ち方(沖縄古語の台詞と舞踊)
伴奏の地謡(歌三線,箏,太鼓,笛,胡弓)で上演される 提供:沖縄県立芸術大学

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那覇市には三大伝統行事がある。旧暦1月には那覇市辻でジュリ馬行列が行われる。戦前から続く正月行事で2000年に再復活した。5月連休には那覇ハーリー(爬竜船競漕)が一大観光行事として,また10月初旬には琉球国時代からの伝統を引き継ぐ那覇大綱挽が行われる。

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旧暦二十日正月に行われる那覇の三大祭りジュリ馬行列祭り。
かつて芸妓(ジュリ)として活躍した女性たちの鎮魂を願い、馬の頭と手綱をつけた衣装で踊り歩く

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提供:久万田 晋

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一方でポピュラー音楽も沖縄独自の発展を遂げた。日本復帰前,広大な米軍基地内に開設された各種クラブでは,沖縄出身の多数の音楽家が毎夜ジャズやアメリカン・ポップスの演奏を繰り広げた。米軍基地が縮小された1972年の日本復帰以降,これらの音楽家たちは那覇市中にライブハウスを開店していった。いまではジャズ,ロカビリー,ポップス,沖縄民謡,沖縄ポップなど多種多様なジャンルのライブハウスが国際通りを中心として賑わっている。

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国際通りの一角で那覇の音楽シーンを支えるジャズライブハウス
提供:サウンドエムズ

2000年代以降,県外・海外の観光客が増加してゆき,2019年にはついに沖縄への入域観光客数が1000万人を超えた。しかし2019年10月31日未明,沖縄文化・観光の象徴としての首里城が炎上した。現在,国と県の関係機関が一丸となり2025年を目指して再建計画を進めている。

この2年間のコロナ禍により,海外からの観光客が激減した。今後の那覇市がどのような方向を目指すべきかが模索されるが,新しい動きも起きている。2021年秋,伝統芸能の再評価や市民の芸能を重んじる思いに応える場所として,那覇中心地に「那覇文化芸術劇場なはーと」がオープンした。今後の沖縄の音楽芸能活動センターとなることが期待されている。

今年5月,沖縄は日本復帰50年の節目を迎える。

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那覇文化芸術劇場なはーと 提供:那覇市

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Listening

The Rough Guide To The Music Of Okinawa(2002年)

イギリス人ジャーナリストの選曲による沖縄音楽コンピレーション。“外部”の耳に聞こえる沖縄民謡,ポップスのイメージが伺えて興味深い。ネーネーズの「ウムカジ(面影)」は国際通りのライブハウス「島唄」で聴くことができる。

久万田 晋|Susumu Kumada

沖縄県立芸術大学・芸術文化研究所所長・教授。専門は日本・沖縄の民族音楽学,民俗芸能論,ポピュラー音楽論。著書に『沖縄の民俗芸能論 神祭り、臼太鼓からエイサーまで』(ボーダーインク,2011年),共編著に『沖縄芸能のダイナミズム 創造・表象・越境』(七月社,2020年)など。

石橋 純|Jun Ishibashi

東京大学大学院総合文化研究科教授。東京外国語大学スペイン語学科卒業後,家電メーカー勤務中にベネズエラに駐在。のちに大学教員に転身。文化人類学・ラテンアメリカ文化研究を専攻。著書に『熱帯の祭りと宴』(柘植書房新社,2002年),『太鼓歌に耳をかせ』(松籟社,2006年)ほか。

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