子供のための遊具は公園を象徴する装置である。
遊具がひと目でそれとわかるようにデザインされていることによって,
私たちはそこが子供が遊んでいい場所であることを了解する。
しかしわかりやすいデザインは使い方を規定するものでもある。
遊具の自由について考える。
わかりやすい遊具
公園と聞いて多くの人が思い起こすものは「遊具」ではないだろうか。
遊具とは子供が遊ぶためにデザインされた施設や装置のことである。ブランコやすべり台などが典型だ。前回触れたように,近年,子供の遊び場は公園を独占するものではなくなり,多くの公園で子供のための遊具が「健康遊具」と呼ばれる大人も使う健康器具に置き換えられたりしているし,公園そのものも多様化していて,ひと括りにはできない。
それでも,遊具の持つ記号性はいまだに強力である。これも第1回で記したように,かつて,「ブランコ,すべり台,砂場」が公園の「三種の神器」と呼ばれていたことがあった。これらが揃っていれば公園を名乗ることができるというわけである。今日,遊具の権威は「神器」ほどではなくなったが,それでもたとえばビルに挟まれた空き地や鉄道の高架下などの街の隙間のような空間に遊具がひとつ置かれているだけでそこは小さな公園に見える。池と芝生と樹林が組み合わさったオープンスペースの片隅に遊具が置かれていると「庭園」ではなく「公園」に見えてくる。もちろん公園にはベンチやテーブルや水飲みなどといった,遊具以外のさまざまな装置や施設も多く用いられているが,その中でも遊具は特に公園のイメージを強く帯びているように感じられる。
子育ての経験,あるいは幼児と一緒に街へ出かけた経験をお持ちの方には通じる感覚だと思うが,ひと目でそれとわかる「遊具のある公園」の存在は子連れにとっては救いの場所である。遊具があればそこで子供を遊ばせ,大人はベンチの傍らにベビーカーを置いて休憩することができる。子連れの実感としては,遊具のある公園から得ることは子供が楽しく遊ぶ機会もさることながら,安全地帯に入ってひと休みすることの安心感のほうが大きいように思う。この場所では子供が走り回ったり大声を出したりしても「許されている」という感覚である。つまり,わかりやすい形状の遊具があることによって「公然と遊ぶ場所」であることが示される,それが子連れにとっての遊具の意味なのである。
わかりにくい遊具
だが,子供がそこで遊ぶことが「許される」かどうかを気にするのは子供ではなく大人のほうだ。実際,公園の遊具に夢中になって遊ぶような年齢の子供たちは,どこでも何を使っても遊ぶ。子供たちにとっては,手の込んだデザインでつくられた遊具がなくても,雑草の生えた斜面があればいいように見える。また,子供たちはしばしば,遊具を設計されたようには使わない。ブランコやすべり台はユーザーの耐久テストのごとき色々な使われ方をする。子供たちが遊具に対して見せる創造性と工夫は驚くべきものがある。さらに,子供たちは遊具と遊具以外の施設や装置の区別をしない。子供たちはフェンスによじ登り,道路に落書きをし,廃材で秘密基地をつくる。
それらを矯正するのが大人である。私たち大人は,子供たちがフェンスに登って遊ぶことをたしなめる。子供たちは何度も叱られるうちに,遊具とそれ以外のものを区別する社会ルールを学び,デザインされた遊具の意味どおりに使うようになってゆく。その延長に私たちの遊具に対する感覚がある。遊具が遊具に見えることで安心するのは私たち大人の感覚だということだ。もちろん,施設や装置の意味や機能をわかりやすくデザインすることは大切なことである。しかし,意味や機能を形にして強調することは,その使い方を限定することでもある。
わかりやすくない遊具の一例として,スペインのエスコフェ社という屋外ファニチャーメーカーの製品がある。同社の「ランドスケープ・ファニチャー」のカタログには,ベンチにも遊具にも彫刻にも見えるようなコンクリート製の物体に「PETRA」や「TWIG」「SLOPE」などという名前がつけられて並んでいて,見ているだけで楽しい。以前,機会があってエスコフェ社の「SLOPE」という製品を公開空地に設置したことがある。そこは集合住宅と商業施設とオフィスビルが隣接する敷地で,「子供のための遊具が欲しいが,オフィスワーカーも休憩できるように,いかにも児童公園のようにはしたくない」という要望に答えるべく選んだものだった。この製品も何とも定義しにくい形状をしていて,座るのか寝るのか遊ぶのかは使う人の解釈に委ねられている。実際に,それは子供にも大人にも思い思いの使われ方をしていて,なかなかいい眺めである。
公園の遊具について考えるとき,私は札幌市の大通公園にある「ブラック・スライド・マントラ」のことを思い出す。まだ小さかった子供たちを連れてそこを訪れた際に,私にはこのイサム・ノグチの作品がアートワークに見えてしまい,その少し手前で立ち止まってしまった。だが,子供たちは何のためらいもなく走って行き,よじ登って滑り降りて遊んだ。イサム・ノグチの問いかけに合格したのは子供たちのほうである。