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幸せの建築術 人類の叡智を再考する 第8回 クロアチア・ドゥブロブニク 絶景の斜面にひそむ街路の絆

写真:赤土を焼いた瓦葺きの屋根が連なる街並み

南側街区を眺める。赤土を焼いた瓦葺きの屋根が連なる街並み

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紛争を乗り越えて

クロアチアのドゥブロブニクを最初に訪れたのは1988年。旧ユーゴスラビアからの独立運動に端を発したクロアチア紛争(1991〜95年)の勃発前だった。このセルビアとの戦いによって,街の大部分が破壊され,ユネスコの危機遺産リストに登録されたほどだった。戦禍を伝えるニュース映像を見たときは,この街の再生は無理だと思われた。

2度目に訪れたのは2008年,街は完全に修復されていた。ヨーロッパの都市には,ポーランドのワルシャワやドイツのドレスデンなどのように,壊滅状態となった街並みが復元されている例が少なくない。そこには,先祖から脈々と受け継いだ歴史を未来につないでいくという,住民の強い意志がある。それらの歴史には,地域の文化,宗教などとともに,時間をかけてつくられた街の空間や,そこで営まれる人々のさまざまな生活も含まれる。

街のあらゆる空間は生活の痕跡なのである。街の破壊は,受け継がれてきた伝統や生活様式,そして住民たちのアイデンティティまでもが壊されてしまうことにほかならない。しかし,ドゥブロブニクは,住民自らの努力で古い史料をもとに建物の修復作業を行い,見事に復興した。

地図

写真:アドリア海に突き出た城壁都市,ドゥブロブニクの全景

アドリア海に突き出た城壁都市,ドゥブロブニクの全景

写真:プラカと呼ばれる中央大通り

プラカと呼ばれる中央大通り

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島と斜面の街がひとつに

街のもつさまざまな特徴は,この地がたどってきた歴史によってすべて説明される。もともとここは海を挟む2つの街から成っていた。最初に建設されたのは,7世紀ごろ。ローマ人が現在のドゥブロブニクの南側にあたる,石灰岩でできた島に建設を始めたことに由来する。やがて北の対岸にスラブ人が住み始める。ローマ人の子孫とスラブ人が海を介して対峙していた構図は,そのままこの都市の骨格をつくることになった。

2つの街に挟まれた海はやがて水路になり,11世紀末から埋め立て工事が進められ,東西に走る現在の大通りとなる。プラカと呼ばれるこの空間は,通りというよりは細長い広場といったほうがふさわしい。事実,夕方になると市民がこの広場に集まり始め,やがては人々でいっぱいになる。いまでは南北の街をつなぐ象徴的な空間になっている。

図版:ドゥブロブニク市街地図

ドゥブロブニク市街地図。中央を東西に貫くプラカを挟んで,整然と区画された北側街区とランダムな南側街区

写真:南北の街区をつなぐ大通り,プラカ

南北の街区をつなぐ大通り,プラカ。街の人々や世界中から訪れる観光客で賑わう

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ランダムな地形を生かした南側街区

プラカで隔てられた南北2つの住居地区は,街の構造がそれぞれ大きく異なる。

南側街区は,不整形な岩盤の島の上につくられたため,起伏があり,左右に曲がりくねった道路によって構成されていて,坂道や階段が続く。斜面を生かすように,道の上には所々にアーチが架かっている。その上部は住居になっているので,人々は互いに顔を合わせる機会が多くなる。小津安二郎監督の映画『東京物語』に,坂が連なる尾道の場面が出てくるが,そこでは窓越しに近隣の人たちの深いつながりが生まれている。ドゥブロブニクにもこれに通ずる風景があり,上下する階段や道路に,明るさと陰影のコントラストが加わり,更にダイナミックで魅力あるものになっている。

魅力的な屋外空間には人が多く集まる。イタリアやギリシャの集落,日本の漁村集落などには必ずといっていいほど,そこかしこに人々が集まるスポットがある。顔を合わせる街や建築の空間づくりが,特にコミュニティ不在といわれる現代に必要ではないだろうか。

写真:道路の所々にアーチが架かっているのが特徴

南側街区。道路の所々にアーチが架かっているのが特徴。アーチの上は住居になっていて人々の暮らしが垣間見える

写真:南側街区の街路

光と影が織りなすコントラストが美しい南側街区の街路

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北側は整然とした斜面の街

北側街区は南側に比べると,きちんと区画割りがされている。これは17世紀後半にこの街を大地震が襲ったことに由来する。南側街区は頑丈な岩盤の上にあったため大損壊を免れたのに対し,北側は壊滅的な被害を受けた。それを機会に綿密な都市計画が行われ,現在の姿になっている。しかもこの一帯は急斜面地であるため,階段状の道路が斜面に沿って等間隔に並ぶ。その道幅は狭く,両側の建物によって挟まれた空間は太陽の光が入らないほどに切り立ち,訪れる者を圧倒する。

階段の両側は窓と扉であふれている。扉前には平らなスペースが設けられ,そこに置かれたプランターには思い思いの花が植えられ街に潤いを与えている。人々が屋外空間を大事にしていることが,更にコミュニティの絆を強くする。

写真:北側街区

北側街区。細い直線階段が通る急斜面の街

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城壁と住民に守られて

街の周囲は,15世紀ころにできあがったとされる,ところによって高さ約25mもある堅固な石の城壁に囲まれている。その南半分は海に面していて,天然の要塞といえるほど人を寄せ付けない。1周約2kmの分厚い壁の上部はアップダウンのきつい遊歩道になっていて,1時間ほどで歩くことができる。城壁からはアドリア海も眺められ,街を見下ろすと中央にプラカが走り,北と南の街が斜面と起伏の多い岩盤の上につくられているのが一目で分かる。

こうした美しい景観から,ドゥブロブニクは「アドリア海の真珠」とも称され,一級の観光地となった。その街を守り続けてきたのは,要塞のごとき城壁であり,そこに張り巡らされた街路が育んできた住民たちの絆なのである。

写真:満潮城壁の東側にある旧港

城壁の東側にある旧港。かつての玄関口を守った2つの要塞が眺められる。現在は遊覧船などの発着場として賑わう

写真:各戸の前に思い思いに置かれた植物

各戸の前に思い思いに置かれた植物

写真:城壁の上はアップダウンの多い遊歩道

城壁の上はアップダウンの多い遊歩道になっていて,約1時間で1周できる

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古市流 地球の歩きかた

クロアチア共和国国旗
(Republic of Croatia)

面積:5万6,594km2(九州の約1.5倍)
人口:428.5万人
首都:ザグレブ
クロアチア語が公用語。
宗教はカトリック,セルビア正教などが混在。
民族は90%がクロアチア人

ドゥブロブニクへの行き方

クロアチアはアドリア海に面していて,対岸はイタリアである。クロアチア自体は古い歴史をもつが,かつては南スラブ連合のユーゴスラビアに含まれていた。海に突き出た城壁都市ドゥブロブニクは共産主義時代から随一のリゾート地として栄えた。

現在は,ウィーンやヨーロッパの主要都市から直接飛行機で入ることができるが,せっかくなら古都ザグレブ経由もおすすめだ。ザグレブから隣国のスロベニアまでは列車で2時間。近代建築の巨匠オットー・ヴァーグナーの弟子ヨジェ・プレチニック(1872-1957)の故郷で,首都リュブリャナには彼の傑作が多く残っている。

シーフードに羊肉

クロアチアはかつてイタリアやフランス,内陸部はハンガリーやオーストリア,更にはオスマン帝国に支配された歴史をもつ。この国の料理はそれらが混じり合い,多様性に富んで楽しい。

ドゥブロブニクを含むアドリア海ではシーフードが豊富。イタリア料理の影響もあり,かなり美味しい。なかでもタコはおすすめ。内陸に行くと羊肉が絶品だ。特に羊を鉄の棒で串刺しにし,回転させながら下に置かれた炭火で焼き上げていくその豪快な料理は,見ていても楽しい。クロアチアの美味しいワインも加わって,宴もたけなわとなっていく。

写真:羊の丸焼き

羊の丸焼き

写真:美味しいシーフード

美味しいシーフード

古市徹雄(ふるいち・てつお)
建築家,都市計画家,元千葉工業大学教授。1948年生まれ。早稲田大学大学院修了後,丹下健三・都市・建築設計研究所に11年勤務。ナイジェリア新首都計画をはじめ,多くの海外作品や東京都庁舎を担当。1988年古市徹雄都市建築研究所設立後,公共建築を中心に設計活動を展開。2001~13年千葉工業大学教授を務め,ブータン,シリア調査などを行う。著書に『風・光・水・地・神のデザイン―世界の風土に叡知を求めて』(彰国社,2004年)『世界遺産の建築を見よう』(岩波ジュニア新書,2007年)ほか。

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