前震,本震の後も余震が続く中,多くの社員が震災直後から復旧作業に携ってきた。
被災地の最前線で,復旧に向け懸命の努力をする6人の社員からメッセージが届いた。
14日の真夜中,「クレーンが必要だ。2台吊で新幹線を復旧したい」。この言葉からすべてが始まりました。道路状況が掴めない中,タクシーで熊本へ。高速道路は,熊本へ向かう緊急車両の赤色灯で溢れていました。夜明けからお客さまと一緒に,脱線車両が横たわる高架上,壊れかけた建物が点在する周辺を歩きながら脱線復旧方法を探り,疲れ果てて横になった16日の午前1時過ぎ,本震と呼ばれる震度7を体験しました。
翌日からは駆けつけてくれた社員,協力業者と,被災者でもある地元協力業者が,お客さまとともに知恵を絞って,1週間の復旧作業に挑んでくれました。頻発する余震に恐怖を感じながら作業を進める姿や,支援物資を手渡すと頭を下げて被災した自宅に戻る協力業者さんの姿を思い出すと,皆が怪我なく,無事故で終らせることができたのが自分の誇りだったような気がします。
使命感と恐怖感,これをお客さまも含めて,皆が共有できたからこそ達成できた早期復旧,安全作業であり,普段の工事も「同じこと」なのではと感じながら,引続きの復旧工事に当たっていきます。
4月14日21時26分地震発生,家中で様々な警報音が鳴り始め,数秒後に福岡でも大きな揺れを感じました。熊本の震度7を知り,すぐに九州支店へ。
日本建設業連合会(日建連)九州支部は,22時50分に対策本部を設置。同支部は,国土交通省九州地方整備局(九地整),西日本高速道路,福岡北九州高速道路公社と災害協定を結んでおり,当社をはじめ会員各社は,官公庁に対しては日建連を通し,民間企業などへは単独での対応となります。日建連経由の対応は,池嵜正勝技師長と私が担当しました。西日本高速道路からは,機材手配要請をはじめとした緊急復旧工事を依頼され,会員各社で分担。九地整からは資材調達要請の他,阿蘇大橋地区崩落土砂撤去と俵山トンネル外復旧工事への協力要請がありました。現在,当社は同トンネルの工事にも対応中です。
日建連九州支部として,大地震への対応は初めてでしたが,東日本大震災後に災害支援協定の見直し,震災対策マニュアルの策定,緊急連絡の予行演習を行っていたことにより,迅速に対応できたと思います。
ゆめタウンは,イズミが中国,四国,九州地方で展開する商業施設です。当社も多くの施工に携わり,熊本地区では,ゆめタウン大江と,ゆめタウン光の森の2店舗を施工しています。私は新築工事を担ったことから,両店舗の復旧工事を担当することになりました。
4月16日,本震での被害は甚大でした。まずインフラが全てストップ。防煙垂壁,エキスパンション,昇降機を中心に破損しており,18日より復旧工事に取り掛かりました。熊本地区においてコンビニをはじめ全てのスーパーが営業できない状況で,お客さまからは不足している食料品,生活物資を周辺住民に供給するために,一日も早くお店をオープンしたいという要望がありました。
同社の工事を20年以上にわたり継続的に行ってきたこともあり,これまで工事に携わってきた協力業者が迅速に応急対応してくれ,大江は震災2日後より営業再開。光の森も食料品売場が震災6日後より営業再開することができました。
阿蘇で育ち,熊本営業所に近い熊本高校に通学していたので,地の利があるということもあり,4月19日に本社から営業所の支援に入りました。
約20名の社員が,お客さまの要請により,各所ビルの復旧・安全確保に奔走していました。私は,当日現場から戻ってきた社員の報告を取りまとめ,本社・支店間の情報共有を図りました。緊急時にそれぞれが知恵を絞りながら臨機応変に迅速かつ的確に対処している姿に,当社社員の底力を改めて感じました。
伯父と伯母の家が,震源に近い西原村にあり,空港に来客を送迎した折に訪ねました。家々が座屈し瓦が落ちて無残な光景でした。無事を祈りながら,名前を呼びましたが応えません。軽トラックに屋根がわりのブルーシートが掛けてあり,めくってみると,二人は荷台に敷いた布団の上にいました。家と田畑から離れたくないと言い,「またすぐ来るから」と言い残した後,降り出した雨の夜を凌ぐ厳しさに天地を恨みました。
西原村の先に当社が復旧作業中の「俵山トンネル」があります。今も故郷の復旧・復興に携わりたいと思う日々です。
熊本地震の本震が発生したのは,ちょうど仕事を終えて部屋で眠りに就いた時でした。暗闇の中,慌てて外に飛び出したのを覚えています。初動対応としては,社員安否確認及び得意先被災状況の情報整理,応援社員宿舎と支援物資の手配・管理を行いました。
社員・作業員用宿舎の確保と生活環境の整備は困難を極めました。当初は熊本市全域でインフラが停止し,店舗も宿泊施設も全て閉鎖,作業員を県外から集める事も困難でした。不動産屋に並ぶ長い行列を目の当たりにしながら,応援の事務社員と総出で宿舎を探して,県内外から備品・生活雑貨を調達・搬入し,生活環境確保に奔走しました。現在も応援社員の入れ替わりに伴う生活環境確保に重点を置いていますが,なかなか平常通りの環境が整えきれていないことは,今後の課題です。
今回の対応では,震災直後から支店を問わず物資・人材共に積極的な支援をいただき,鹿島の迅速な行動力と結束力,社会基盤を担う誇りを感じました。私もこの強さを得られるよう努力していく次第です。
4月16日の本震後,私が工事を担当した製薬メーカーの生産・研究施設では,外壁に大きなクラックや孔が開き,1階のRCの柱脚コンクリートは砕け,塗床には大きなクラックが入り,サッシはひしゃげ,屋上冷水と温水配管は落下していました。また,熊本県内にある同メーカーの他施設でも外壁タイルの落下や,浄化槽の破損,内装も破壊され,30棟以上もの建物の補修を行わなければならない状態でした。
どこから手を付けていいか分からず途方に暮れる中,支店内や他支店から直ぐに応援をいただいたおかげで,現地調査や補修計画を早急に立てることができ,お客さまともスムーズに打ち合わせをしながら復旧工事を進めています。おそらく,もっと大変だったであろう東日本大震災や鬼怒川氾濫の初動・継続的な応援対応の実績が教訓として活かされているのだと感じました。鹿島の総合力の一面を見た瞬間です。
活断層地震は揺れてから携帯電話の警報が鳴ります。日頃の心構えを大切に!