カレル橋
チェコ共和国の首都・プラハは中世以来の街並みを残す美しい街である。各時代の建物が街を彩り,歴史の積み重ねを感じさせてくれる。丘からの「百塔の街」の俯瞰や通りの街並みなど,プラハの魅力は尽きないが,ヴルタヴァ川の川辺もプラハを代表する風景のひとつである。なかでも圧倒的な存在感を示しているのがカレル橋である。
カレル橋はチェコ王カレル1世(神聖ローマ皇帝カレル4世)の命によって1357年に着工され,1402年にようやく完成した。
その定礎には1357年9月7日5時31分という時刻が選ばれた。“135797531”と上昇と下降の奇数が並ぶようにし,魔術的な意味が込められたといわれている。
現在のカレル橋の高欄部には,合わせて30体のキリスト教の聖人の彫刻が据えられているが,これらは当初からあったものではない。現在置かれている彫刻のうちで最も古いものは聖ネポムツキーの像で,1683年に立てられた。
カレル橋は,600年の間にはたびたびヴルタヴァ川の洪水で一部が破壊され,そのつど修復されてきた。氷塊がアーチを塞ぎ,また大量の木材が橋に流れかかって,橋脚が崩壊する事故もあった。
プラハの都市形成
ボヘミアの森に源を発したヴルタヴァ川はプラハの街を南北に貫くように流れる。現在,プラハ市域のヴルタヴァ川には15橋が架けられている。それらが両岸に形成された街を一体化して,都市活動を支えている。
プラハという地名は「瀬」を意味する「プラヒー」という語に由来するようだ。ヴルタヴァ川の浅瀬を渡って人,物,文化が行き交うプラハの特徴をよく表している。
プラハが都市としての発展を遂げるきっかけは,13世紀前半,現在の旧市街に塁壁で囲った街が建設されたことであった。13世紀後半にはヴルタヴァ川の左岸地区にも計画的な街がつくられ,橋の重要性が増していった。
14世紀半ばのカレル1世の時代には新市街が整備され,旧市街,対岸のマラー・ストラナ,フラッチャニを含めて広く塁壁で囲まれた当時のヨーロッパでは最大の都市が形成された。
両岸を緊密につなぐ橋
19世紀後半には産業革命の影響が及び,都市内の道路拡幅とヴルタヴァ川への新しい橋の需要が高まった。そして旧市街を囲っていた塁壁と堀は1860年代から撤去が始められ,その跡は内環状道路に生まれ変わった。
ヨーロッパの大都市と同様にプラハでも駅が街の周縁部に設置され,ヴルタヴァ川を渡る鉄道の橋も中心市街地の外れに架けられた。北側のネグレリー高架橋は当時の ヨーロッパでは最長の高架橋であった。一方,市街地の南端に通称ヴィシェフラド鉄道橋が完成している。
1878年に開通したパラツキー橋では,アーチに青の花崗岩,スパンドレルに赤の砂岩,そして高欄部に白の大理石が使い分けられている。この3色はチェコ国旗の色を表している。軍団橋も同様に3色の石材が使い分けられた石橋である。このふたつの橋の完成によって電車トラムがヴルタヴァ川を越えて走るようになり,両岸の街の緊密性が増していった。
アール・ヌーヴォーの橋
1891年,プラハの近代化を象徴する「チェコ王国領邦記念博覧会」が開かれた。会場に建てられた鉄とガラスをふんだんに使ったアール・ヌーヴォー様式のパビリオンが,その後のプラハの建築に大きな影響を及ぼすことになった。
パリ通り(パジージュスカー通り)につながるチェフ橋は,柔らかな曲線的変化をもつ石造りの橋脚,照明灯や高欄のデザインなどが典型的なアール・ヌーヴォー様式になっている。
フラーフカ橋の北側のデザインは,チェコキュビスムの建築家,パヴェル・ヤナークが市の構造技師と共同で担当した。曲線を強調したユニークなデザインで,どちらかといえばアール・ヌーヴォーに近く,キュビスムへ移行する過渡期のデザインであるといえるだろう。
チェコキュビスムの橋
ヤナークらが主導したキュビスム建築は,直線や平面を立体的に組み合わせて微妙な陰影を強調しているのが特徴で,1910年代に生まれたチェコ独特の様式である。
ヤナークらが意匠設計をしたマーネス橋は,橋本体のアーチ頂部に簡素なレリーフがあるほかには装飾はなく,直線的ですっきりとしたデザインである。
イラーセク橋の設計もチェコキュビスムの代表的な建築家,ブラチスラフ・ホフマンが担当した。キュビスムの建築家がかかわった橋のデザインは,時代が下るにしたがって簡素になり,キュビスム本来の主張に近づいていったといえる。1951年に完成したコンクリート橋のシュテファーニク橋は,キュビスムの考えがさらに徹底された簡素なデザインになっている。