跳ね橋
白い跳ね橋のマヘレ橋はアムステルダムを象徴する橋である。太い柱で支えられた天秤棒が一方では跳ね上げ桁を吊り,他方に載せられた重りによって平衡が保たれている。
現在のような姿になったのは1871年のこととされるが,その後30年ほどの周期で大きな補修が施されながら古い時代の木造跳ね橋の姿が今日まで伝えられてきた。
船が物流のおもな手段であった時代には,舟運を妨げない跳ね橋が多く架けられた。しかし都市化の進展とともにそのほとんどが姿を消し,天秤棒式の跳ね橋は鋼製のものを含めて十数橋が残っているに過ぎない。
しかし,現在もいろいろな形の跳開橋がその役割を果たしており,アムステル川のマヘレ橋からベルラーヘ橋までは,どれも跳開式の可動橋になっていて,マストの高い船もさかのぼることができる。下流の運河ではニーウェへーレン運河の橋がすべて跳開橋になっており,エイ湾からアムステル川へさかのぼる船のルートが確保されている。
町の成立ちと橋の役割
アムステルダムは北のヴェネツィアといわれるように,運河が発達した町であるが,ヴェネツィアとは違って広い道路や近代的な都市機能が集積しており,その形態は大きく異なっている。
町の形成は14世紀頃,アムステル川の下流部を軸に始まり,町を守るための城壁が築かれるとともに,それに沿って運河が開削された。15世紀になると,新しい運河,シンヘルとヘルデルセカーデに沿って城壁がつくられ,町が拡大した。そして17世紀にはシンヘル運河を外堀にして,火器による防御のために多くの突出部をもつ城壁が築かれた。現在もシンヘル運河の沿岸に凹凸があるのは,その名残である。
旧市街には中央駅あたりを中心にして扇状に5,6本の運河が巡り,それらをいくつかの放射状の運河が連絡している。各運河の両岸には細い道路が張り付いているが,幹線道路はほぼ放射状に配置されており,これらには幾路線ものトラム軌道が敷設されている。
アムステルダムは運河の町であるが,橋なくしては陸上交通の機能は成り立たない。橋は都市としての歴史の積み重ねのなかで,時代に応じてその構造や姿を変化させてきた。
レンガと石のアーチ橋
17世紀には都市発展のなかで,簡易な木橋に替わって多くのアーチ橋が建設されるようになった。その多くがレンガ造りで,隅角部に砂岩を使ったアーチがはめ込まれ,メリハリのきいた美しいアーチ橋が運河の水面にその姿を映すようになり,その風景が地域のステイタスシンボルともなった。
レヒュリールス運河が扇形の各運河と交差する所には,それぞれ2ないし3基のアーチ橋が架けられており,最も北のヘーレン運河との交差部からはそれらのアーチ橋を見通すことができるため,観光スポットになっている。
また,1648年に架けられたシンヘルのトーレン橋は,約40mの幅をもつ広場のような橋で,橋上の一部ではカフェが開かれ,若者で賑わっている。
桁橋への転換
19世紀になると,広い道路や大量輸送機関が必要になり,橋の機能も大きな影響を受けることになった。トラムの鉄軌道は急な勾配には適していないため,橋面を切り下げて,より平面的な構造の橋が求められ,主要な道路のアーチ橋は錬鉄や鋼を用いた扁平な桁橋に架け替えられていった。
こうして市の中心部にあった伝統的な木橋やアーチ橋は,1800年頃には約100橋ずつあったものが,第二次世界大戦後には木橋が3橋,アーチ橋が15橋に減ってしまった。
新しいデザイン思潮と景観の復元
都市の近代化のなかで,20世紀の前半にはアムステルダム派の思潮が都市計画や建築デザインをリードした。橋のデザインもこの影響を受けた設計者が担うことになった。橋本体はできるだけ構造高を低くした床版橋が中心であるが,高欄や照明灯などは鋳鉄製の装飾性の高いものが採用され,石の彫刻で飾られることも多く,それぞれの橋の独自性が強調されている。
一方,第二次世界大戦後は地域の都市景観における伝統的なアーチ橋の役割が見直され,10橋を超える桁橋がレンガと石のアーチ橋に架け替えられた。同様にいくつかの木造跳ね橋の復元も試みられている。
アムステルダムの橋は水運と陸上交通の両立や近代都市としての交通需要に合わせてつくり替えられてきた。このため創架当初の姿をとどめる橋はほとんど見ることができない。しかし,なお古い時代の容貌をもった橋が周辺の街並みに溶け込んでいる風景は,市民の要望に沿った市担当者の努力の賜といってもよい。