ホーム > KAJIMAダイジェスト > October 2012:特集「橋梁〜次世代に使い継ぐ」

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橋梁 次世代に使い継ぐ

川や谷,海をまたぎ,街をつなぐ。
橋梁は,我々の生活に欠かすことのできない最も身近な社会インフラのひとつである。
戦後,橋梁技術者たちは困難を乗り越え,数多くの橋梁を手掛けて国土の発展をもたらした。
そこには,国土のために,子孫のためにという強い思いがあった。
国内に持ち込まれた新たな技術は,技術者たちの不断の努力で,飛躍的な発展を遂げ,今なお進歩を続ける。

――橋梁にも,やがて更新期が訪れる。建設から50年を経るものは,10年後には3割に迫り,
20年後には半数を上回る。海外では,経年劣化から大規模な崩落事故も起きた。
人々の安全な暮らしを守るために,有効な手法を用いた維持管理体制の構築が急がれている。
ここでは,当社の橋梁技術の歴史を振り返りつつ,橋梁を次世代に使い継ぐ取組みについて紹介する。

写真:首都高速道路3号線渋谷高架橋(東京都渋谷区)

首都高速道路3号線渋谷高架橋(東京都渋谷区)

鼎談:橋梁を育んだ技術者

昭和30年代,プレストレストコンクリート橋梁の建設が本格化した。
国内にもたらされた新たな技術を手に,技術者たちは現在も使い継がれる橋梁の
数々を育んだ。創意工夫に励み,人を育て,橋梁を子孫に護り継ぐ。
国土の発展と当社の橋梁技術を支えてきた3人の技術者に,語ってもらった。

写真

写真:百島 祐信さん

百島 祐信 さん
1925年生まれ。1951年入社。1959年ドイツの橋梁名門・ディビダーク社に留学し, 橋梁技術を習得する。土木設計本部第2設計部長,土木企画部長を経て,1985年取締役技術研究所長。88年常務取締役技術研究所長。1991年顧問,99年に退職。土木学会賞吉田賞(昭和50年),田中賞(平成11年度)など受賞多数。工学博士。

写真:国近 康彦さん

国近 康彦 さん
1937年生まれ。1959年入社。PC橋梁黎明期から数多くの橋梁建設に携わる。1987年青森大橋JV工事事務所所長,89年同工事長を経て,1992年土木技術本部工務部専門部長。97年に退職。

写真:山本 徹

山本 徹
土木管理本部土木工務部
橋梁グループ長

橋梁技術の転換点

山本 百島さんは,わが国の橋梁建設の指導的役割を果たしてこられました。60近い橋梁の建設に携わり,今も現役技術者にアドバイスを下さっています。回想録に自分史まで記されて,いつどの橋梁の仕事をしていたか全部わかるわけですね。
百島 記録が好きなのですよ。歩んだ道のりを記しておきたいというね。
国近 鹿島OBでも,これだけ記録を残している人はいないでしょう。百島さんがドイツ・ディビダーク社の留学1期生として渡独したのが昭和34年。鹿島が橋梁建設を本格的にやり出したのはちょうどこの頃じゃないですか。
百島 建設会社でディビダーク社の技術を導入したのは,別子建設(現三井住友建設)が最初で,次が鹿島でした。岩手・横黒線の「鷲の巣川橋梁」を建設するために留学したのです。
山本 鷲の巣川は,PC鉄道橋カンチレバー架設では世界初ですよね。百島さんが留学して,設計から施工まで全て日本人の手で行い,PCカンチレバー橋を完成させたことで橋梁建設に弾みがつきました。

百島 正月に当時の石川六郎副社長に呼ばれて,君はドイツ語ができるかと聞かれました。英語よりはマシですと答えたら,では行ってきなさいと。鷲の巣川が設計できるようになったら帰国しなさいということでした。ドイツ語は幼年学校で3年,予科士官学校で1年,終戦で高等科に戻って2年。合計6年勉強しましたから。
国近 よく間に合いましたね。鷲の巣川は既に下部工が始まっていた。
百島 ディビダーク社では,本社設計部やいくつかの現場で研修し,最後に鷲の巣川の設計をして計算書と図面をディビダーク社の設計部長に見てもらった。よくここまでやったなと褒めて頂いた記憶があります。10ヵ月でなんとか漕ぎつけて帰国しました。
国近 当時,鹿島月報にも何度か記事が載りましたね。それだけ期待されていた。その後,どんどん後輩をドイツに送り出された。
山本 私も20年ほど前に2年間,ディビダーク社に留学しました。留学中,百島さんに2度お越し頂いたのを覚えていますね。ワーゲンを始め橋梁の現場用語はドイツ語が多いですが,そのほとんどを百島さんが名付けられた。凄いことです。
百島 大学ではなく建設会社で学んだところに大きな意義がありました。実用的な知識を得られましたからね。

月報1960年8月号

月報1960年8月号には,ドイツから帰国した百島さんが「時の人」として紹介されている。このほか2度ドイツ便りが掲載された

写真:鷲の巣川橋梁(岩手県)

鷲の巣川橋梁(岩手県)。1962年竣工。鉄道橋としては,世界初のカンチレバー架設による橋梁

写真:カンチレバー工法

カンチレバー工法。「片持ち梁」の意味で,“やじろべえ”のように橋脚の左右でバランスをとりながら,数mずつ橋桁を張り出していく。支保工が不要なため長大橋を中心に採用され,現在では2,000を超える橋梁がこの工法で架けられている

PC橋梁建設の黎明期

山本 国近さんは,全国で橋梁の施工を担当してこられました。
国近 西の谷橋から始まって全国を飛び回りました。私はダムに携わりたいと思って鹿島に入ったものの,橋梁ひとすじの会社人生になりました。これも百島さんと出会った縁ですね。
山本 お二人はそれ以降の長い付き合いというわけですね。鷲の巣川では,初のPC施工ということで,協力業者にどんな指導をしていたのでしょう。
国近 百島さんの方針で,職員が主体でやっていました。専門業者がいませんから職員がコンクリート打ちからPC鋼棒ジョイントも曲げ加工も全部立ち会った。
百島 そうそう,みんなでPC鋼棒担いでね。そういう時代でした。
国近 品質管理でもPC鋼棒は必ず職員がチェックした上で自ら組み立てる。ミスが発覚したら企業者に報告して,設計も交えて善後策を練る。
百島 PCが新しい技術だったからこそですね。
山本 鷲の巣川橋梁が終わると,東京オリンピック開催に合わせて,首都高速道路や東海道新幹線,東京モノレールなどの整備が次々と始まりました。PC定着工法としてディビダーク工法を採用した橋梁も増えています。時代を経て,技術力が向上してスパンも大きくなっていきました。
百島 最初の大きな橋といえば,浦戸大橋ですか。スパンが世界一になって,国際会議で講演をした覚えがあります。
山本 浦戸の後は,浜名大橋ですかね。あれも当時世界一だった。
国近 海外から持ち込んだ技術を高めながら広めたということですね。
山本 カンチレバーは技術の大きな転換点でした。支保工がいらないわけですから。その後,百島さんの次の世代が斜張橋に取り組んだ。あれでスパンがさらに大きくなって,200mとか250mが普通になった。やはりカンチレバーと斜張橋がエポックメイキングでしたね。思い入れの深い橋などありますか。
国近 鷲の巣川では大きな事故が起きました。主任技術者だった百島さんにとって11人もの方が亡くなったのは,慚愧に堪えないのではないですか。
百島 ちょうど国近さんが着任するときでしたね。あの事故は本当に忘れられません。
国近 毎年関係者が現地を訪れて慰霊されています。大変な事故でした。
百島 完成した後も,大地震が来るとその影響が気になります。東日本大震災では津波もありました。東北沿岸部ですと,織笠橋と閖上大橋。被害はあったのでしょうか。
山本 大きな橋にほとんど被害はありませんでした。
百島 後年に自分が携わった橋を巡ったりしましたが,それぞれ愛着があるし,永く社会の役に立ってほしいと願っています。

写真:西の谷橋(三重県)

西の谷橋(三重県)。1961年竣工。PC黎明期の橋梁で最大支間長は45m

写真:浦戸大橋(高知県)

浦戸大橋(高知県)。1972年竣工。中央径間230mは当時世界最大

人を育てる

山本 PC技術の黎明期には,多くの先輩方が技術の発展に尽力されました。
百島 PC技術の発展は,当時の石川六郎副社長や山本安一企画部次長(後,副社長)を始め,吉田正吾さん(後,常務取締役),昌子治郎さん(後,土木工務部次長),根本文夫さん,上野芳久さん,国近さん…。昭和30年代に入社して技術開発部や同時期の現場で工事に従事された所長以下,PC技能員に至るまでの努力の賜物です。
山本 そんななか,百島さんは数多くの技術者を育ててきた。努めて心がけてきたことはありましたか。
百島 強いていえば,士官学校での経験は大きいでしょうね。部下・兵隊の教育こそが任務だと頭に叩き込まれましたから。私は当時20歳で,部下は全員年上でした。士官学校では兵隊をどう育てるか学ぶ。兵隊と一緒に寝起きして,下から積み上げていく教育を受けたわけです。将校になってからは別世界で,食事も別になりましたが,将校1人では何もできない。やはり部下の教育は非常に重要でした。
国近 そういう人の育て方を17~18歳の頃から鍛えられていたわけですね。我々の大学時代は遊ぶことに一生懸命でしたから,到底及ばない。百島さんは個性豊かな方々を伸ばしていった。
山本 先輩方に感謝するのは,橋梁は組織として一本筋が通っていると言われることです。昔からの指導の賜物なのですね。国近さんも「国近学校」という言葉ができるほど教育に力を注がれた。
国近 現場もポリシーをもってやっていましたよ。昭和30年代は,賃金は安いが資材が高かった。物を大切にしないといけないと教えていました。それと体で覚えることを大切にしていましたね。手を動かしたことは忘れないもので,図面だって自分の手で引けば愛着がわいてくる。責任を持たせることも重要です。型枠に線を引いて,ここからここまでは君の担当だからきっちり仕上げなさいと。そうやって鍛えたつもりです。
百島 社員教育っていうと集合研修をやりたがる。悪いことではないけれど,あれは教育というより講習会だ。日常で教えていかないといけない。
国近 日々の積み重ねですね。

子孫のために

山本 百島さんが書かれた回想録の序文には「敗戦によって荒廃した我が国土の復興期に微力ながら様々な事業に参画できたことは,土木技術者冥利に尽きる」とあります。
百島 それが土木技術者の使命です。戦後まもなくは,東京全土が焼け野原で本当にひどい状態だった。復員して,東京の実家に帰ったら焼けてしまって何もない。大阪の親戚を訪ねて,私の家族が広島に疎開していると聞いて広島に行って無事を確認して。
国近 想像以上に大変だったのでしょうね。
百島 何もありませんでしたから。その後,兄の友人から茅ケ崎にある小屋を譲り受けて大学に通った。当時,東海道線は1時間に1本あるかないかで,土曜日は大学が昼に終わるけれども,15時まで電車がない。食べるものもなく不便な生活で…。そんな思いをずいぶんしましたね。
山本 その思いが,国土の復興を支えてきたわけですね。
百島 どの職業についていても,国のためにという意識は当時の国民全員が持っていたと思います。
山本 その後,高度経済成長期を経て,多くの橋梁が日本の発展を支えてきました。そしてこれからは,この大切な社会インフラを護り継いでいく必要がある。維持管理や補修も重要な課題ですね。
国近 20年くらい前に,これからは鹿島の技術を補修に活かすべきだという話があって,私と技術研究所の方で色々と調べました。客先へヒアリングに行くと,「補修工事は工事金額が小さいゆえに,技術的に難しいことを相談したくてもできない」「経験豊富な技術者がいる補修工事専門会社ができればいいですね」という意見を頂いた。それで補修専門の会社をつくろうと役員会に提言しました。実は補修にはかなりの技術力が必要で,コンクリートのクラックを直すにも原因を調べる必要があるわけです。鹿島には技術研究所とか土木の設計部門があるから,そういうところをうまく役立てていこうと。その結果,グループ会社で維持管理の設計を行うリテックエンジニアリングと施工担当のカジマ・リノベイトが設立された。
山本 百島さんはリテック社の初代社長に就かれました。
国近 カジマ・リノベイトの社長には,吉田正吾さんが就きましたね。お二人とも,その後も色々とご尽力されていましたよ。
百島 大学時代にコンクリートの大家である吉田徳次郎先生の最終講義で,先生が「子孫のために仕事をするのが進歩の要訣である」とおっしゃいました。私もこの言葉を人生の指針としてきました。現役技術者の皆さんにも,技術を伝承しながら,いいものを子孫に残してもらいたいと思っています。特に課長クラスの方には頑張って頂きたい。若手を管理する立場の人が一生懸命部下を育てる気持ちを持つ。それが,橋梁を護り継いでいくことにつながります。これは是非お願いしたいですね。
山本 やはり人ですか。人を育てる。鹿島には素晴らしい先輩方がいると改めて実感しました。本日はありがとうございました。

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