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超高層50年 始動

写真:霞が関ビルとその周辺。群を抜いて高いことがわかる

霞が関ビルとその周辺。群を抜いて高いことがわかる

日本初の超高層ビル

1960年初頭まで,地震国日本では高さ31mを超えるビルを建てられなかった。これは大正8(1919)年制定の市街地建築物法(現在の建築基準法)の制限によるものである。一方,戦後の高度経済成長のなかで開発が進み,都心には低層ビルが所狭しと建ち並び,既に過密化が問題となっていた。土地の高度利用や都市防災などの観点から,ビルの超高層化に対する期待が強くなっていた。

霞が関地区の再開発計画は,当初,旧東京倶楽部ビルの建替えという形でスタートした。はじめは,高さ制限31mの範囲内で9階建てのビルを前提に計画が進められた。しかし,この計画は延期を余儀なくされる。昭和36(1961)年10月,急激な景気拡大に外貨準備金が追いつかず国内の設備投資を抑えようとしていた政府から着工延期の勧告が出たためだ。この延期が後に日本初の超高層ビルを誕生させる一因となる。

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計画を練り直しているなか,旧東京倶楽部ビルに隣接し,同じく建替えを計画していた霞会館(旧華族会館)との協議が進んだ。これにより2棟合計で約1万6,300m2という一挙にスケールアップした敷地が誕生した。

昭和38年,建築基準法が改正され,高さ制限が撤廃された。昭和39年,事業主である三井不動産は当時始まったばかりの「特定街区」を申請し,同年第1号の指定を受けた。これにより容積率は当初の700%から910%,階数は基準床面積で割った36階となり,空前絶後の超高層ビル建設計画がまとまった。

写真:建設地にあった霞会館

建設地にあった霞会館

写真:昭和41年11月,近くには都電が走っていた

昭和41年11月,近くには都電が走っていた

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当社の取組み

当社では,遠からず超高層ビルが建築される日が来ることを予想し,まず昭和37年に欧米の超高層建築事情を調査するために社員を派遣。38年には超高層ビル委員会を設置して研究を進めたほか,技術研究所の強化拡充,電子計算組織の充実,大型コンピュータの導入などを行ってきた。なかでも耐震構造の世界的権威である東京大学名誉教授・武藤清博士を副社長に迎えたことは大きな力となった。武藤副社長を委員長とした超高層ビル委員会には建築企画,建築工務,設計,機械,建築の本店各部と技術研究所の主要スタッフが集められた。その活動は精力的で,幹事会の開催は実に150回にも及んだ。

写真:敷地空撮

敷地空撮

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柔構造理論の確立

36階建てのビルの実現に向けて提唱されたのが「柔構造理論」である。従来の「剛構造理論」では,建物の柱は下の方が太く,上に行くほど細くするのが一般的であった。これは建物自体を強固にして,その強さ,すなわち腕力で振動に抵抗する考え方で,地震力が集中する下階では当然柱や梁を強固なものにする必要がある。

これに対し柔構造理論は,柳が風を受け流すように,地震時の振動が建物自体に破壊力として加わらないようにした構造理論で,柱は鉄骨で頑丈に作るが,コンクリートで重く固めることは避けて軽量化するつくりとしている。

剛構造であっても100mを超えるビルの建設は可能であるとされていたが,柱や梁ばかりで建物が埋め尽くされていてはオフィスとしての価値は向上しない。内側に広い面積を確保し,使いやすくするうえで柔構造理論に基づく鉄骨造が望ましいとされた。

果たして地震国日本において36階のビルは安全なのか。地震のほかにも台風や火災発生時など有事の際の安全性が検証された。

耐震設計に先駆けて当社技術スタッフはまず,世界各地から地震のデータを集めてコンピュータに入れて計算し,その結果,霞が関ビルの地盤では30階以上で柔構造とするのが最も安全との解答を得た。これに基づいて実際の設計を行い,関東地震の3.3倍を超える大地震にも耐えうる設計を完成させた。風に対しても,過去のデータをコンピュータに記憶させて,建物のどの部分が最大の風圧を受けるかを細かく計算し,航空写真や測量に基づいて周辺の地形,建物の模型をつくり風洞実験を行った。その結果,秒速82.5mの風荷重にも十分耐えうるというデータを得た。

コンピュータの発展により,様々なデータを得られたことも超高層ビルの実現に向けて推力となった。

霞が関ビル概要

霞が関ビルの規模は,地上36階,地下3階,PH3階,高さ147m,延床面積15万3,223m2。構造は,基礎と低層部分は鉄筋コンクリート造,地下1階から地上2階までが鉄骨鉄筋コンクリート造,3階より上層は鉄骨造になっている。利用者がスムーズに移動できるよう全自動群管理方式による34台のエレベータが設置されている。

敷地は南が低く,北が高いゆるやかな傾斜を形成しているため,2階をロビー階とする設計となっている。地上1階は車寄せ,店舗,3~33階までが事務所一部店舗,34階は敷地の一部を所有している霞会館が使用し,35階はレストラン,36階外周部は展望用回廊(当時),地下階は収容数500台の駐車場などで構成されている。建設は,設計を三井不動産・山下寿郎設計事務所,施工を当社と三井建設(現三井住友建設)JVが担当した。霞が関ビルの特徴として,街区全体の環境を意識しているところにも着目すべきである。建物を高層化する一方で広大な敷地には約1万m2もの緑の広場が整備された。全敷地面積に対して空地率は72.13%にも上る。いたずらに高さを競うのではなく,それによってもたらされる美しく潤いのある都市環境を創造すること。それを真のテーマにしたところにこの建築の最大の価値が存する。

図版:断面図

断面図

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