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イースト・ロンドン:大都会に息づくベンガルの響き

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ブリック・レーン界隈ではストリート・アートを多く見かける。
このエリアはファッションや音楽の発信地ともなっている

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ロンドンを東西に流れるテムズ川。
バングラタウンは,左岸の高層ビルが並ぶエリアの奥あたりに位置している。
右岸に建つ尖ったビルは,2012年に完成した「ザ・シャード」

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金融街シティの東側に広がり,テムズ川の北岸に位置するイースト・ロンドンは,下町の情緒が残るエリアである。テムズ川は18世紀の産業革命において河川輸送の重要な舞台となり,この一帯には多くの労働者が集まった。19世紀には,アイルランド人やロシア・東欧から流れてきたユダヤ人などの貧しい移民労働者たちが住むようになる。低所得層が集まるホワイトチャペル地区は治安が悪化し,娼婦が次々と殺される「切り裂きジャック」事件(1888年)も起こった。

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ホワイトチャペル駅には,2022年3月にベンガル文字で駅名が併記された

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一方このエリアには,水夫として雇われていたベンガーリー(ベンガル人)もやってくる。現在のインドの西ベンガル州とバングラデシュを含むベンガル地方は,イギリス東インド会社が拠点を置き,19世紀以降本格化するイギリスのインド統治の中心的な土地だった。1947年にインドとパキスタンが分離独立すると,当時の東パキスタン(現バングラデシュ)出身の移民労働者の集住が進んだ。その数は,バングラデシュのパキスタンからの独立(1971年)後の70年代から80年代にかけて,労働者たちの家族呼び寄せによってピークを迎える。タワー・ハムレッツ区は現在イギリス最大の「バングラタウン」で,その中心とも言えるブリック・レーンには,インド・バングラデシュ料理店やバングラデシュ系の雑貨店,食材店,銀行などが並ぶ。

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ブリック・レーンを北に歩くと,おしゃれなカフェやバー,古着屋など若者に人気のスポットが姿を現す。
旧トルーマン醸造所の建物周辺は,週末は特に賑わう

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ベンガル地方は,非西洋圏初のノーベル文学賞受賞者であるラビンドラナート・タゴールや,彼とほぼ同時期に活躍した詩人・作曲家のカジ・ノズルル・イスラムなど,多くの文学者や音楽家を輩出した豊かな文化的土壌を誇る。タゴールやノズルルの書いた詩や歌は時代を越えて今も親しまれており,神秘主義的な信仰を持つバウルと呼ばれる行者たちが歌う音楽は,2005年にユネスコ無形文化遺産に登録された。こうした音楽が持つ土着的な旋律の響きは,祖国から遠く離れたイースト・ロンドンのベンガーリーたちの心にも確かに息づいている。

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ブリック・レーン近くの文化施設リッチ・ミックスでは,
ベンガル音楽のコンサートがしばしば催される

さらにイースト・ロンドンでは,ベンガルの楽器の音色やベンガル語のボーカルの響きを象徴的に用いた,新しい音楽も発展していく。このエリアでは移民の増加により,極右団体の活動が1970年代に活発化した。1978年には,25歳の縫製労働者アルタブ・アリが10代の若者たちに刺殺されたことを契機に,反レイシズム運動が大きなうねりをみせた。こうした動きを背景に,ベンガーリーの若者のなかから,打ち込みの電子音楽とベンガル音楽を結びつけ,自らのルーツへの誇りやアイデンティティを表現する試みが現れる。ハルーンとファルーク・シャムシェール兄弟が80年代前半に結成したジョイ・バングラ(「ベンガル万歳」の意味,後にジョイに改名)は,その先駆である。テクノとベンガルの民俗音楽の要素を融合したジョイの音楽は,近隣のショーディッチ地区にあったベースクレフ・クラブなどでの演奏を通じて,後に「エイジアン・アンダーグラウンド」と呼ばれる音楽的ムーヴメントの基盤を築いた。

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1999年に死去したジョイのハルーン・シャムシェールを記念して,
彼が住んでいたブリック・レーンの一画に2017年に掲げられたブルー・プラーク
(著名人にゆかりのある場所を示す円形の青い銘板)

90年代には,ホワイトチャペルで現在も行われている音楽ワークショップをきっかけに,バングラデシュ系やインド系のメンバーから成るエイジアン・ダブ・ファウンデーション(ADF)が登場した。かれらはヒップホップやパンクの要素も取り入れながら,差別と闘う姿勢や異なるマイノリティ集団の連帯などメッセージ性の高い曲をつくり続けている。また,ADFの初代ボーカル,ディーダール・ザマーンの兄のステイト・オヴ・ベンガル(2015年死去)は,90年代のエイジアン・アンダーグラウンドを代表するDJのひとりである。

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現代アートを展示する
ホワイトチャペル・ギャラリー

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2000年代にはR&Bやヒップホップの影響が強まり,英語で歌うベンガーリー男性シンガーがイースト・ロンドンから次々と現れた。一方2010年代に入ると,ベンガル語の歌詞で自身のルーツをオープンに表現するニシュがデビューする。彼の姿勢に触発されるかのように,近年イギリスやアメリカなどの若いベンガーリー・アーティストによる,ベンガル語の楽曲制作やコラボレーションが盛んになってきた。ストリーミング世代のかれらにとって,自国の狭い同胞市場を越え,バングラデシュ本国を含む世界規模のベンガーリー市場を見据えた音楽活動は自然な流れだろう。このグローバルなネットワークのなかで,イースト・ロンドンはベンガーリー文化を象徴するようなひとつの場所となっている。

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ホワイトチャペル駅前の通りには多くの小売店や路上マーケットが並び,
人々の暮らしを間近で感じることができる

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ベンガルの新年(4月)を祝う祭り,
ボイシャキ・メラ。
ブリック・レーンなど近隣でのパレードの後,
地元の公園を会場に多彩なステージが繰り広げられる

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エスニックな相互交渉が生み出す新たな音楽実践は,ロンドンの多文化社会を色濃く反映しているが,バングラタウンには変化の波も押し寄せている。ロンドン全体の都市開発や,旧トルーマン醸造所界隈の高級化により,このエリアの不動産価格や賃料は上昇傾向にある。ベンガーリー第二世代のエスニック・ビジネス離れや顧客の嗜好の多様化などもあり,飲食店の数は2020年2月には最盛期の15年前に比べて60%近く減少したという。さらに,コロナ禍による景気後退が追い打ちをかけた。貧困や差別と闘いながらベンガーリーの人々が築いてきた街の姿は,時代とともに移ろいゆく。それでも,かれらの歴史はこれからも誇りとともに語り継がれ,音楽文化は次世代によってアップデートされ続けていくだろう。

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東パキスタン時代の1952年2月21日,ベンガル語の国語化を求める人々の運動に警察が発砲し,複数の死者が出た。かれらを悼んでダッカに建てられた記念碑ショヒド・ミナールのレプリカが,ブリック・レーン近くのアルタブ・アリ・パークにある。
2月21日は,1999年にユネスコによって国際母語デーと定められた

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イギリス有数の規模を誇るイースト・ロンドン・モスク

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Listening

Nish/Bangla Medley(2018)

ベンガル語R&Bのトレンドをつくったニシュによる曲。バウルのアーティスト,シャー・アブドゥル・カリム(1916–2009)の代表曲“Boshonto Batashe”などをアレンジしたメドレー。ミュージックビデオはブリック・レーン周辺で撮影されており,ブリティッシュ・ベンガーリーとしての彼のアイデンティティが強く感じられる。

※視聴する際は、音量にご注意ください。

栗田知宏|Tomohiro Kurita

東京外国語大学南アジア研究センター特定研究員。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍時より,南アジア系ポピュラー音楽などの文化研究を続ける。博士(社会学)。著書に『ブリティッシュ・エイジアン音楽の社会学——交渉するエスニシティと文化実践』(青土社,2021年),訳書にギャレス・マローン『クラシック音楽のチカラ——ギャレス先生の特別授業』(青土社,2013年)がある。

石橋 純|Jun Ishibashi

東京大学大学院総合文化研究科教授。東京外国語大学スペイン語学科卒業後,家電メーカー勤務中にベネズエラに駐在。のちに大学教員に転身。文化人類学・ラテンアメリカ文化研究を専攻。著書に『熱帯の祭りと宴』(柘植書房新社,2002年),『太鼓歌に耳をかせ』(松籟社,2006年)ほか。

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