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第2部 明治の政策と鹿島の事業

資本主義国家へと歩み始めた明治期の日本。
近代的な教育制度や税制の整備,近代産業の育成,憲法や議会の制定など次々に改革を実行し,
短期間に飛躍的な発展を遂げた。
鹿島は明治維新前から「洋館の鹿島」として名をはせ,その後,鉄道請負業へと転身。
我が国の鉄道インフラ整備に深く関わっていくことになる。
ここでは,明治の政策と鹿島の事業を振り返る。

〜廃藩置県と県庁舎建設〜

新政府が改革を実行していくうえで,急務となったのが政治的な国内統一だった。諸藩を直接統治する方針を立てるなか,薩摩,長州,土佐,肥前(薩長土肥)の4藩主が,自主的に領土(版)と人民(籍)を朝廷に返す申し出を行い,他藩もこの動きに従った。いわゆる, 版籍奉還である。その後,廃藩置県により,政府が派遣した府知事・県令による統治が行われ,全国統治の基礎を確立。地方行政の整備も急速に進むことになる。

当初の庁舎は,旧藩時代の古い屋敷などを使っていたが,県の合併や業務の複雑化により人員が増加し,新たな庁舎が必要となり,日本各地で先を争うように庁舎の建設が進められていく。江戸から続く棟梁の優れた技術を使いながら,後に擬洋風建築と呼ばれる洋風の庁舎が建てられた。明治とともに生まれた擬洋風建築は,明治10年前後にピークを迎え,明治20年以降はほぼ建てられなくなった。これは文明開化の時期とも重なる。

鹿島の二代目・鹿島岩蔵は,明治11(1878)年に岡山県庁舎を請け負い,翌年2階建て入母屋造の洋風庁舎を無事竣工させた。当時,岩蔵の本拠地は横浜。どのようにして,この西国の事業を手掛けたのか。話は明治維新前,岩蔵の父であり鹿島の祖・鹿島岩吉の時代にさかのぼる。大工として一流の腕を持つ岩吉は,横浜や神戸で,英一番館,亜米利加一番館をはじめ,次々と外国人居留地の商館や異人館を建設した。岩蔵は,横浜で鼈甲(べっこう)商を営んでいたが,得意とする交渉力で父を助けるうちに「洋館の鹿島」を受け継ぐことになる。

その頃,二人は外国人のコミュニティにおいて,勤勉で丁寧な仕事ぶりが知れわたり,厚い信用を得ていた。特に亜米利加一番館の発注者であるウォルシュ・ホール商会のウォルシュ兄弟からの信用は絶大で,彼らの推薦により,後藤象二郎らが興した貿易商社・蓬莱社の建物や毛利公爵邸洋館などの大仕事を請け負っている。後藤は元土佐藩士,毛利公は元長州藩主である。薩長土肥を中心とする明治政府要人の中でも「洋館の鹿島」の名前は知られていた。岡山県庁舎の工事は,内務卿となった伊藤博文らの推薦で,命じられたと言われている。

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図版:『日本名所図会』の岡山県庁舎

『日本名所図会』の岡山県庁舎。明治23(1890)年と記載されている。漆喰壁・日本瓦の擬洋風建築で,新築時に一番近いと思われる

明治の鹿島に出会う1

「洋館の鹿島」時代の建物は残念ながら現存していない。岡山県庁舎も,昭和20(1945)年6月,B29による空襲で焼失した。外観のスケッチから見ると,漆喰壁・本瓦葺きの擬洋風建築で,現在,明治村(愛知県犬山市)に保存されている三重県庁舎によく似ているという。岡山県庁舎と同じ明治12年に竣工しており,当時の姿に思いを巡らすことができる。

博物館明治村
愛知県犬山市字内山1番地
アクセス
・ 名鉄名古屋駅から名鉄犬山駅下車 バス20分
・ 中央自動車道「小牧東IC」から3km

写真:明治村に保存されている三重県庁舎

明治村に保存されている三重県庁舎。重要文化財に指定されている(提供:博物館明治村)

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〜近代産業の発展を支える〜

明治初年より推し進められた殖産興業は,西欧の産業の模範を民間に示す役割を果たし,近代産業の発展に貢献した。先進技術や知識を教えるため雇用された「お雇い外国人」と呼ばれる人々は,様々な分野で多大な功績を残している。一方,明治時代の政策の一つである四民平等や能力主義により,日本人の有能な実業家が多数登場した。それを象徴するのが,農民出身だった渋沢栄一だろう。日本最初の銀行である第一国立銀行を設立したのをはじめ,500以上の会社設立にかかわったと言われる。

明治5(1872)年,当時大蔵省にいた渋沢が指導して,日本初の洋紙製造会社である抄紙会社(後の王子製紙,現・王子ホールディングスの前身)の設立が出願された。渋沢は,幕末ヨーロッパを見聞した時の経験から,日本が欧米諸国と対等になるには,国民の知識を高める書籍や新聞などの印刷物の普及が必要で,そのためには大量印刷が可能な洋紙製造をすべきと製紙業・印刷業を興すことを提唱してきた。

渋沢は,鹿島岩蔵とも深い関係を築いている。同社工場の機械設備納入や技術者の雇入れを担うウォルシュ兄弟が,岩蔵を紹介し,交流が始まった。岩蔵は,毛利公爵邸洋館が完成する明治6(1873)年頃から,東京郊外各地を調査し,同社の工場建設地を探していた。建設地は,東京に近い場所が求められた。それは,原料の供給や洋紙の出荷といった営業上の便利さだけでなく,近代製造業のモデルを多くの人に見学してもらい,日本の工業思想を喚起しようという理想があったからだ。ただ,製紙には良質の水が大量に必要となる。東京郊外で条件を満たす場所はなかなかなかったが,入念な調査が実を結び,翌年には建設地が王子村(現在の東京都北区王子)に決定した。

工場の建物は,本格的な煉瓦造だった。日本で煉瓦建築が一般的になったのは明治20年代。英国人技師チースメンは,従来の日本式建築とは異なり,まず地下を深く掘ることから始めるよう指示し,日本人たちの度肝を抜いた。施工は試行錯誤のなかで行われ,その苦労は相当なものだった。『王子製紙株式会社社史 第一巻』は次のように伝えている。「…建築工事に着手したのは明治7年9月で,横浜の鹿島組(註・まだこの当時は鹿島方と称していた)が請負うことになった。これは鹿島岩蔵という人がやっていた請負会社で,非常に勉強する建築屋であった。この人は後になって会社(王子製紙)の重役の一人に選任せられ,直接その経営の任に当たった」。敷地選定時から関係し,工場の大半を施工。明治8(1875)年6月に無事完成させた。明治31(1898)年には渋沢らとともに会社経営にも参画している。

ウォルシュ兄弟は,明治12(1879)年に開業した神戸製紙所の施工も,煉瓦建築の技法をマスターした鹿島に依頼。この製紙所は明治31(1898)年,三菱の手に渡り,三菱製紙の基礎となった。

近代産業の発展は,信用と技術が礎となっている。

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図版:古今東京名所 飛鳥山公園地王子製紙会社(歌川広重(三代),明治16(1883)年,北区飛鳥山博物館所蔵)

古今東京名所 飛鳥山公園地王子製紙会社(歌川広重(三代),明治16(1883)年,北区飛鳥山博物館所蔵)。煙突から煙を吐き出す抄紙会社の煉瓦造の工場と桜が観光名所となっていた

明治の鹿島に出会う2

現在,抄紙会社のあった東京都北区王子1丁目には「洋紙発祥之地」記念碑が立っている。また,歌川広重が描いた飛鳥山公園には,現在,飛鳥山3つの博物館(渋沢史料館・北区飛鳥山博物館・紙の博物館)があり,抄紙会社の歴史や渋沢栄一の志に触れることができる。

飛鳥山3つの博物館
東京都北区王子1-1-3(北区飛鳥山博物館・紙の博物館)
北区西ヶ原2-16-1(渋沢史料館)
アクセス 
・ JR京浜東北線王子駅より徒歩5分
・ 東京メトロ南北線西ヶ原駅より徒歩7分
・ 都電荒川線飛鳥山停留所より徒歩3分

写真:「洋紙発祥之地」記念碑

「洋紙発祥之地」記念碑

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〜鉄道とともに明治を歩む〜

産業の発展を支えたのが,近代的な交通網の整備だった。その要となったのが鉄道である。政府の資金と指導のもと鉄道事業も殖産興業として積極的に進められた。明治5(1872)年には,東京-横浜間に官営鉄道が開通。鹿島は資材納入を請け負っており,これが日本初の鉄道と鹿島との最初のかかわりである。本格的に鉄道事業へ進出するのは,大阪船場の富豪・平瀬露香をスポンサーに,鹿島組を創立し岩蔵が初代組長となった明治13(1880)年のこと。毛利公洋館工事中に出会った当時工部省鉄道頭の井上勝の勧めにより,鉄道請負業へと転身した。洋館建築の仕事が次々に舞い込むなかでの大英断だった。

井上は,長州五傑の一人であり,後に「鉄道の父」と呼ばれる人物。国の将来を担う鉄道事業を推進するには,信用と統率力のある確実な請負業者が必要だと考えていた。鹿島が初めて取り組んだ敦賀線(後の柳ケ瀬線)は,日本海から京都,大阪へとつながる当時最も必要な交通の大動脈である。その後も,官営事業として路線が延びていき,鹿島もその多くに携わった。

一方,明治期は資本主義の確立期であり,多くの民間企業が生まれている。明治14(1881)年には,初の民営鉄道・日本鉄道会社が誕生した。鹿島は,日本鉄道会社の第一区線工事・東京-前橋間の大半を施工するなど多くの工事を請け負っている。東京-前橋間の重要性は,当時の主要な輸出品が生糸だったことを考えれば明らかである。富岡製糸場で生産された生糸を横浜港へと大量に輸送することを可能にしたのだ。他分野で産業革命が起こるなか,鉄道請負業では人手に頼ることが多かったが,鹿島組は欧米の新技術や機械などを積極的に採用し,工事の効率化を図っている。

この頃,日本の貿易が輸出超過に転じ,価格の安定や低金利政策による金融緩和を契機に,鉄道や紡績,鉱山が牽引役となり企業設立ブーム(企業勃興)が起こった。明治18(1885)年からの5年間で,銀行を除く企業数は約3.2倍,資本金は約3.6倍に増加している。鹿島組の事業も順調に発展し, 鉄道請負業を通して全国各地にネットワークが広がり,様々な事業にかかわった。児島湾(岡山県)の干拓事業,北海道の尺別牧場,天竜川木材や天龍運輸会社,岐阜の炭鉱,赤倉温泉の旅館など,関係した事業は60余りにも及んだ。軽井沢では外国人向け貸別荘を経営し,いつしかあたりは「鹿島ノ森」と呼ばれるようになっていく。

日清戦争,日露戦争も鹿島の事業に大きく影響を及ぼした。2つの戦争により,海外へと進出することになる。軍用の鉄道工事が多かったが,朝鮮半島の京仁鉄道線は,日本の鉄道請負業者として初の本格的な海外進出となった。米国人が途中で断念した工事を短期間で完成させ,さらに信用を高めた。また,台湾では,南北を結ぶ縦断鉄道や阿里山鉄道を完成させ,物流網整備に貢献している。

「洋館の鹿島」から「鉄道の鹿島」へと転身し,鉄道事業を主軸としながら様々な事業を展開した鹿島。明治期には130余の鉄道請負業者がいたが,現在残るのは9社のみで鹿島が最も古い。明治元年から150年,激動の明治期を生き抜いた姿を記憶に残し,未来への道標としていきたい。

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図版:明治期に整備された鉄道路線のうち,多くを鹿島が施工していることがわかる

明治期に整備された鉄道路線のうち,多くを鹿島が施工していることがわかる。
「鉄道の鹿島」として,新しい国づくりに貢献してきた

明治の鹿島に出会う3

碓氷線横川―軽井沢間
平成9(1997)年,長野新幹線の開通にともない,碓氷線横川―軽井沢間は廃線となったが,その廃線敷を利用して,横川駅―熊ノ平駅の間の約6kmが遊歩道「アプトの道」として整備されている。鹿島組が施工した1~8号隧道も歩くことができる。有名な碓氷第3橋梁(めがね橋)もある。

遊歩道「アプトの道」
群馬県安中市松井田町横川・坂本地内
アクセス
・ JR信越本線横川駅より徒歩3分
・ 上信越自動車道松井田妙義ICより車7分

写真:鹿島組が施工した碓氷線5号トンネル(撮影:マシマ・レイルウェイ・ピクチャーズ)

鹿島組が施工した碓氷線5号トンネル
(撮影:マシマ・レイルウェイ・ピクチャーズ)

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