外資系企業でマネジメント職を歴任し,経営コンサルタントとして活躍した後,歴史小説家へ転身した伊東潤氏に,私たちが今,明治から何を学ぶべきかを伺った。
明治維新を一言でいえば「混沌」ですね。江戸幕府が260年以上もの間,築きあげてきた泰平の世が終焉し,これまでの価値観が全て覆されたのです。多くの人々が,その急激な変化をすぐに受け入れられなかったのは当然です。
事の起こりはペリーの黒船来航です。この事件によって,日本は突然,国際社会に放り込まれました。また清国が,イギリスとのアヘン戦争に敗れて半植民地化への道を歩み始めたことも,危機意識を募らせる大きな要因だったでしょう。そうしたなか,明治維新という大改革を成し遂げた主役は,時代の転換期を感じ取っていた若き武士たちです。彼らの危機意識と変革への強い意志が,近代国家の礎を築いたのです。
明治新政府の課題は,いかに迅速に近代国家をつくりあげるかでした。しかし伝統や技術といったものは,すぐに追いつけません。そのため衣食住などに奇妙な和洋折衷文化を生み出しました。それは建築物にも如実に表れています。建築物というのは時代の映し鏡だと言われますが,明治初期には擬洋風建築というものが生まれました。この様式は諸外国の領事館や邸宅などに見られたもので,日本固有の大工の技術が欧米人の建築物を完全に再現するには至らず,その要求と大工の技術が妥協したところで生まれた和洋折衷の建築物でした。
面白いのは,アメリカ人やイギリス人などよりも,フランス人が,この奇妙なジャポニズムを楽しむかのように和洋折衷型の建築物を多く造らせました。これもフランス人の芸術的センスゆえかもしれません。
それでも擬洋風建築は,明治20年代くらいには徐々になくなっていきます。その頃には大工たちも西洋の邸宅建築技術を習得し,本格的な西洋の建築物を造るだけの実力が備わってきたからです。これが技術の定着です。それを考えると,人材の育成には20年ほどかかると分かります。
こうした知識や技術というものの貴重さを,当時の日本人はよく分かっていました。例えば戊辰戦争で負け組となった幕臣たちの中でも,海外留学などで欧米の知識や技術を身に付けた者たちは,明治新政府の中枢に登用されていきました。
戊辰戦争の最後の戦いの舞台となった五稜郭で,土方歳三らとともに戦った幕臣の榎本武揚などは,その典型です。彼は新政府軍に降伏した後,2年半投獄されますが,釈放後にその能力を買われて新政府に仕え,北海道の資源調査をはじめ,外交官として樺太千島交換条約を締結し,内閣制度発足後も文部大臣や外務大臣などを歴任しています。これは明治政府の度量の大きさというよりも,志士上がりの無学者ばかりが要職に就いたため,欧米人の考え方や科学技術に精通した人材が払底していたことの表れでしょう。
知識や技術というのは,一朝一夕で身に付くものではありません。それなりに人材育成計画を立て,予算を取り,外国人を招聘するか,優秀な人材を諸外国に送り込まねばなりません。いわば国家プロジェクトであり,長い目で取り組む必要があります。とくに少子化が進み,若者の人口が激減している現代の日本では,教育すなわち人材の育成が大きなテーマになってきました。
ここにきて,ようやく政府も幼児教育の大切さを知り,その無償化に取り組み始めましたが,遅きに失した感はあります。しかし,こうした「人づくり革命」が始まったことは,高く評価できます。この成果が20年後にどう出てくるか楽しみです。
様々な問題を抱える現代社会は,まさに明治期の「混沌」の時代に重ね合わせることができます。われわれは維新を実現した志士たちのように,危機意識を持って自分を磨き,今,何ができるかを常に考えていかなくてはなりません。
明治維新150年の今年こそ,明治の精神に学び,一人ひとりが自覚を持って行動を起こす時だと思います。
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