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大地の建築術 自然と共生する叡智 第3回 エルサレム旧市街—異教徒が住み分ける丘と坂の聖地

写真:エルサレム旧市街は起伏に富み,坂の街でもある

エルサレム旧市街は起伏に富み,坂の街でもある

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3つの宗教の聖地

エルサレムというと,一般的なイメージでは,ユダヤ人の巡礼地である「嘆きの壁」の印象だけが強いかもしれないが,じつは非常に起伏に富んだ魅力的な街である。旧市街を形づくっているのは丘と坂であり,街全体が西から東へと下る緩やかな斜面になっている。

そして3つの宗教の聖地であることは,あまりによく知られている。元々はユダヤ教のみの聖地であったが,やがてイエス・キリストがこの地で処刑されてキリスト教の聖地にもなり,さらに時代が下るとユダヤ教とキリスト教の預言者を引き継いだとしたイスラム教の聖地にもなった。

約1km四方の城壁に囲まれたエルサレム旧市街は,田の字型に南東のユダヤ人地区,南西のアルメニア人地区,北東のイスラム教徒地区,北西のキリスト教徒地区の4つに区切られ,異教徒が住み分けている。アルメニア人はキリスト教徒の一派だが,最初にキリスト教を公認した国とされるため,特別な存在として独立した地区をなしている。

地図

写真:嘆きの壁に向かい祈りを捧げる人たち

嘆きの壁に向かい祈りを捧げる人たち

写真:ヤッフォ門近く,アルメニア人地区にある旧城塞

ヤッフォ門近く,アルメニア人地区にある旧城塞

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ユダヤ人と丘を支える壁

紀元前10世紀,街の南東の丘にエルサレム神殿が築かれた。この地は「神殿の丘」と呼ばれるようになり,その西側に広がるのがユダヤ人地区だ。神殿は紀元前1世紀末のヘロデ王の時代に改修され,丘を支える石壁が築かれる。この壁の一部分が「嘆きの壁」である。紀元1世紀にローマ帝国によって神殿が破壊されたのち,ユダヤ人たちは20世紀後半になるまで,この聖地で祈りを捧げることは容易ではなかった。悲しみの歴史が刻まれた壁は,後世の拡張によって積み増しされ,壁の前の広場から見上げると20mもの高さとなる。

「嘆きの壁」が築かれる以前から,ユダヤ人は苦難の歴史を辿ってきた。紀元前13世紀にはエジプトに幽閉され,預言者モーゼに率いられて脱出したことなどはよく知られている。紀元前6世紀の新バビロニア帝国の侵略で神殿は破壊され,ユダヤ人はバビロンに連れ去られてしまうが,やがて捕囚から解放され,エルサレムに帰還する。ヴェルディのオペラ『ナブッコ』の有名な合唱曲「行け,我が想いよ,黄金の翼に乗って」は,その時の情景を表したものである。メロディの美しさからイタリアでは第二国歌と言われ,サッカーのワールドカップで勝利するとイタリア人たちは熱狂的に歌いあげるのだ。

地図:エルサレム旧市街は4つの地区を異教徒が住み分けている

エルサレム旧市街は4つの地区を異教徒が住み分けている

写真:城壁に囲まれたエルサレムの旧市街。

城壁に囲まれたエルサレムの旧市街。ダマスカス門,聖墳墓教会の辺りが高く,「嘆きの壁」の辺りは低くなっている。「岩のドーム」とアル・アクサーモスクが立つのが「神殿の丘」(出典:Wikimedia Commons

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キリスト教徒と最期の地への坂

旧約聖書,新約聖書に登場する物語は,エルサレムを中心に書かれている。紀元前4年に誕生したイエス・キリストは,民衆への影響の拡大を恐れられ,エルサレムのゴルゴダの丘で磔(はりつけ)の刑に処せられた。神殿の丘の北側にあったローマ帝国の提督の館で死刑宣告を受けたイエスは,西方のゴルゴダの丘を目指して十字架を背負い,鞭を打たれながら約400m続く坂道を上っていく。

この道はのちに「ヴィア・ドロローサ(苦難の道)」と名付けられた。道中で聖母マリアに別れを告げた場所や,マグダラのマリアがキリストの汗を拭ったとされる場所は,今でも観光スポットになっている。もちろんキリスト教徒にとっては重要な聖地であり,訪れる信者は後を絶たず,それらの場所の地面に皆がキスをしている姿は,異教徒の我々にとっても感動的である。

ゴルゴダの丘があった場所は正確に特定できず,現在ある聖墳墓教会はゴルゴダの丘を覆うように建っているとされる。その南側にアルメニア人地区がつくられ,のちに教会の周囲にキリスト教徒が住みつき,エルサレムの北西一帯はキリスト教徒の居住区となる。聖墳墓教会は,カトリック教会やアルメニア使徒教会などの複数の会派によって共同で管理されてきた。

写真:イエス・キリストが十字架を背負って歩いた道「ヴィア・ドロローサ」

イエス・キリストが十字架を背負って歩いた道「ヴィア・ドロローサ」

写真:ダマスカス門を入るとイスラム教徒地区がある

ダマスカス門を入るとイスラム教徒地区がある

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イスラムの街を下って嘆きの壁へ

時代が下って7世紀,イスラムがエルサレムを支配し始める。ウマイヤ朝が侵攻し,「神殿の丘」の北部にイスラム教徒地区がつくられた。そして神殿跡に建てられたのが,現在金色に輝く「岩のドーム」である。

旧市街地の北にはイスラムのためのダマスカス門が構える。ウマイヤ朝の首都の名に由来するこの城門から入ると,そこは紛れもなくイスラムの街であり,市場では多くの人々が忙しく動き回っている。所々に階段のある道を南東の方向にしばらく歩くと,イスラム教徒地区からユダヤ人地区にまたがるところに兵士が2,3人,銃を持って立っていた。それでも私の訪れた2000年当時は,それほど物々しさはなく,私が日本人であることが分かると難なく通してくれた。

さらに路地を抜けていくと突然視界が開け,「嘆きの壁」が眼前に現れた。そこから壁の前の広場に下りていくと,多くの人たちが壁に向かって祈りを捧げていた。大きな宗教施設は斜面を上りきったところにあるのが通常で,辿りついた人々は教会などを見上げることになる。しかし,ここはその全く逆で,下った先に聖地がある。それは思わぬ効果を生み出し,訪れた礼拝者に対して壁が眼前に迫り,力強さを演出している。

写真:イスラム教徒地区とユダヤ人地区を繋ぐトンネル

イスラム教徒地区とユダヤ人地区を繋ぐトンネル

エルサレムは3000年の歴史の中でさまざまな国や民族に支配されたが,この都市の原型は大きく変わっていない。それは谷や丘によって居住区が形づくられてきたためであり,大小さまざまな坂が織りなす各地区は,それぞれの伝統文化や歴史を今でも守り続けているのである。

写真:旧市街の外側からみた神殿の丘

旧市街の外側からみた神殿の丘。アル・アクサーモスクが見える

写真:旧市街地の外側からダマスカス門を眺める

旧市街地の外側からダマスカス門を眺める

写真:イスラム教徒地区から坂を下ったところにある「嘆きの壁」の前の広場

イスラム教徒地区から坂を下ったところにある「嘆きの壁」の前の広場

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古市流 地球の歩きかた

エルサレム
Jerusalem

面積:125km2
人口:93万人(2012年現在)
以前は,城壁に囲まれた旧市街はヨルダン領,
新市街はイスラエル領であったが,
1967年にイスラエルが併合を宣言。

泳げなくても沈まない死海

フリカ東部を南北に貫く巨大な谷,大地溝帯。それは紅海へとつながり,ヨルダンからシリアの肥沃な三日月地帯に至る。諸説あるが,人類はアフリカの東で誕生してから大地溝帯を北上したのち東西へ広がったとされ,ネアンデルタール人やクロマニヨン人もこのルートを辿ったといわれている。

西にイスラエル,東にヨルダンにはさまれた死海は,この大地溝帯に生まれた。そのため冬に標高773mのヨルダン・アンマンから標高がマイナス418mの死海まで車で一気に下っていくと,真冬の世界から突然真夏の世界になる。

写真:水面に浮かび読書する筆者

水面に浮かび読書する筆者

死海にはヨルダン川から水が流れ込むが,死海から外へ流れ出す川はない。暑さによって水が蒸発するため,塩分濃度は通常の海の約5倍に達する。鳥や魚などの生物は生息できず,死海といわれる所以である。人々が海水浴をすると,重い海水の浮力によって海面に浮かんだまま本を読むこともできる。

古市徹雄(ふるいち・てつお)
建築家,都市計画家,元千葉工業大学教授。1948年生まれ。早稲田大学大学院修了後,丹下健三・都市・建築設計研究所に11年勤務。ナイジェリア新首都計画をはじめ,多くの海外作品や東京都庁舎を担当。1988年古市徹雄都市建築研究所設立後,公共建築を中心に設計活動を展開。2001~13年千葉工業大学教授を務め,ブータン,シリア調査などを行う。著書に『風・光・水・地・神のデザイン―世界の風土に叡知を求めて』(彰国社,2004年)『世界遺産の建築を見よう』(岩波ジュニア新書,2007年)ほか。

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