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大地の建築術 自然と共生する叡智 第5回 ペルー・マチュピチュ—空中都市に垣間見る高度な建設技術

写真:マチュピチュ全景

マチュピチュ全景。なかほどの草が生えている明るい緑の部分が中心の広場。
広場を挟んで西側(写真手前)には宗教施設が連なり,東側(写真奥)には斜面に沿って大小の部屋からなる居住区が続く。正面奥の高い岩山は「若い峰」を意味するワイナピチュ山

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アンデスの奇跡

数ある世界遺産のなかでも多くの人を惹きつけるマチュピチュ。エジプトのピラミッドや中国の万里の長城などと並ぶ知名度を誇り,その写真を見ただけでも一生に一度は訪れてみたいと思わせる空中都市である。私はこれまで多くの国々を訪れ,仕事や調査のために,あるいは自らの好奇心や探究心のために,いろいろな都市や集落を見てきたので,新しいものに驚かされることは少なくなってしまった。しかし,写真ではよく知っているはずのマチュピチュの遺跡を見下ろす丘に立ったときの感動は,格別なものだった。

標高2,400m以上の高地を覆うようにつくられたマチュピチュは,東西の段々畑につながり,深い谷底に沈んでいくような感覚に陥る。背後には大地から突き出たような岩山がそびえ,この「アンデスの奇跡」の素晴らしさはどのような言葉でも表現しきれない。

地図

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謎の多い成り立ち

マチュピチュは,米国人探検家のハイラム・ビンガムが1911年に発見したといわれているが,それはあくまでも西洋社会からの物言いで,実際には付近の人々はこの遺跡の存在を知っていたとされる。カンボジアのアンコールワットも同様である。

この都市がつくられた理由は,侵攻したスペイン人に追われたインカ族が身を隠すためというのが長らく通説だった。確かに,ふもとを流れるウルバンバ川からこの都市の存在をうかがい知ることはできない。

遺跡の面積は13km2にすぎず,その住居跡から推定される人口は最大で500〜1,000人程度といわれている。かつては5,000~10,000人などという説もあったが,現実的には考えられない。16世紀のスペインの公文書には,最後のインカ族は盆地の隠れ家で降伏したとの記述があり,それはマチュピチュのような高地ではなかった。

写真:マチュピチュの建物のなかで唯一,曲線状に石が積まれた太陽の神殿

マチュピチュの建物のなかで唯一,曲線状に石が積まれた太陽の神殿

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太陽の動きを測るための神殿

ではなぜ,このような都市がつくられたのか。近年の有力な説としては,太陽の動きを測るための神殿として築かれたと考えられている。実際にここは岩があるのは北側で,東西とも切り立った崖上になっているため,太陽の光は遮られることなく,観測にふさわしい場所である。

この説を受けると,マチュピチュの成り立ちを説明しやすい。中央には南北に走る広場があり,西側は高台になっていて,いくつもの宗教施設が並ぶ。坂道と階段を上ったいちばん高いところには,巨石を削ってつくられた日時計がある。また,「太陽の神殿」と呼ばれる建物は,マチュピチュのなかで壁面が唯一,曲線で構成されていて,壁には冬至と夏至にまっすぐ光が差し込む位置に,2つの小窓が穿たれている。

写真:巨石でつくられた日時計

巨石でつくられた日時計

西側の宗教施設群にはほとんど生活感がないが,広場を挟んだ東側には住居跡が集中していて,大小の部屋からなる遺構には,生活空間にふさわしいスケールが感じ取れる。各住居の扉と西側の宗教施設群を結ぶための階段状の通路が縦横に走っている。恐らくここに居住していたのは,神殿で行われるさまざまな行事や暦の作成などに携わった人たちや,この都市を建設し,守ってきた技術者たちなのだろう。

写真:東側斜面にある居住区。家々は階段でつながっている。<br/>以前は茅葺き屋根が載っていたとされる

東側斜面にある居住区。家々は階段でつながっている。
以前は茅葺き屋根が載っていたとされる

写真:階段を上った小高い丘の上にあるのは日時計

階段を上った小高い丘の上にあるのは日時計。
右手に茅葺き屋根が復元された小屋が見える

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精巧な技術でつくられた建築群

遺跡のなかにはアンデネスと呼ばれる段々畑が,作物の栽培に適した日当りのよい崖面に広がる。建物と同様に精巧な石組みで築かれており,等高線のように規則的な段差が美しい。

写真:日当たりのよい斜面に,規則的な段差を描く段々畑。奥の茅葺き屋根は復元された貯蔵庫

日当たりのよい斜面に,規則的な段差を描く段々畑。奥の茅葺き屋根は復元された貯蔵庫

建築や段々畑に用いられた花崗岩は,マチュピチュのなかでも高台に当たる南西の丘で切り出されたことがわかっている。高台から低い場所へと石材を運ぶのは確かに合理的であり,より大きな状態で石材を移動させることができたのだろう。岩の割れ目や穴に木の棒を差し込み,そこに水を徐々に含ませていくことで,木が少しずつ膨張する力を利用して石材を削り出し,使い勝手のよい大きさや形に加工されたそうである。しかも,石組みをより強固にするために,花崗岩の大地から巨石を丸ごと削り出し,そのかたちに合わせるように石積みされた場所をそこかしこに見出すことができる。

写真:南西の高台(写真の中央付近)に石切り場が見える

南西の高台(写真の中央付近)に石切り場が見える

写真:自然の大きな岩をそのまま削り出し,周囲に小さな石を積んでできた強固な石組み

自然の大きな岩をそのまま削り出し,周囲に小さな石を積んでできた強固な石組み

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1440年ごろに建設が着手され,1533年にスペイン人により征服されるまでマチュピチュでは人々の生活が営まれていた。以後,現代まで500年もの間,降水量の多いこの地で石組みが崩れた形跡はない。

インカ文明は文字をもたないため,この都市がどうして,どのようにつくられたのかを正確に知る術はないが,建物跡の精巧な石組みや,住居や施設の絶妙な配置,太陽光の取り入れ方などから,当時の人々の高い技術力と合理性,そして建設に多大な労力が費やされた営為を推し量ることができる。

これだけの都市をつくり出した動機も,スペイン人から身を隠すためというよりは,太陽神に対する宗教的な忠誠心であったとする方が理解しやすい。石を切り出し,運び,積み上げる優秀な職人や技術者は,各地から集められたに違いない。奇跡や謎と称されてきたこの空中都市は,実は厚い信仰心と高度な建設技術をもつ人々によって築かれ,ここに彼らが確かに暮らしていたことを偲ばせてくれる。

写真:石組みを駆使してつくられた門

石組みを駆使してつくられた門

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古市流 地球の歩きかた

ペルー共和国国旗
Republic of Peru

面積:約129万km2(日本の約3.4倍)
人口:約3,182万人(2017年10月推定値,ペルー統計情報庁)
首都:リマ
南米大陸の中西部に位置し,西側は太平洋に面する。
16世紀までインカ帝国の中心地であった。

ペルー旅行の楽しみ

ペルーにはマチュピチュ以外にも多くの魅力的な観光スポットがある。それを特徴づけるのは,南米大陸を南北に貫く標高6,000mを超えるアンデス山脈である。インカ帝国の都だったクスコ,アンデス高原の標高3,810mのチチカカ湖,ナスカの地上絵など,せっかくペルーに行くならばこれらの場所はぜひ訪ねてみたい。私は団体旅行を好まないが,ペルーは例外である。飛行機やバス,鉄道などによる移動が多く,ホテルの予約なども考えると,団体旅行をおすすめしたい。ほぼすべてのスポットを10日以内で効率良く回れるプランが多くある。

写真:マチュピチュへの“入場口”

マチュピチュへの“入場口”

剃刀1枚入らないインカの石組み

クスコは石畳の道が続き,壁も石組み,文字通り石だらけの街である。四角い石を貼り合わせたもの,多角形のものなど,いろいろな形のものを見ることができる。インカの石組みの優秀さは,その間に剃刀1枚も入らないといわれているが,実際に試してみたくなるほど,ぴったりと精巧に組み上げられている。

写真:インカの石組みが残るクスコの路地

インカの石組みが残るクスコの路地

古市徹雄(ふるいち・てつお)
建築家,都市計画家,元千葉工業大学教授。1948年生まれ。早稲田大学大学院修了後,丹下健三・都市・建築設計研究所に11年勤務。ナイジェリア新首都計画をはじめ,多くの海外作品や東京都庁舎を担当。1988年古市徹雄都市建築研究所設立後,公共建築を中心に設計活動を展開。2001~13年千葉工業大学教授を務め,ブータン,シリア調査などを行う。著書に『風・光・水・地・神のデザイン―世界の風土に叡知を求めて』(彰国社,2004年)『世界遺産の建築を見よう』(岩波ジュニア新書,2007年)ほか。

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