ホーム > KAJIMAダイジェスト > October 2018:大地の建築術

KAJIMAダイジェスト

大地の建築術 自然と共生する叡智 第10回 ヨルダン・ペトラ—岩山に削り出された彫刻都市

写真:長い通路「シーク」を出たところにあるエルカズネ(宝物殿)

長い通路「シーク」を出たところにあるエルカズネ(宝物殿)。岩山に精巧なファサードが削り出されている

改ページ

ドラマチックなアプローチ

人々を魅了する世界遺産の遺跡は数多くあるが,ヨルダンのペトラ遺跡が近年そのユニークさで大きな人気を集めている。

イスラエルとヨルダンの国境にある死海とアカバ湾の間の渓谷地帯に位置するペトラは,西に地中海,北へ進んでいくとシリアのダマスカス,南は紅海に至り,海のシルクロードに連なっている。東側には,映画 『アラビアのロレンス』 の撮影の舞台にもなった広大な砂漠地帯が控える。

ペトラは,シルクロードを通って地中海へ抜ける砂漠の隊商の中継基地として栄えた。岩山と砂礫からなる荒地で農業には不向きであったが,天然の要塞であるために,東の砂漠から侵入してくる異民族の攻撃から守りやすく,商業都市として発展した。

地図

1989年に公開された映画『インディー・ジョーンズ 最後の聖戦』のロケ地となり,岩山にくり抜かれた寺院や,谷底を這うような狭い岩の通路「シーク」などが一躍有名になった。高さ約80mの絶壁が約1.2km続くシークを蛇行しながら進んでいくと,両側にそびえ立つ岩の色や表情が変化していく。やがてシークの出口に到達すると突然,暗がりの中で岩の割れ目の正面に光が射し,巨大な建造物の美しいファサード(立面)が現れる。まさしく息をのむ瞬間だ。この劇的なアプローチは,『インディー・ジョーンズ』でも見事に表現されている。

この建造物は幅約30m,高さ43m,切り立つピンク色の岩壁をくりぬいて築かれたエルカズネ(宝物殿)と呼ばれるもので,見事な円柱や細かな装飾にはエジプトやギリシャの影響も見られる。シークを抜け出たところがいわばエルカズネの境内となっていて,そこから連なる古代遺跡ペトラへの期待が一気に膨らむ。

写真:進むにつれてシークの岩肌が変化していく

進むにつれてシークの岩肌が変化していく

写真:長さ約1.2kmのシークを進むと正面にエルカズネの美しいファサードが見えてくる

長さ約1.2kmのシークを進むと正面にエルカズネの美しいファサードが見えてくる

改ページ

岩肌に掘られたファサードが立ち並ぶ

エルカズネを左手に見て奥へと進むと,訪れる人を迎えるのは,高さ数十mの岩の断崖である。その山肌には岩を精巧に削り出した500ほどの墳墓が続く。墓の中は空だが,いくつもの暗い入口が穿たれた様子は不気味でもある。ここは「ファサードの道」といわれ,巨大な立面が立ち並ぶ。その先には約3,000人を収容できる野外劇場やオベリスク,寺院,列柱のある通りがある。この野外劇場はやはり自然の岩山をくり抜いたローマ式の円形劇場で(ただしその目的は大斎場だったともいわれている),背後の岩山などと合わせ,その空間構成は見事としかいいようがない。

野外劇場を越えると右手に見えてくるのは,壺の墓,コリントの墓,宮殿の墓などと呼ばれる王家の墳墓の一帯である。断崖絶壁につくられた立派な寺院が並んでいるように見えるが,実は単なる横穴洞窟の墓である。しかしこのような壮大なファサードがあえてつくられたのは,これらが大きな権力を持った支配者のものだったからに違いない。

そしてペトラ遺跡の最も奥,約850段の石段を上った先には,やはり岩山を削ってつくられたエドディル(修道院)がある。エルカズネと似た建築様式であるが,ひと回り大きい。石段からは遺跡全体の壮麗な景色を堪能できる。

写真:岩をくり抜いてできたローマ式の野外劇場のようなもの

岩をくり抜いてできたローマ式の野外劇場のようなもの。約3,000人を収容

改ページ

写真:多くの墳墓が続く「ファサードの道」

多くの墳墓が続く「ファサードの道」。墓の中は空洞である

写真:王家の墳墓のうち,壺の墓

王家の墳墓のうち,壺の墓

1000年間沈黙した都市

この街の歴史は古く,紀元前12世紀頃からエドム人と呼ばれる人たちが住んでいた。やがて紀元前1世紀頃に北から侵入したナバテア人がここに都市をつくり始め,以後,アラビア,エジプト,シリア,フェニキア人などの交易の要衝として1世紀初頭に最盛期を迎える。

ペトラ遺跡が劇的にその姿を整え始めるのは,紀元前64~63年頃にローマの将軍ポンペイウスの支配下に置かれてからである。ローマ帝国が滅んだ後もこの都市は繁栄を続け,幾度の地震に襲われても修復され,生き延びてきた。しかし,7世紀に台頭したイスラム帝国によって隊商ルートが変えられたことが大きな原因で,衰退の一途をたどり,やがて商業の中心地としての力をなくしていった。8世紀以降,この街は放棄され砂漠の中に眠ることになる。

そして1812年,スイス人の探検家ヨハン・ルートヴィッヒ・ブルクハルトによって発見され,再び世にその姿を現したのである。最近の研究では,広大なぺトラの中でも現在公開されているこの一帯は,死者を埋葬する聖なるまちだったともいわれている。

改ページ

写真:王家の墳墓のうち,左が宮殿の墓,右がコリントの墓

王家の墳墓のうち,左が宮殿の墓,右がコリントの墓。それぞれファサードのデザインが異なる

存在感を示すためのファサード

トルコのカッパドキアは地下につくられた大都市だが,ペトラは断崖にファサードをつくり,その背後の洞窟を建築空間としている点で大きく異なる。カッパドキアは住民自ら身を隠すことが主要なテーマであったが,ペトラでは,権力者の墓であるそれぞれの洞窟空間をファサードによって,いかに目立たせるかが大きな目的であった。

ペトラ遺跡のこの一帯が, 数あるローマ植民都市の中で異彩を放つのは,岩の切れ目を利用したシークや自然の傾斜を活かした野外劇場のような空間,岩山の断崖に削り出された巨大な墳墓寺院など,ここが自然の中に彫り込まれたいわば彫刻のような場所であるという点だ。それは,人々が生活を営むためではなく,死者を弔う場としてつくられたからなのかもしれない。

写真:エドディル(修道院)

エドディル(修道院)。標高約1,000mに位置し,この日はもやがかかっていた

写真:広い遺跡内をロバで移動

広い遺跡内をロバで移動。エドディルをめざす筆者

改ページ

図版:ペトラ遺跡配置図

ペトラ遺跡配置図。墳墓や祭壇,神殿などが渓谷地帯に広がる

改ページ

古市流 地球の歩きかた

ヨルダン・ハシェミット王国国旗
Hashemite Kingdom of Jordan

面積:8.9万km2(日本の約4分の1)
人口:約945.5万人(2016年)
首都:アンマン
アラビア半島北西部に位置する。西はイスラエルとパレスチナ,
北はシリア,東はイラク,南はサウジアラビアと国境を接する。

イスラム圏を東西に結ぶ串焼き・シシケバブ

シケバブは本来中東の串焼き肉で,それが東西に広がっていった。東は新疆ウイグルから中央アジア,中東,さらに西のマグレブ地帯とつながるイスラム圏では,最もポピュラーな料理で,もちろんヨルダンでも定番料理である。肉は羊肉が好まれる。

焼き方も国によって異なり,トルコでは縦軸に肉を重ねたものを回転させ,傍らのヒーターで焼き上げるドネルケバブが一般的である。それをナイフでそぎ落とし,サンドイッチなどに挟んで食べる。この方法は,中近東の国々やヨーロッパの都市でもかなりポピュラーになっていて,近年は日本でもキッチンカーなどで売られているのをよく見かける。

私もさまざまな国でいろいろなケバブ料理を堪能した。最初の出会いは,1977年サウジアラビアのジェッダのスーク(市場)にあった飲食店だった。

最も印象に残っているのは,西アフリカのナイジェリア北部のイスラム地帯で食べたシシケバブである。道端で火をおこし,パン粉と岩塩をまぶした羊肉をそこで食べさせるのだが,塩味が効いていて,ビールと一緒に食すと美味であった。当時私は丹下健三事務所のアブジャ新首都計画の仕事で,ナイジェリアに長期間滞在していたが,仕事が終わった後のケバブとビールは大きな楽しみだった。今でも時々無性に食べたくなることがある。

写真:シシケバブ(串焼き)

シシケバブ(串焼き)

写真:ドネルケバブ

ドネルケバブ

古市徹雄(ふるいち・てつお)
建築家,都市計画家,元千葉工業大学教授。1948年生まれ。早稲田大学大学院修了後,丹下健三・都市・建築設計研究所に11年勤務。ナイジェリア新首都計画をはじめ,多くの海外作品や東京都庁舎を担当。1988年古市徹雄都市建築研究所設立後,公共建築を中心に設計活動を展開。2001~13年千葉工業大学教授を務め,ブータン,シリア調査などを行う。著書に『風・光・水・地・神のデザイン―世界の風土に叡知を求めて』(彰国社,2004年)『世界遺産の建築を見よう』(岩波ジュニア新書,2007年)ほか。

ホーム > KAJIMAダイジェスト > October 2018:大地の建築術

ページのトップへ戻る

ページの先頭へ