「玄猪餅の包」とは
伊勢貞丈の『包之記』の中で唯一,詳細な折り手順が図で示されているのが,「玄猪(げんちょ)餅の包」です。
有職故実解説書の決定版とされる貞丈の『貞丈(ていじょう)雑記』には,猪の子の祝いについて以下のように記されています。
猪の子の祝いの事,十月は亥の月なり。亥(い)の月,亥の日に祝う事は,猪は子を多くうむ故それにあやかる為の祝いにて,子孫繁昌の祝いなりと云う。又一説に,猪の子の祝いは摩利支天(まりしてん)の祭りなり。摩利支天は猪に乗り給う故,猪の神とも云う。猪は摩利支天の使者なり。故に亥の月の亥の日に摩利支天を祭りて運を祈ると云う一説あり。依りて武家専ら祝うとも云う。
また,『貞丈雑記』の摩利支天の項目には,摩利支天は「天笠(てんじん)」の神であり,日本の神ではない,と記されています。多くの日本の年中行事がそうであるように,インドから中国を経て伝わった行事のようです。
①『包之記』は右開きの本なので、右ページから左ページへと
折り手順が、詳細に紹介されている
②折りが幾重にもかえしがえし重ねられている
③右ページ左下の図を裏返すと下の写真の姿に。左ページには、
玄猪餅を包んだ上、さらに上包みを香包みのように包む、と
紹介されている
儀礼の中での折形
お玄猪(げんちょ)の節供は,もともとは,天皇が手ずから,「つくつく」という小さな臼で,「つくつく」という歌を唱えながら餅を搗(つ)く儀式を行った日でした。その宮中行事を徳川幕府が,権力構造を強化するために意図的に行ったのが武家故実としての「猪の子の祝」のようです。
亥の日の亥の刻,つまり午後10時から12時の間に諸藩の藩主は江戸城に登城し,将軍から餅を下賜されるのを待つわけですからたいへんだったはずです。午後5時くらいには江戸城に上がり,控えの間で,火の気のない中で威儀を正して順番を待たなければならず,藩主は改めて権力の支配体系の中にあることを思い知らされたことでしょう。さらに,包みの姿にも,格付けがなされていました。それは,石高ではなく,親藩,譜代大名,外様大名で格差が付けられていたようです。
ほとんどが展開図と完成図だけで示されている『包之記』の中で,玄猪餅の包みが唯一詳細な手順が示されている理由が,ここにあるのではないかと思われます。
幕末には,大小合わせて300近い藩がありましたので,儀礼化していたとしても莫大な数の亥の子餅が準備され,格付けされた順位や包み様の差異など段どりをも合わせて,マニュアル化が求められたにちがいありません。大名諸侯から祝言を受けて,将軍が手ずから藩主一人一人に手渡ししていたのですから,手ぬかりがあってはなりません。準備にあたっては,幕府側も莫大な人の手をわずらわせたことでしょう。
以前,当時の亥の子餅を再現したものを試食したことがありますが,儀礼菓子ですので,決しておいしいお菓子ではありませんでした。囲碁の碁石ほどの小粒のサイズで,小豆で赤く,炭がらで黒く染められたものと白い餅の三色の餅です。
われわれが,茶席で口にしたりする亥の子をかたどったお菓子とは,ほど遠いものでした。後世に和菓子屋さんたちと茶人によって工夫されたのが,われわれが口にする現在の亥の子餅のようです。
幕府の体系が崩れ,明治の新しい体制が樹立され改革が進みますが,その中で一番に禁止されたのが,幕府が行っていた儀礼的な武家故実の行事などでした。幕藩体制強化の制度の中にあった「玄猪餅の包」の折形は,忘れさられることになりました。儀礼の中で機能していたわけですから,当然のなりゆきでしょう。
十日夜のこと
一方で,旧暦の十月十日の農業行事のひとつに,十日夜(とおかんや)という収穫祭があります。民間信仰ですので,地方によっては,田の神に餅やぼた餅が献じられたり,亥の子突きといって,男の子が藁や石で地を打つ習慣もあります。亥は,陰陽五行説では陰の極まりで,転ずれば陽に変わるところから,その刻に陽の気を持つ男の子が地を打つことで陰陽交合が行われると考えたようです。
亥の月の最初の亥の日は茶道の炉開きの日でもあり,口切りの茶事が行われる日でもあります。亥は水の象徴でもあり「火伏せ」の意味があるので,炉の安全を祈願して,炉開きをこの日に行うようです。
このように見ていくと,折形は歴史や民俗学など様々な事柄が交わる交点に存在していることがわかります。