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イスタンブル・バラト地区:彷徨い築かれるセファルディのうた

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バラト地区の通りにあるカラフルな家々

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多くの文化が溶け込んだイスタンブルを象徴する,アヤ・ソフィア大聖堂

©Shutterstock.com

トルコのイスタンブルは,ボスフォラス海峡に面し,マルマラ海と繋がる,コスモポリタンな大都市である。アヤ・ソフィア大聖堂などの壮麗な建造物は世界から観光客を集める古都である。

その都市の片側がアジア,片側がヨーロッパの大陸にあるという特性から,ヨーロッパとアジアの交錯する都市とも言われる。だが,そこから一歩進んだ,観光客があまり立ち入らないエリアに,今回紹介するバラト地区が存在する。

バラト地区は非常にローカルな,「下町」とも言える雰囲気を持つ場所だ。街区はカラフルに塗られ,ストリート・アートが描かれている。カフェでは多くの人々が会話の時間を楽しんでいる。通りを歩けば多くの猫たちが歩行者を出迎えてくれる。

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イスタンブルは「猫の街」と言われるほど,
地域で暮らす猫が多いことでも知られる

©Adobe Stock

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だがこの地区を特別なものにしているのは,ここが多くのユダヤ系住民が住むイスタンブルの「ユダヤ人街」のひとつということだ。バラト地区は1453年から君主のムハンマド2世がユダヤ人の居住を認めたことに由来し,1492年から,スペインを追放されたユダヤ人が多く居住する。彼らはセファルディ(セファルディム)と呼ばれ,沿岸都市で生活し,都市の中で多様なエスニック集団とともに住むことになったが,彼らは今も,中世のスペイン語をもとに,独自の言語であるユダヤ・スペイン語(ラディーノ語)を使っている。かつてはヘブライ文字で出版文化を持ち,今ではトルコ語にならってアルファベットで表記する,トルコ語・ギリシャ語・フランス語などが入り混じったスペイン語である。

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人気の練り菓子「オスマンル・マジュヌ」と街角でワゴンに並ぶ人々

©Shutterstock.com(左), ©岩元恕文(右)

そこで共同体の絆の源泉となっているのが,音楽である。セファルディには膨大な口承的な音楽や説話があることは,早くから知られていた。スペインの研究者はセファルディに古いスペインのロマンセ(古い口承歌)が残されていることを期待した。古典的な録音には,ハイム・エフェンディやベルタ・アグアードのようなトルコ歌謡とユダヤ的な詠唱の影響を受けた録音が残っている。一方で「セファルディ音楽」の独自性はなかなか論じがたい。彼らは行く先々で現地の音楽を取り入れ,自身の音楽を構築していった。そうしたロマンセやジャズやタンゴ,スペイン歌謡やオペラをモチーフにしたものも含め,現在に繋がる「セファルディの音楽」を記録として残したのは,イスラエルのイツハク・レヴィであった。レヴィは古典的な歌謡だけでなく,現代的な音楽も採譜し,「セファルディ音楽」の基盤をつくり上げた。次の曲は彼の収集した曲の中でも著名なもののひとつだ。

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小夜鳴鳥(ナイチンゲール)たちは歌う/愛の息吹とともに/私の魂よ,私の幸運よ,/あなたの力とともにある/薔薇は花咲く/5月のころに/私の魂は萎れていく/愛に苦しみながら『薔薇は花咲く(小夜鳴鳥たちは歌う)』“La roza enflorese (Los bilbilikos kantan)”

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セファルディの歌手,ヤスミン・レヴィ

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こうして,セファルディ音楽は20世紀後半,少しずつワールド・ミュージックの一角として広く知られるようになり,現代ではセファルディの音楽は古楽やアラブ音楽,スペイン音楽,ラテン音楽などのアレンジが行われる。その最も現代的な歌い手のひとりが,イスラエルのヤスミン・レヴィである。彼女は前述のイツハク・レヴィを父に持ち,フラメンコやタンゴ,アラブ音楽を融合させたセファルディ音楽の旗手である。また,イスラエルで活躍する日本の岡庭矢宵(おかにわやよい)のように,トルコ旋法や正教会の詠唱,古楽や日本民謡など多元的なアプローチで独自の表現を発展させている歌手もいる。グローバルな音楽シーンの中では決して目立つことのなかったセファルディ音楽は,極めて興味深い音楽文化の成熟を見せている。

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「星の王子さま」のストリート・アート。
同作にはトルコの天文学者が描かれていることもあり,国内でも人気が高い小説だ

©岩元恕文

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アヤ・ソフィア大聖堂の内部

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かつてはトルコ語世界に同化していたトルコのユダヤ人たちも,現在はこのユダヤ・スペイン語とセファルディの音楽を通じて,コミュニティの絆を確かめている。今でもトルコでは,ユダヤ系新聞の増刊号としてユダヤ・スペイン語の新聞が発行され,ユダヤ・スペイン語の少年少女の合唱団が結成されている。ユダヤ・スペイン語はあと数十年以内にはネイティブの話者がいなくなるとも言われるため,共同体の中には強い危機意識がある。トルコとトルコの文化世界の中に溶け込みながら,同時にユダヤ人とユダヤ的なものを大事に抱えていく——それが現代のトルコのユダヤ人が選んだ道であった。

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バラト地区は「下町」というようなローカルな雰囲気も併せ持つ,
気取らない地域でもある

©alamy.com

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コロナ禍以降,世界に散らばるセファルディたちはZoomやYouTubeを通じて積極的に意見交換やウェビナーを行うようになった。現在Netflixで配信中のドラマ「クラブ・イスタンブール」は50年代のイスタンブルが舞台であり,ユダヤ・スペイン語も時折登場する。現代のオンライン環境はこうした形で,世界と接続しながら同時に過去の記憶と繋がることを可能にした。

そしてあなたがイスタンブルのバラト地区を現実に訪れ,その街区を彷徨い,一節でもユダヤ・スペイン語の歌曲を口ずさめば,セファルディの人々はあなたを心から歓迎してくれるはずだ。こうして言葉と記憶の過去と未来,その双方にきっと出会うことができるだろう。

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街区の家にもユダヤ教のシンボルが描かれている

©岩元恕文

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Listening

Djoya de mar/Dafne Kritharas(2018)

ダフネー・クリタラスはギリシャ出身の父とフランス人の母の間に生まれ,レベティコ(ギリシャ音楽)やトルコ音楽を背景に,ジャズやエレクトロなども含めた音楽を志向している。彼女のこのアルバムは,現代的なセファルディ音楽/ギリシャ音楽などのクロスオーバーを目指しており,伝統的でありつつ新鮮である。「La roza enflorese」収録。

※視聴する際は、音量にご注意ください。

長塚織人|Orihito Nagatsuka

1991年宮城県生まれ。筑波大学卒業後,東京大学総合文化研究科地域文化研究博士課程に在学中。スペイン系ユダヤ人の言語と文化,そして文学について研究を行っている。日本学術振興会特別研究員,およびスペイン・アルカラ大学で客員研究員の後に山梨大学非常勤講師。主な論文に「エリア・カルモナの自叙伝のトリックスター的特徴について」(2018年)など。

石橋 純|Jun Ishibashi

東京大学大学院総合文化研究科教授。東京外国語大学スペイン語学科卒業後,家電メーカー勤務中にベネズエラに駐在。のちに大学教員に転身。文化人類学・ラテンアメリカ文化研究を専攻。著書に『熱帯の祭りと宴』(柘植書房新社,2002年),『太鼓歌に耳をかせ』(松籟社,2006年)ほか。

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