鹿島の土木の変遷
近代日本の社会基盤整備は、土木界が官民学一体となって進められ、人々の生活の質の向上に大きく貢献してきました。鹿島は、創業以来鉄道やダムの施工など社会基盤整備の一翼を担ってきており、1949年には業界に先駆けて技術研究所を設立しました。最初に軟弱地盤の改良工法の開発に取り組み、臨海工業地帯の造成に大きな成果を上げ、日本産業の発展に寄与しています。さらに1963年には研究所の土木設計業務を分離し、土木設計部を新設。高炉基礎、コンクリート構造物、桟橋、護岸、巨大ドック橋梁などの設計・施工管理を行ってきました。そこには人々の豊かな暮しのため、技術部門と現場が連携し、施工に取り組む姿勢が見えます。
近代日本の礎、鉄道工事の先駆けとして
鹿島の土木は、近代日本の社会基盤整備の歴史と重なり、源流は明治期の鉄道建設にまで遡ります。1870年、日本初の新橋~横浜間の鉄道建設で資材納入に携わり、1880年には鉄道工事請負に進出し、近代日本の動脈となる鉄道網の構築に大きな足跡を残してきました。事業範囲は日本全国にとどまらず、台湾や朝鮮半島、満州にまで及び、明治・大正期を通じて施工した線路の延長は約2,300kmにも上ります。
新発田線阿賀野川橋梁(全長1,360m)は、1911年の竣工から半世紀以上にわたり日本最長の鉄道橋でした。東海道本線丹那トンネルは、1918年から16年の歳月をかけて完成させたもので、複雑な地質や大量の湧水などの困難を克服し、「鉄道の鹿島」の名声を一挙に高めることになります。丹那トンネルの開通で東海道本線の輸送能力は大幅に増大、日本経済の発展を支える大動脈となりました。
「鉄道の鹿島」から「ダムの鹿島」へ
急増した電力需要に応え、大正末期から全国でダムや水力発電所の建設が始まり、鹿島が施工してきたダムは、全国各地で大小150以上に上ります。国土総合開発が進められた1950年代には数多くのダムを施工し、上椎葉ダムは土木技術の粋を集めて築いた日本初のアーチダムでした。また、新潟県の奥只見ダム(1960年)は、半年以上雪に閉ざされる日本屈指の豪雪地帯に、鹿島が総力を挙げて日本最大級の重力式コンクリートダムを施工しました。
東京オリンピックとインフラ整備
東京オリンピック(1964年)の開催を契機に、社会基盤は急速に整備されました。鹿島は日本初の高速道路・名神高速道路山科工区、東海道新幹線・新丹那トンネル、東京駅及び有楽町駅の高架化、東京モノレール、大都市の地下鉄工事などを施工しました。その一つ、東海道新幹線富士川橋梁(全長1,374m。1963年)は、阿賀野川橋梁を半世紀ぶりに抜き去り、日本最長の鉄道橋となりました。一方、地盤改良による臨海工業地帯の整備、コンビナートやシーバースの建設など、日本の高度成長を支えました。
北から南まで地続きになった日本列島
1988年、日本列島がひと続きで結ばれました。青函トンネル(全長53.85km) は世界最長の海底トンネルで、1972年の着工から本坑貫通まで13年の月日をかけて完成しましたが、鹿島は本州側工区で海底部の施工を担当しました。また本州四国連絡橋の南備讃瀬戸大橋は道路鉄道併用橋として世界最長を誇り、世界最大級の海洋構造物・アンカレッジ7Aを施工しました。世界最長の吊り橋・明石海峡大橋(支間長1,991m)では速い潮流に対応するために技術研究所で検証実験を重ね、円形の橋脚基礎2Pを施工しています。一方、東京湾を海底下でつなぐ東京湾横断道路では、最先端の探査技術を用いてシールドマシンの地中接合にも成功しました。これらの施工と技術開発により、鹿島の土木はさらに飛躍を遂げることができました。
国土強靭化に向けて
新たな国際化に向けて沖合空港である中部国際空港、関西国際空港、そして羽田D滑走路を相次いで施工し、羽田D滑走路では埋立てと桟橋のハイブリット構造という世界でも例の見ない構造形式が採用されました。また東名高速道路に集中した交通需要の緩和を目的に、新たに建設が進められている新東名高速道路では、トンネルや橋梁など17の工区を担当し、その完成に向けて大きく寄与しています。鉄道では、陸上鉄道トンネルとしては世界最長となる東北新幹線八甲田トンネルや、シールド工法とNATMの利点を併せ持つ最先端技術「SENS工法」を採用した北海道新幹線蓬田トンネルを建設しています。ダムにおいても、環境に配慮した宮ヶ瀬ダム、アーチダムでは国内最新の温井ダム、国内最大規模の堤体を誇る胆沢ダムなど数多くの実績を重ね、国土の強靭化に全力を挙げて取り組んでいます。
技術と想像力でたしかな未来をひらく
時代の進展に伴って環境への意識が高まり、土木に求められるニーズも変化してきています。鹿島は明治以来の実績と技術開発力、それらを抱合する総合力を活かし、土木構造物の機能性向上を求めて探求を続けています。また、経済性・安全性などの問題を解決し、災害復旧も含めた社会要請に応え、自然と調和した景観デザインの創出、構造物の価値の維持・向上にも取り組んでいます。未来の礎となる社会資本を整備して経済・産業の発展に寄与し、安全・安心な暮らしを支え続けていくべく、鹿島は「進取の精神」で今後も進歩を続けていきます。
鹿島の海外土木工事
鹿島が初めて海外で工事を行ったのは19世紀末、明治時代です。当時の国策に応じて朝鮮や台湾、満州へ進出し、鉄道や橋梁、ダムなどを施工しました。その範囲は東南アジア全域に及び、1899年、日本初の海外工事で朝鮮半島初めての鉄道・京仁線の建設を皮切りに、京釜線、京義線、台湾初の鉄道・台湾縦貫線、中国大陸の奥地まで鉄路を伸ばした南満州鉄道、泰緬鉄道など鉄路の数々、台湾の日月潭などのダム、発電所、鉱山開発、港湾・空港の建設、灌漑など、東南アジア各地での社会基盤整備は終戦まで続けられました。
戦後賠償工事第1号を緒に再び海外へ
終戦で海外工事から撤退した鹿島が、再び海外に出たのは1954年、戦後賠償工事第1号のバルーチャン第2発電所建設工事です。ミャンマー初の水力発電所であり、鹿島も最盛期には200人もの人材を投入して施工に当たり、1960年の竣工後、現在もミャンマーの電力需要を支えています。その後も各国で戦後賠償工事を続け、現在ではODAプロジェクトを中心に、世界各地に道路、鉄道、橋梁、トンネル、ダム、発電所、港湾、ドックといった社会基盤整備に貢献しています。
社会基盤整備をアフリカの大地で
アフリカの大地にも鹿島は進出しています。1970年、コンゴのムソシ銅鉱山工事を緒に、タンザニアではスレンダー橋をはじめ、数々の道路、農業用水路を施工しました。大規模農業土木プロジェクト・カプンガライスでは、取水堰、導水路、排水路を建設し、約3,800haの水田を造成しました。他にも中央アフリカ、ガーナ、エチオピア、アルジェリアなどで道路、橋梁などの土木工事を行っています。スエズ運河橋(2001年)は、全長4,100mのアジアとアフリカを繋ぐ道路橋(中央支間404m)で、水面から70mの橋桁は世界一の高さを誇り、大型船舶が航行できるようになっています。また、スエズ運河下の横断道路トンネル改修工事では、昼間は通常通りトンネルの通行を続けながらの工事が条件でしたが、1995年に無事竣工しました。
アジア各国の社会基盤整備に尽力
アジア・太平洋地域では、60年代まで戦後賠償工事が中心でしたが、70年代以降はODA他各種事業で各国の社会基盤整備に尽力しています。中でもインドネシアのアサハン・プロジェクトは、地下発電所とアルミニウム製錬工場を核に、港湾施設や埋立などを現地合弁企業と行った一大事業でした。1989年に日本の建設会社として初進出したインドでは、ムンバイで敷地造成面積 230万m2のナバシェバ港湾を施工し、ネパール国境近くのダウリガンガダム(2005年)は、電力不足に悩むインドの新しい電力供給源となりました。
橋梁も地下鉄も、カジマ・ メイドで
フィリピンでは、マクタン島とセブ本島を結ぶマルセロ・フェルナン橋は空港に近接しているために主塔の高さを低く抑えたエクストラドーズド橋で施工しました。また、パラオではパベルダオブ島とコロール島を結ぶ唯―の橋、日本・ パラオ友好橋を施工しました。ベトナムのメコンデルタ地域では20の橋梁をほぼ同時期に施工し、完成させました。タイでは地下鉄操車場の建設に高さ3m、総面積23万m2の広大な人工地盤を構築し、シンガボールでは MRT地下鉄、セントーサエクスプレスも施工しています。台湾での地下鉄工事も数多く施工しています。
欧米で最先端技術とノウハウを活かす
最先端のシールド工法やトンネル掘削技術は、アメリカでも公共交通機関や上下水道工事などに活かされました。リバーマウンテントンネル(ネバダ州)では、最新鋭トンネルボーリングマシンで上水道トンネル掘削を行ない、1日で150.0m、5日間で636.7mを掘削し、1993年に直径4~5m級トンネル掘削の世界記録を樹立しました。一方、ヨーロッパではゴルフ場の建設に数多くの実績を挙げており、英国のバッキンガムシャーゴルフクラブ(1992年)やロンドンゴルフクラブ(1993年)など、ヨーロッパの自然と日本のコースづくりの思想や技術を融合させたゴルフ場は、高い評価を受けています。
中東とアフリカで交通網を整備
新たな世界金融都市として脚光を浴びているドバイではドバイメトロの施工を担当し2011年に竣工しています。またアルジェリアでは東西高速道路の東工区を受注し、軟弱で崩れやすい地盤や雨期の洪水対策などの難工事と闘いながら約320㎞の施工を行いました。