鹿島のあゆみは,近代日本のインフラ整備の歴史と重なっていく。明治後期から急増していった電力需要に対し,各地で水力発電所やダムの建設が開始される。鹿島は,京都・宇治川電気の志津川発電所工事において,隧道と開削水路を1909(明治42)年に着工。つづいて施工した大峯ダムは,わが国初のコンクリートダムとして1924(大正13)年に完成させ,「ダムの鹿島」としての第一歩を踏み出す。
戦後の産業再建,経済復興の柱のひとつとなった電源の開発では,1950年代から高度経済成長期にかけて水力発電用ダムの建設が進んだ。さらに,治水・利水など複数の機能を兼ね備えた多目的ダムが次々とつくられていった。上椎葉ダム(宮崎県)は,当時の土木技術の粋を集めて築いた日本初のアーチ式コンクリートダム。鬼怒川上流の五十里ダム(栃木県)は,国内で最初に堤高100mを超えた。奥只見ダムは,新潟県と福島県に跨る阿賀野川水系に位置し,半年以上雪に閉ざされる日本屈指の豪雪地帯に建設。157mの堤高は,重力式コンクリートダムでは現在も日本一である。
1990年代には,ロックフィルダムの奈良俣ダム(群馬県),重力式コンクリートダムの宮ヶ瀬ダム(神奈川県)が相次いで完成。施工の情報化と機械化が大きく進歩していった。
これまで150を超えるダム建設に携わってきた鹿島。新工法の開発や大型機械による省力化,ICT活用による生産性向上など,絶え間ない技術開発により,機械化,省人化,自動化,そして「現場の工場化」へと進化させている。
ダムに関して私が何よりも先に心に思い浮かぶのは,建設にたずさわったいわゆる「ダム屋さん」たちが言う「ダムには,神がここに築(か)けよ,と命じ給う地点がある」という言葉だ。
失礼な意味で言っているのではないが,「ダム屋さん」たち全員が,熱心な仏教徒やクリスチャンだとは思えない。しかし殆どの人がそう言う。
土木の中でもダムの現場は人が謙虚になり,大地の声に耳をかたむけ,その命じる仕事にたずさわることに,生涯の意義を見いだす場なのだろう,と私は推測している。
私は中年近くなってから,その自然と人間の魂の交流の場であるサイトに,取材のために立ち入ることを許されたのである。ここでは人間の存在など「何ほどのものか」と思わせられるほど小さいことも,しかしその人間が両手を上げて自然に立ち向かった時,そこに確固とした「人間の幸福のための痕跡」を長く残せることも教えられたのである。まさに奇蹟のような調和と協力が出現したというほかはない。
曽野綾子(その・あやこ)
作家。東京都生まれ。聖心女子大学卒。1979年ローマ教皇庁よりヴァチカン有功十字勲章を受章,
1993年恩賜賞・日本藝術院賞受賞,2003年文化功労者。日本財団会長を歴任。
『六十歳からの人生—老いゆくとき,わたしのいかし方』(興陽館),『無名碑』(講談社)など著書多数。