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橋の歴史物語

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  1-1 天と地を結ぶ橋
 

天橋立

天橋立

神話や伝説にでてくる橋は、人が橋に架ける夢を語っているように思われます。日本の神話にでてくる最初の橋は「天の浮き橋」で、日本列島を作る際に、この橋を通って、天の神々が自由に天と地の間を行き来したと伝えています(古事記)。京都府の「天橋立」の言い伝えは、日本列島をつくったとされるイザナギの尊が天に上る橋をつくったが、それが横に倒れて天橋立になったという内容です。世界の神話を見ても、たとえば、空に架ける橋が、神が天に昇る橋であるといった神話が多く、そのほとんどは、空にかかる虹を天と地を結ぶ橋としています。

 
 
 
  1-2 鮫が作った浮き橋
 

大国主の国曳きの神話で有名な出雲には、『いなばの白兎』という伝説があり、白兎が鮫をだまして、鮫の橋をつくらせ、それを伝って向こうの島を渡ったという話が伝えられています。 国曳き神話は、たとえば北欧のデンマークなどにも残されており、『遠くのものを引き寄せたい、歩いていけないところへ行きたい』という願いは、人類共通 の夢なのかもしません。

 
 
 
  1-3 人類が作った最初の橋
 

丸木橋

丸木橋

人が架けた最初の橋は、歩いて通る道のつながりとして作られたものと思われます。大昔の橋は、自然の倒木を利用した丸木橋であったり、川の流れに飛び石をおいただけのものだったのでしょう。 人は文明が起きる古代から、道具を使い、経験的に橋をつくる技術を学んできました。 そして、現代に見るような長大な橋を建設する技術を自らのものにしてきたのです。

 
 

 
  1-4 日本で初めての橋は?
 

日本で初めての橋とはどんな橋だったのでしょうか。 記録にのこる最古の橋は、「御木のさ小橋(みけのさをばし)」という倒木を利用した橋です。この橋は、福岡県大牟田市の三毛(三池)の地にあったとされています。(日本書紀 景行天皇18年)

また、仁徳天皇の14年(おそらく5世紀頃)に「猪甘津(いかいつの)に橋わたす」という記述があります。形や大きさは不明ですが、人が通 る街道に架けられた橋のようです。この橋は、「つるのはし」と呼ばれており、現在の大阪市生野区猪飼野町に石碑がたてられています。

記録のない時代にも橋が作られていたことが、考古学の発掘調査により明らかになっています。弥生時代の中期末つまり、紀元前後には、環壕集落が各地で作られ、それを取り巻く壕(ほり)(幅約4m)に架かる橋の遺構が発掘されているのです。
(神戸市川谷町、富山県上市町)

 
 

 
  1-5 日本の三奇橋
 

日本には三奇橋と呼ばれる橋があります。 山梨県大月にある猿橋。木曽の桟橋(かけはし)、山口県岩国の錦帯橋の三つが、日本三奇橋にあげられています。 このうち、木曽の桟橋は深い渓谷沿いに桟道をつけ、その先に渓流を渡る橋があったようですが、現存しないのでその構造は不明です。おそらく、大月の猿橋と同じような構造であったのではないかと思われます。

 
 
 
  1-6 大月の猿橋
 

猿橋

猿橋

大月の猿橋は、非常に古く、推古天皇の頃(620年頃)とみられています。それ以来、25年ごとに架け替えられてきましたが、昭和7年(1932年)、そのとなりに鋼製のアーチ橋が完成したので、現在は史跡として保存されています。 この橋は、両岸の懸崖から刎木を何段にも重ね、それで橋桁を受ける「刎橋」といわれる珍しい構造で、力学的にも非常に合理的につくられていて、その後の日本の橋には類のないユニークな橋です。 この橋の由来については、はっきりしたことは分かっていません。推古天皇の20年、百済工人に、御所内の庭に「呉橋」を架けるように命じたという記録と、その後、百済工人が「兜岩猿橋」をつくったという記録が残っています。これが大月の猿橋でないかという説があります。1400年間、同じ構造を守り続けて現在まで伝えられてきた珍しい橋です。

 
 
 
  1-7 岩国の錦帯橋
 

錦帯橋

錦帯橋

岩国の錦帯橋は木の橋としては、世界的にみても素晴らしい橋です。この橋は江戸時代の初めにつくられたのですが、川の中に飛び飛びに島をつくり、そこに石で橋脚を建て、アーチ型の橋桁を木で渡しています。こうした工夫によって洪水にも流されることなく、現在でも当時の姿のままに残すことができたのです。

 
 
 
  1-8 僧侶が架けた奈良時代の橋
 

宇治橋

宇治橋

日本では、奈良時代の初期から、橋が架けられた記録が残っています。 その当時は、僧侶が現世の救済のために橋を架ける場合が多かったようです。遣隋使や遣唐使で中国に渡った僧侶が橋の技術を学んで帰り、日本に広めたのです。 宇治橋は、元興寺の僧、道登・道昭の手によって、大化2年(645年)架けられました。 宇治橋東詰めよりやや上流の放生院から、橋建立の由来を示す石碑の一部が発見されています。 その石碑には、衆生済度の祈願と橋建立協力への呼びかけが記されています。

また、その弟子にあたる僧 行基は諸国を旅して、山崎橋を初めとする、多くの橋を架け、また洪水を防ぐために堤防を築きました。こうした活動により、行基は民衆から行基菩薩(ぼさつ)とあがめられたといわれています。

日本の場合、橋を造る材料として木材が多く使用されていました。そのほとんどが、川の中に木の橋脚を建て、それに橋桁を渡したいわゆる桁橋でした。そのため、洪水で流されたり、火災にあったりすることが多く、当時の橋はほとんど残っていません。

 
 
 
  1-9 日本の道路の原点となった日本橋
 

歌川広重、日本橋、朝之景

歌川広重、日本橋、朝之景

「お江戸日本橋、七つ発ち…」という唄で有名な日本橋は、江戸城を築いた徳川家康により、架けられた橋です。 徳川家康は秀吉から関八州の支配を任されると、江戸の地先を埋め立てて、日本橋川を整備します。そして、そこに日本橋を架けたのです。その後、江戸に幕府を開いてからは、この橋を東海道・中山道など、五街道の起点と定めました。そのため、日本橋は「まるで蟻が熊野詣でをしているよう」といわれるほどにぎわい、江戸の町の繁栄を象徴していたのです。日本橋は明治になって石の橋に掛け替えられ今に至っています。日本橋は今も日本の道路の原点となり、橋のたもとには、日本道路原標が据えられています。 江戸幕府をひらいた徳川家康が隅田川に最初に架けた橋は、千住大橋です。

 
 
 
  1-10 日本に伝わった石造りアーチ橋の技術
  木の橋が中心の日本で、江戸時代に石造りアーチ橋の技術が日本に伝わり、九州でこの石の橋が多く造られました。 この技術の伝播のルートには、三つのルートがあります。中国から長崎へ・長崎の出島にきていたオランダ人から・中国から沖縄経由で鹿児島へ、という三つのルートです。
 
 

長崎眼鏡橋

長崎眼鏡橋

中国から伝わった技術を元に作られたのは、長崎で最初の石造りアーチ橋である長崎眼鏡橋です。 この橋は、1643年(寛永20年)中国から渡来して興福寺2代目の住職となった如定(にょじょう)が、中国の石橋の技術を使って架けた橋です。これに、オランダ人からアーチの技術を習得した末次平蔵一族も加わって長崎の中島川には20の石橋が架けられたそうです。 この末次一族が秘伝として橋造りの技術を伝承し、諫早の眼鏡橋、熊本県矢部の通 潤橋などをつくります。(この3つの橋は共に国の重要文化財)
 
 

通潤橋

通潤橋

中でも通潤橋は、谷に囲まれて米がとれなかった矢部地方に水を送るために架けられた日本では珍しい水道橋で、サイフォンの原理を応用して水を送るようになっています。毎年、橋の中央にある樫の木の栓を抜いて、水道にたまった土砂とともに水を抜く行事があり、観光客が多く訪れています。 本州各地でこのタイプの橋が架けられるようになるのは明治から昭和にかけてです。中でも有名なのは東京の二重橋、日本橋、大阪の心斎橋です。
 
 
 
  1-11 現存する日本最古の石造りアーチ橋
 

天女橋

天女橋

沖縄には、「天女橋」という日本最古の石造りアーチ橋が残っています。(1502年、重要文化財) この橋は、沖縄・那覇市の円覚寺総門前の円鑑池の中にある弁財天堂に架けられた、橋長9.4m・幅3mの小さな橋です。弁財天堂は、尚真王時代の1502年に、朝鮮から贈られた経典を収納するため建立されました。天女橋はそれへ渡る橋として架けられたのです。

 
 
 

 

※このコンテンツは、2001年に開催されたインターネット博覧会出展時のアーカイブです。

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