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橋の歴史物語

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猿橋

猿 橋

 

   1 猿 橋  
   錦帯橋、愛本橋とともに日本三奇橋に数えられるのが、山梨県大月市にある「猿橋」 です。 今から約1400年の昔、推古天皇の時代に、百済からの帰化人、芝耆麻呂(しきまろ )によって架けられたといわれるこの橋は、刎(はね)橋というちょっと変わった形を しています。木でつくられた橋には、橋脚がありません。その代わりに、一方を岩壁 に埋め込んだ主桁を、両岸からそれぞれ渓谷の上に張りだし、それを台にして、その 上に水平の桁をわたしています。さらに、張り出した桁すべてに屋根が取り付けられ ているのが「猿橋」の大きな特徴です。猿が蔓を使って川を渡る様子を見て、この変 わった橋を考え出したという言い伝えが、「猿橋」という名の由来になっています。

 
日光神橋
日光神橋
 

   2 日光神橋(しんきょう)  
  天平時代の終わり、日光山を開いた勝道上人の伝説。 山中を巡る上人は、両岸が絶壁となる大谷川に行く手を阻まれてしまいました。 そこで、護摩をたいて神仏の加護を求めると、雲の中から深沙大王(じんじゃだいお う)があらわれ、二匹の蛇を放ちました。蛇は大谷川に架かり、やがて、その背に山 菅(やますげ)が生えて橋となり、上人を対岸へとわたしたそうな… この言い伝えから「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」と呼ばれ、世界的にも有名 な「日光の神橋」は、二荒山神社の境内に、朱塗りの艶やかな姿を今も見せています。

 
 
かずら橋
かずら橋
 

   3 かずら橋  
   「祖谷のかずら橋ゃ 蜘蛛の巣のごとく 風も吹かんのに ゆらゆらと 祖谷のかずら橋ゃ ゆらゆらゆれど 主と手を引きゃ こわくない」(祖谷の粉ひき唄) 「かずら橋」は、四国三郎吉野川の上流、祖谷川にかかる吊橋です。その名の通り、1000m以上の高山に自生する白口かずらの蔓を編んでつくられています。ブランコのように揺れる橋の上では、足下のすき間から14m下の水面が覗き、スリル満点です。「かずら橋」は3年に一度、村人の手で架け替えられます。長さ47m、幅1.7mの「かずら橋」には、太さ4cmから8cm、樹齢100年に及ぶ白口かずらが約5tも必要です。  
 
松江大橋
松江大橋
 

   4 松江大橋  
  水の都松江の中心にほど近く、御影石の欄干に、擬宝珠(ぎぼうしゅ)を飾り、情緒 ある佇まいをみせる「松江大橋」。現在の橋は17代目、昭和12年(1937)に 完成したものです。 「松江大橋」には古くから人柱の伝説が語り継がれています。 その昔、城主の命で、この地に橋を架けることになりました。しかし、宍道湖の幅が 急に狭まるこの場所は、流れが急で、作った橋はことごとく流されてしまいます。 困った工事関係者は、人柱を建てて水の神を鎮めようと考えました。 人選に困っていたところ、工事の人夫だった源助が「明日、朝一番に仮橋として架け られていた橋を下駄で渡ったものを人柱に」と進言します。(他にもいろいろな説が ある) 迎えた朝、そこに現れたのは源助でした。つまり自ら人柱を名乗り出たのです。 その後、大水の度に橋桁は流されましたが、源助の埋められた柱はびくともしません でした。そのため、人々は感謝を込めてその柱を源助柱と呼び、手厚く供養したとい うことです。  
 
愛本橋
愛本橋
 

   5 愛本橋  
  「越中富山に天下の奇橋あり」と江戸の昔から広く知られたのが、富山県宇奈月にある「愛本橋」です。明暦2年(1656)、加賀藩の手により、北陸街道の要衝として、黒部川に架けられました。構造的には、「猿橋」と同じ木製の刎橋ですが、橋長は62mと約2倍。岩盤を斜めに掘削して、何層にも刎木を突き出したその姿は、世界的に見ても他に例がありません。残念ながら、この天下の名橋も明治の中頃の大洪水で流出してしまい、現在では資料からしか、往事の「愛本橋」の美しい姿を偲ぶことはできません。

 
 
錦帯橋
錦帯橋
 

   6 岩国の錦帯橋  
  山口県岩国市を流れる錦川に架けられた世界でも珍しい「木造多連式アーチ橋」が「錦帯橋」です。橋長は193.3m、幅員5m、高さ12m、木造のアーチ部分は、多くの部材が、「迫り持ち」(せりもち)の形で組み立てられています。主の構造体部分(梁と桁)は、くさび・横梁などで固定され、さらに鎹(かすがい)と巻き金で結んでおり、釘には頼っていません。世界にも類を見ない木造建造物といえる「錦帯橋」ですが、その建設がまさに科学的大事業であったことは意外と知られていません。「錦帯橋」完成にさかのぼること14年、完成したばかりの橋が流されるのを見た、ときの岩国藩主吉川広嘉(きっかわひろよし)は「流れない橋をつくろう」と決心し、広嘉の長期計画が始まります。有識者を集め、新橋についての検討を始めます。さらに、後にアーチ橋を設計することになる児玉九郎右衛門を、橋専門の研究員に任命します。一方、治療のため、岩国に招かれた禅僧・独立(どくりゅう)により、思いがけないヒントが与えられます。独立が持っていた「西湖遊覧志」に描かれた、島から島へと架け渡されている橋の図が、広嘉に、島伝いにアーチを架けるアイデアを与えたのです。こうして、橋の構造に関する研究、流失原因の科学的分析、実物大模型実験が行われ、流線型の橋台、川底がえぐられるのを防ぐ川底の舗装、水圧をかけないため内部を水が通過する構造、石の間の鉛のくさび、渇水期のわずかな期間に架橋するための工法など、様々な創意工夫により、延宝元年(1673)約3か月という短期間の工事で、現在に伝わる頑丈な石組みによる橋台と橋脚を持たないアーチによる「錦帯橋」が完成したのです。

 
 
永代橋
永代橋
 

   7 永代橋と落橋惨事  
   「永代橋」は、元禄11年(1698)、五代将軍徳川綱吉50才の賀を祝して架け られた橋で、北新堀と深川佐賀町を結ぶその長さは約200m。隅田川に架かる橋の中では最長でした。佐賀町のあたりを、その昔永代島と呼んでいたところからその名 がついたといわれています。 「永代橋」には悲惨な歴史があります。文化4年(1807)、深川八幡の大祭に押しよせた大勢の見物客で、橋桁が崩落、1500人をこえる犠牲者が出ました。この 「永代橋」落橋事件は歌舞伎や芝居に織り込まれ、深川八幡祭りの人気を物語る話として今に語り継がれています。

永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼(太田南畝)

 
 
広重:千住大橋
広重:保土ヶ谷、新町橋 広重(名所江戸百景) 北斎(諸国名橋奇覧)
広重
千住大橋
広重
保土ヶ谷、新町橋
広重
(名所江戸百景)
北斎
(諸国名橋奇覧)
天満橋
 

   8 浮世絵に描かれた木の橋  
  天満橋/千住大橋/新大橋など
   江戸を代表する浮世絵師たちは、その絵の中に当時を代表する風景として多くの橋を描いてきました。北斎の「諸国名橋奇覧」や、広重の「東海道五十三次」には大きく弧を描く木橋が画かれています。当時の木橋は、排水をよくして、木材の腐れを防ぐため、若干の反りをつけていましたが、絵師はそれを印象的に誇張したため、見事なカーブを持つ橋として、今に伝わる浮世絵が残されたのです。

 
 
長崎眼鏡橋
長崎眼鏡橋
 

   9 石の橋  
  長崎眼鏡橋
   九州各地には、現存するだけで400をこえる石でつくられたアーチ橋があります。 その草分けといえるのが、長崎の中島川に架かる「眼鏡橋」です。 「眼鏡橋」は、長崎最初の唐寺、興福寺の2代目住職、黙子如定(もくすにょじょう )により、寛永11年(1634)につくられました。氾濫の度に壊れる橋を見かね た如定は、石橋を架けることを思いたち、中国から石工を呼び寄せ、自ら技術指導を 行いました。長さ22m、幅4m、高さ5mの「眼鏡橋」は、川面に映った影がめが ねのように見えるためこの名前がついたと言われています。

 
 
くろがね橋
くろがね橋
 

   10 くろがね橋  
   安政元年(1854)のペリー来航以来、海防強化策をとる幕府は、文久元年(1861)、官営長崎造船所を設立。こうした状況の中、慶応4年(1868)、日本で初めてとなる鉄の橋が、西洋文明の窓、長崎の中島川に架けられます。「くろがね橋」、通称「てつの橋」と呼ばれたこの橋は、長さ22m、幅6.5m、一径間の練鉄製桁橋として誕生しました。設計はオランダ人のフォーゲル、長崎造船所の本木昌三を中心につくられた「てつの橋」は、まさに新しい時代の幕開けを予感させるものでした。

 
 
吉田橋
昭和の高麗橋 明治の高麗橋
吉田橋 昭和の高麗橋 明治の高麗橋
 

   11 文明開化の橋  
  横浜吉田橋/大阪高麗橋
   「鉄の橋」はまさに文明開化のシンボルといえるものでした。 「くろがね橋」完成の翌年(明治2年)、開港の賑わいに沸く横浜に「吉田橋」が、 続く3年、大阪には「高麗橋」がつくられます。 「日本の灯台の父」と呼ばれたイギリス人ブラントンの設計による「吉田橋」は長さ 24m、幅6m。安政5年(1858)の日米修好通商条約により開港した横浜の外 国人居留区と市内をつなぐこの橋には外国人を守るため関門が設けられていました。 現在の関内という地名は、この「吉田橋」関門の内側という意味からつけられたもの です。 一方、「高麗橋」は、8径間の練鉄の桁橋で、長さ72m、幅6m。大阪府判事であ った後藤象二郎が長崎の本木昌造から鉄橋の利点を聞いて早速つくらせたもので、橋 桁、橋脚、欄干に至るまですべて鉄でつくられていました。色ガラスの入った燈籠、 川を走る蒸気外輪船と合わせて、「高麗橋」は大阪に新しい文化の香りを伝えたのです。

 
 
旧六郷吊橋
旧六郷吊橋
 

   12 鉄道橋のはじめ  
   日本で最初の鉄道が新橋・横浜間に開通したのは明治5年(1873)9月12日のことでした。全長29kmのこの路線には合計23の橋梁が架けられ、開通当初、そのすべてが木の橋としてつくられました。この路線に続いて、明治7年、鉄道が開通したのが大阪・神戸間32kmですここに日本で最初の鉄製の鉄道橋がつくられました。その一つ「武庫川鉄橋」はお雇い外国人のジョン・イングランドが概略設計してイギリスに送り、さらに詳細設計を行った後、ダーリントン社が製作しました。鋳鉄製の飾りがついた垂直なエンドポストが特徴的です。一方、新橋・横浜間ではその後、明治12年の大森・川崎間の複線化に合わせて、腐朽の進む六郷川の木製トラス橋を鉄橋として架け替えました。架け替えられた「六郷川鉄橋」は径間100フィートの錬鉄製のポニー・ワーレントラスを6連したもので、お雇い技師イギリス人ボイルの設計により、リバプールで製作されました。その後、「六郷川鉄橋」は東海道線の第二酒匂川橋などに転用された後、現在ではトラス一連が明治村に保存展示されています。

 
 
豊平橋1 豊平橋2
豊平橋1 豊平橋2
 

   13 札幌豊平橋の変遷  
   明治のはじめから、お雇い外国人の手でいくつもの橋が架けられましたが、その全てが専門家によりつくられたわけではありません。札幌の「豊平橋」もそうした橋の一つです。明治8年(1876)、日本の豊富な木材資源と外国の技術を組み合わせた、木と鉄によるトラス橋が完成します。この橋の設計を担当したのが、機械による製材技術を教えていたアメリカ人のホルトです。彼は、その実績を評価されて、「豊平橋」の設計を委託されたのです。その後、洪水により大破した「豊平橋」を、その原因を究明して、明治11年改築したのが、アメリカ人のホイーラーです。ホイーラーもまた橋の専門家ではありません。彼は、その師ウィリアム・クラークとともに、札幌農学校に赴任した数学と土木工学の教師だったのです。ホルトとホイーラーによる「豊平橋」は、老朽化により、明治21年に架け替えられました。その後も、大正13年(1924)に治水工事が完成して、北海道の3名橋と呼ばれたアーチ橋が架かるまで、幾度となく架橋が繰り返され、その数は明治4年の丸木橋以来35回とも68回ともいわれました。現在、豊平川に架かっている連続箱桁橋は昭和41年(1976)に完成したものです。

 

   14 イギリス式トラスとアメリカ式トラス  
   日本の鉄道橋の設計は、新橋~横浜間の鉄道建設以来、イギリスが主導して進められましたが、明治18年(1886)、横浜で発刊されている英字新聞上で、トラスの構造を巡り、アメリカとイギリスの間に激しい論争が巻き起こりました従来採用されていた「イギリス式トラス」は、太めの弦材と端材が一体のフレームを作り、斜材をフレームにピンで結合して、フレームを補強しています。この上に、横桁が格子の間に載せられていて、横溝は組まれていません。そのため、2次応力の大きい設計になっています。これに対し、「アメリカ式トラス」は、下弦材としてアイバーが格点でピン結合され、横桁も格点に連結され、2次応力の発生する余地のない設計といえます。こうして20回をこえた紙上論争は、結局、結論を見ませんでしたが、その後の機関車重量の増加から橋にかかる加重が増大して、「イギリス式トラス」では強度が足りなくなりました。そのため、明治30年以降は「アメリカ式トラス」が日本の鉄道橋に採用され、250連をこえるトラス橋がつくられたのです。

 
 
碓氷峠
碓氷峠
 

   15 碓氷線第三号橋梁  
  眼鏡橋
   信越本線は、高崎~横川間が明治18年(1885)10月、軽井沢~直江津間が21年に開通しましたが、残りの横川~軽井沢間の碓氷線開通はそれから5年、明治26年4月まで待たなければなりませんでした。碓氷峠越えとなるこの区間11.2kmは、その内8kmが、66.7/1000という急勾配のため、ドイツの山岳鉄道で実用化されていたアプト式軌道が採用されました。これは、機関車に取り付けた歯車がラックレールとよばれる歯状軌道とかみ合うことで、急勾配を上り下りするものです。この碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られました。橋梁はすべて煉瓦製のアーチ橋でした。中でも、「眼鏡橋」の名で親しまれた第3号橋梁は、2百万個のレンガで造られたアーチ橋で、長さ90m、高さは30mをこえ、国内でも最大のものでした。

 
 
余部鉄橋
余部鉄橋
 

   16 東洋一の高さを誇った余部鉄橋  
   日本海に面した山陰本線鎧-余部間に架かる「余部鉄橋」は、集落の頭上高くそびえるその姿から、大空に向かい飛び立ってゆく列車を連想させます。明治42年(1909)12月の着工から約2年後の45年2月に完成したこの鉄橋は、高さ41m、長さ309mと東洋一の威容を誇りました。日本でも珍しいトレッスル式の鉄橋で、アメリカ人技師ウォルフェルによる設計、桁部分を東京石川島造船所が、橋脚部分をアメリカン・ブリッジ社が製作しました。山陰本線最大の難工事となったその建設では、アメリカから運ばれた橋脚を北九州の門司でより小さな船に積み替え、余部の沖合まで運び、あとはハシケを使い陸揚げしました。総工費33万円(現在のお金で約2億円)、作業員数は延べ25万人を数えました。昭和61年(1976)暮れには、海からの強い北風にあおられ、鉄橋から列車が転落、6名の死者を出す大惨事が起こりました。この痛ましい事故を教訓に、現在では秒速20m以上の風が吹くと列車を止め、乗客の安全に最善の注意を払っています。

 
   17 珍しい吊り橋  
  山里の吊橋/玉手橋
   明治3年(1870)、皇居内の山里の御殿に架けられた日本で最初の鉄製吊橋が「山里の吊橋」です。両岸に石とレンガでつくられた塔をもち、平行に束ねた鋳鉄製のワイヤにより吊られた長さ73mのこの橋は、その形式や径間長から明治初期を代表する橋といえます。この「山里の吊橋」をつくったのは、アイルランド人のウォートルスです。長崎の商人グラバーの推薦により明治政府に招かれたウォートルスは、銀座の煉瓦街や大阪造幣寮応接所「泉布観(せんぶかん)」などをつくり、日本に本格的な西洋建築を紹介して「ウォートルス時代」と呼ばれる一時代を築きました。「山里の吊橋」はその後、新宮殿造営計画に伴い、明治14年に撤去されました。ユニークな形式の吊橋として、今もその姿を見ることができるのが、大阪府藤井寺、柏原の両市にまたがって架かる「玉手橋」です。この5径間の鉄筋コンクリート製の吊橋は、昭和3年(1928)大阪鉄道(現在の近鉄)道明寺駅と玉手山遊園地を結ぶ歩道橋として完成したものです。

 
 
弾正橋
弾正橋
 

   18 明治 東京の橋  
  弾正橋/吾妻橋/鎧橋/御茶の水橋/湊橋/厩橋/永代橋/両国橋/新大橋/明治23年に掛け替えられた新橋
   東京で最初につくられた鉄の橋は、明治4年(1871)、芝口に架けられた「新橋」といわれています。「新橋」は、翌年開通した新橋駅の入口を飾る1径間の練鉄製の桁橋で、欄干も鉄でできていました。明治11年になると、材料から製造まですべて国産という橋が登場します。工部省赤羽製作所で製作されたこの「弾正橋」は、はじめ鍛冶橋から八丁堀を流れる楓川に架けられていました。この長さ15mのボーストリングトラス道路橋はその後、震災復興計画により、深川富岡八幡の境内裏に移され、「八幡橋」とその名を改めて、今にその姿を伝えています。その後、明治15年には霊岸島に、日本人による初めての設計といわれる原口要設計の練鉄製トラス橋「高橋」が建設されます。続いて、東京の鉄橋の歴史は隅田川、日本橋川を中心に発展してゆきます。明治20年隅田川初の鉄橋「吾妻橋」が架けられます。原口要の設計による「吾妻橋」は3連式のプラットトラス橋でした。翌21年、今度は日本橋川に練鉄製のホイップルトラス橋、「鎧橋」が続いて24年、神田川に主径間に上路式プラットトラス、側径間に桁橋を配した「お茶の水橋」、28年には、日本橋川にボーストリングトラスの「湊橋」が架かりました。隅田川では、「吾妻橋」に続いて26年に「厩橋」、30年には、道路橋として初めて鋼を使った「永代橋」が、さらに37年「両国橋」、45年「新大橋」がプラットトラスとして相次いで架設されました。東京初の鉄製の橋となった「新橋」も明治32年にはアーチ橋に架け替えられました。帝国博品館の擬宝珠の大屋根とともに、「新橋」は明治末期の東京を代表する景観といわれました。

 
 
天神橋
天満橋
天神橋 天満橋
 

   19 明治 大阪の橋  
  新町橋/心斎橋/千代崎橋/安治川橋/天神橋/天満橋/難波橋
   明治維新後の大阪では、輸入した鉄の橋が次々に架けられました。これは、民間で資金を出し合って橋を架ける「町橋」の伝統が大阪にあったためと考えられています。明治3年(1870)の「高麗橋」に続いて、明治5年には日本で最初の鉄製アーチ橋「新町橋」が架けられました。鋳鉄製のアーチは6分割したものを組み立てたもので、アーチ橋の長さは27mでした。その翌年、ドイツから輸入されたボーストリングトラス橋が「心斎橋」です。「心斎橋」は、その後、明治41年に花崗岩の石造アーチ橋に架け替えられますが、現在でも、花博跡地の「緑地西橋」に往事の面影を偲ぶことができます。明治のはじめに、鉄の橋とともに、水の都浪速ならではの進歩を遂げたのが可動橋です。明治5年、大阪の西にある松島と市街地を結んで、木津川に架けられた「千代崎橋」には、2mほどの可動部があり、そこを船が通る仕掛けになっていました。その仕掛けには二つの説があり、一つははね橋方式、もう一つは可動部を引き込む方式といわれています。その翌年、外国人居留地の川口に架けられた「安治川橋」は、桁、欄干とも鉄でつくられた可動橋です。ヨーロッパから輸入されたこの橋は、中央の2径間、約16mが中央の橋脚を中心に回転するもので、その姿から「磁石橋」とも呼ばれました。この「千代崎橋」「安治川橋」は、可動部の橋体を柱からおろした細い鉄で吊るという斜張橋に似た構造をしていました。その後、この二つの橋は明治18年の淀川の大洪水で流失してしまいました。この大洪水では、二つの橋以外にも多くの橋が大きな被害を受けました。これを機に大阪市内の18の橋が鉄橋や鉄柱橋脚に架け替えられました。中でも代表的なものが、明治21年に完成した「天神橋」と「天満橋」です。5径間から成る「天神橋」の最大支間65mのボーストリングトラスは、道路橋としては当時最大で、あまりの大きさに人々は大変驚きました。「天満橋」も最大支間は52m、4連のホイップルトラス橋として架けられました。両橋ともドイツのハーコート社製で、当時としては珍しい車道と歩道が分離した橋でした。江戸時代から「天神橋」「天満橋」とともに浪速三大橋に数えられた「難波橋」は、大川納涼や花火に絶好の行楽地でした。「難波橋」は明治9年に、中之島までの北側部分が鉄橋になり、遅れて、南側部分が鉄橋になるのは明治も中頃のことといわれています。

 
 
四谷見附橋
難波橋 納屋橋1 納屋橋2
四谷見附橋 難波橋 納屋橋1 納屋橋2
 

   20 大正の橋  
  四谷見附橋/納屋橋/難波橋
 
大正時代になると、市電の発達や自動車の普及が進み、鉄道橋から道路橋に橋の建設の中心も移行していきます。都市部の橋は、こうした交通網の発達に伴い、道幅を約20mに拡幅するため、急ピッチで新設、改築されていきます。その一方、橋梁の国産化も進み、材料は練鉄から鋼に、トラスの構造はピン結合から格点リベット結合へと変わってゆきます。しかし、整備を急ぐあまり、そのほとんどが単純な桁橋となり、姿形も画一的なものがほとんどでした。こうした状況の中、市街地の美観を考慮してつくられたのが、「四谷見附橋」に代表されるアーチ形式の橋です。旧赤坂離宮(現在の迎賓館)と調和するようにつくられた「四谷見附橋」は、大正2年(1913)に完成した上路式の鋼製アーチ橋で、長さ37m、幅22m。豪華な高欄や照明灯が大きな特徴です。架け替えに伴い、現在は八王子の多摩ニュータウンの中に移され、「長池見附橋」の名で親しまれています。「四谷見附橋」と並んで、当時のモダンな雰囲気を伝えるのが、名古屋にある「納屋橋」です。英・独に留学経験をもつ吉町太郎名古屋高等工業土木科教授の設計による「納屋橋」は、鉄鋼アーチ橋として、大正2年に完成。橋の高欄には、織田信長の木瓜、豊臣秀吉の桐、徳川家康の葵の紋をイメージした浮彫が施され、中央部には堀川開削の功労者、福島正則の家紋「中貫十文字」がはめこまれています。また、大正4年に大阪中之島に架けられた「難波橋」は、鋼製の2ヒンジアーチ橋です。中之島公園と一体となった都市景観の創造を図り、非常に装飾的な下部工、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、公園へ降りる広い石造りの階段など、最大限の意匠設計がなされています。橋の四隈の親柱の上に阿と吽それぞれ二体の石造のライオン像が配されていることから『ライオン橋』の愛称で市民に親しまれています。
 
 
吉野川橋
四万十川 富士川橋 富士川橋(現在)
吉野川橋 四万十川 富士川橋 富士川橋(現在)
利根川橋      
利根川橋      
 

   21 長大トラス橋  
  富士川橋/利根川橋/四万十川橋/吉野川橋
   明治のトラス橋の多くは、上下の弦材が平行な平行弦、上弦をカーブさせた曲弦のプラットトラス橋でした。橋梁技術の進歩に伴い、支間も、明治2年(1869)の吉田橋の27.3mから21年の天神橋65.5m、30年の永代橋では67.4mに延びていきました。大正に入ると、「富士川橋」をはじめとする支間60m前後のプラットトラス橋が次々に建設されます。大正13年(1924)に完成した「富士川橋」は支間65mの曲弦プラットトラスを4連したもので、橋の長さは約400mです。また、この時代になると、垂直材を持つワーレントラス橋も多く架けられます。その代表といえるのが、栗橋と古河の間に架けられた「利根川橋」です。「利根川橋」は、自動車の急速な増加に伴い、政府が進めた道路整備事業の中でも初めての道路橋として、大正13年に完成。支間60m、4連のワーレントラスを主径間に、9連のポニートラスを側径間に持ち、橋の長さは526mにもなります。また、大正15年に完成した高知県中村市の「四万十川橋」も、規模の大きな曲弦ワーレントラス橋の一つです。支間53m、8連のトラスを持つこの橋の長さも500mをこえます。昭和に入ると、当時東洋一の長さを誇った「吉野川橋」が完成します。その全長は1071m、支間62mの曲弦ワーレントラスを17連したこの橋は、アメリカで橋梁技術を学んだ増田淳の設計で、当時の技術の粋を集めたものでした。増田淳は、穴吹橋や千住大橋をはじめ、50をこえる橋を設計した昭和初期を代表する橋梁設計者でした。昭和3年に「吉野川橋」は、以前に架かっていた賃取橋にちなみ「古川橋」の名で、今も徳島の人たちから親しまれています。

 
 
穴吹橋
大師橋 丹波島橋 長生橋
穴吹橋 大師橋 丹波島橋 長生橋
 

   22 力強いゲルバー(カンチレバー)トラス橋  
  穴吹橋/長生橋/丹波島橋/大師橋
   昭和のはじめ、震災復興事業を中心に、日本の橋づくりは、従来のアメリカ式からドイツ式に転換してゆきます。その代表的な橋梁形式が、ランガー橋やゲルバー橋です。ゲルバー橋の名は、ドイツ人の発案者に由来し、カンチレバー橋ともいわれます。ゲルバー橋の一つの形であるゲルバートラス橋は、一見、トラスが一体に連続しているように見えますが、蝶番によって、吊径間が吊られているという構造です。この時代のゲルバートラス橋は、空に向かい突き出した中間支点付近が、吊弦材を持つ特殊な形をしたものと普通のトラスのものがありました。前者の代表が「穴吹橋」「大師橋」、後者の代表が「丹波島橋」「長生橋」です。「穴吹橋」は日本で最初のゲルバートラス橋で、昭和2年(1927)に完成しました。四国三郎、吉野川に架けられたこの橋は、最大支間76m、橋の長さは254m、惜しまれつつ平成4年に解体され、現在は橋脚付近の一部が穴吹町の公園に展示されています。昭和7年、長野県の犀川に架けられたのが「丹波島橋」です。今なおその重厚な影を川面に落としています。「長生橋」は新潟県長岡市を流れる信濃川に架けられた橋で、昭和9年完成。最大支間65mの13径間で、橋の長さは850mになります。東京と川崎を結ぶ「大師橋」は最大支間104mを誇るこの橋は、昭和14年に完成しました。昭和初期には、こうした道路橋の他にもゲルバートラス橋がつくられています。昭和6年には、震災復興事業により、鉄道橋ではじめて、東武伊勢崎線「隅田川橋梁」が中路式のゲルバートラスとしてつくられています。

 
 
永代橋
言問橋 吾妻橋 勝どき橋
永代橋 言問橋 吾妻橋 勝どき橋
清洲橋 千住大橋 中央大橋 筑後川昇開橋
清洲橋 千住大橋 中央大橋 筑後川昇開橋
 

   23 昭和の橋  
  隅田川橋梁群
   大正12年(1923)の関東大震災により、火災地域の木橋は焼失、鉄橋も橋脚の破壊や橋桁の落下により、大きな被害を受けました。震災直後から、こうした被災橋梁の復興事業の中心となったのは内務省復興局です。復興局により、隅田川の橋梁群は、唯一、震災に耐え、多くの人命を救った新大橋を除いて、明治の面影を残す橋から全く新しい近代的な橋へと生まれ変わります。大正15年に完成した「永代橋」は、支間100mをこえる重量感あふれる鋼アーチ橋です。この男性的なイメージの「永代橋」とは対照的に、清楚な女性的な美しさをもつ吊橋が、昭和3年(1928)に完成した「清洲橋」です。この「永代橋」「清洲橋」には、海軍で研究されていた高い張力を持つマンガン鋼が使われています。その他の橋も、昭和2年に主径間を下路アーチ、両側径間を上路アーチとした「駒形橋」、同じく2年に上路アーチ3連の「蔵前橋」、タイドアーチの「千住大橋」、続く3年にはゲルバー桁橋の「言問橋」、4年にはタイドアーチの「厩橋」がつくられます。さらに、昭和5年に復興局がその役割を終えてからも、昭和6年、上路アーチ3連の「吾妻橋」、タイドアーチの「白髭橋」が、続く7年にはゲルバー桁橋の「両国橋」が完成、現在、隅田川にかかる16の道路橋の内の10橋が、震災後のこの9年でつくられたことになります。また、鉄道橋についても、震災復旧事業の一環としてつくられたものがあります。昭和7年、総武本線浅草橋~両国間に完成した「隅田川橋梁」です。「隅田川橋梁」に採用されたアーチ橋と桁橋を組み合わせた形式は、考案者のオーストリア人にちなみ、ランガー桁橋と呼ばれるもので、日本ではこの橋に初めて採用されました。

 
 
安治川橋
旧国鉄佐賀線筑後川橋 勝鬨橋1 勝鬨橋2
安治川橋 旧国鉄佐賀線
筑後川橋
勝鬨橋1 勝鬨橋2
長浜大橋 末広橋梁 和田旋回橋  
長浜大橋 末広橋梁 和田旋回橋  
 

   24 可動橋  
   明治、大正、昭和にかけても、河川や運河は重要な輸送ルートでした。その一方、陸上交通が急激に発達して、多くの橋梁が架けられるようになると、その共存が求められます。こうしてつくられたのが、今ではほとんど見ることのできなくなった「可動橋」です。船を通すために橋が動く「可動橋」は、その方法から3つのタイプに分けられます。一つは、橋桁全体がエレベーターのように上下して、船を通す「昇開橋」です。橋桁を巻き上げるため、左右の橋脚に鉄塔が建てられています。佐賀県筑後川に架かる「筑後川橋梁」がその代表です。昭和10年(1935)に完成したこの鉄道橋は、長さ500mの内の25mが可動部で、高さ30mのタワーにはさまれたこの可動部が、電車が通るときだけ下りてきました。昭和62年に佐賀線が廃止されたため、現在は動態保存されています。二つ目は、一本の橋脚を軸に、橋桁が棒磁石のように水平旋回して船を通す「旋回橋」です。この橋は、2径間が同時に開かれるため、上り下りの舟を同時に通すことができます。「安治川橋」「和田旋回橋」がその代表です。「和田旋回橋」は、明治33年(1900)頃に、神戸の兵庫運河に架けられた5つの「可動橋」の一つで、日本で初めての鉄道可動橋です。今はもう動きませんが、現存するものとしては、一番古い「可動橋」です。、三つ目は、蝶番を軸に、踏切の遮断機のように、橋桁が跳ね上がる「跳開橋」です。この形式は、バスキュール形とも言われます。このタイプの代表的なものが、「長浜大橋」「勝鬨橋」です。一枚羽根が開く「長浜大橋」は、木材の集積地であった肱川河口の愛媛県長浜に昭和10年(1935)に完成しました。駆動装置を含めて、竣工当時の姿を今に伝えています。さすがに船を通すことこそほとんどなくなりましたが、年に数回イベントなどで、その健在ぶりを発揮しています。一方、二枚羽根を観音開きに広げるシカゴ・タイプの跳開橋が「勝鬨橋」です。その開通式には、渡り初めならぬ「くぐり初め」が行われ、開通当初は、羽根を広げた勇壮な姿を一目見ようと、日に5回の開橋時には、多くの見物客が詰めかけました。橋の長さは246m、橋の中央45mが、約70°の角度で「ハ」の字に開いて、船を通しました。その後、交通渋滞を理由に、昭和45年、橋の開閉が中止され、開かずの橋となっています。一方、まだまだ現役バリバリの跳開橋もあります。三重県四日市、千歳運河には、貨物の引き込み線にかかる鉄道橋「末広橋梁」と道路橋の「臨港橋」が並んでいます。昭和6年に完成した「末広橋梁」は、今でも日に10~12回、16mの橋桁を80°まで巻き上げ、船を通しています。二つの橋が順に跳ね上がり、その桁の間をのんびり船が進む光景は、見るものの心を和ませてくれます。

 
 
関門大橋
関門大橋
 

   25 幻の関門架橋案(昭和12年)と現代の関門大橋  
   明治末期から構想のあった関門海峡架橋計画は、昭和初期になると、内務省土木局により、橋梁案とトンネル案の比較検討を行いました。昭和12年(1937)にまとめられた橋梁案は、支間720m、全長1315mの吊橋で、その工期は5年、総工費は当時のお金で2500万円というものでした。当時は戦時下で、爆撃される危険から、結局、トンネル案が採用されました。その後、戦争による中断をはさみ、全長3460mのトンネルが昭和33年に開通しました。その後、関門海峡を渡る橋梁についても、昭和48年、内務省土木局の橋梁案から36年を経て、「関門大橋」が完成しました。昭和12年の橋梁案を、この「関門大橋」と比べても、吊橋の構造や中央径間に大きな違いはないことが分かります。

 

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