「富岳」を活用した新型コロナウイルス対策プロジェクト「室内環境におけるウイルス飛沫感染の
予測とその対策」のリーダーを務める坪倉 誠教授と,福田孝晴当社常務執行役員・技術研究所長が,
プロジェクトの発端から成果の公表,そして今後について対談した。
理化学研究所計算科学研究機構
チームリーダー
神戸大学大学院 システム情報学研究科 教授
1992年京都大学卒業後,東京大学大学院工学系研究科機械工学専攻博士修了。
北海道大学准教授などを経て現職。
クロスアポイント制により理化学研究所と神戸大学双方に研究室をもつ。
神戸大学ではシミュレーション結果を活用した多目的最適化や機械学習(AI),計算科学とデータ科学の融合技術に,理化学研究所ではフラッグシップスパコン京や富岳といった超大規模計算機の能力を有効に活用するためのシミュレーション技術の開発とその産業応用に取り組む。
わずか4日で
プロジェクト立ち上げ
新型コロナウイルス感染拡大を受け,本格運用前の「富岳」を使った臨時課題募集を行ったことは理研さんのご英断と思いますが,ここへ坪倉先生が応募された経緯をお教えください。
昨年4月当時は理研,大学研究室の双方とも緊急事態宣言下で研究員は皆,在宅勤務中でした。4月7日の理研プレスリリースを知ったメンバーのひとりが,ネットワークコミュニケーションツール(Slack)上で,「われわれも何かできないか」と提案したのがすべての始まりでした。
早速ネット上で議論が始まり,4時間後には,われわれが開発しているソフトウェアのモジュールを活かした飛沫シミュレーションをしようという素案がまとまりました。対象は,緊急事態宣言が明けた際に重要となる公共交通機関や公共施設に設定し,飛沫飛散を予測することからリスク評価と低減策の提案を目標としました。
当社常務執行役員・技術研究所長
当社はスーパーコンピュータ「京」の時代から建築物の耐風設計における数値流体計算に関して,坪倉先生と共同研究をしてきましたが,今回当社にお声がけいただいたのはなぜですか。
室内環境での飛沫シミュレーションと感染リスク低減策の提案まではすぐに思い立ったのですが,われわれはスパコンを使った流体の専門家ではあっても,ウイルスや空気感染の専門家ではありません。また,室内環境で拡散する飛沫のリスクは,シミュレーションからどう評価し,どうすればリスク低減策につながるのかといった室内環境評価に関する知見もありません。
そこで室内環境シミュレーションを行っており,なおかつスーパーコンピューティング技術産業応用協議会*で中心的役割を担っておられる鹿島さんが頭に浮かび,近藤宏二さん(当社技術研究所プリンシパルリサーチャー)へすぐにお声がけしました。提案した7日の夕方です。その他の専門家へも参画を要請し,4日目の10日には初回のネット会議を開催,プロジェクト応募を決めました。そして24日,理研と文科省にプロジェクトが正式採択されました。
*スーパーコンピューティング技術の利活用を促進し,日本の産業競争力の強化を目的として2005年に設立された任意団体。2019年度,当社福田技術研究所長が運営委員長を務めた
大きな目標を共有する
異分野の研究者を集めてマネジメントすることはご苦労が多いと思いますが,実にスピーディな立ち上げや,コーディネート力に感服いたします。
プロジェクトに必要な最小限の研究者を集め,機動力をアップさせたことが主因かもしれません。それぞれのメンバーが忌憚なく意見を言い合える環境を大切にしています。それはやはり世界が注目する新型コロナウイルスに対峙するという大きな目標があることゆえと思います。
共通の目的が必要という視点は,プロジェクト推進には非常に重要ですね。そのなかで国や業界団体などからのたくさんの要請に対し,個別のテーマはどのように選定されたのですか。
公共性の高い対象を選定しています。前述のとおり,緊急事態宣言明けを意識して通勤電車,オフィス,病室,学校教室を最初の対象とし,リスク低減策としてマスクやパーティションに着目しました。
富岳活用の成果と「見える化」
プロジェクトで「富岳」を使う利点はどこにあったのでしょうか。
実は今回の計算の多くは,たかだか数億セル程度を扱うものであり,それなりのスパコンがあれば計算可能です。そのなかで精度の高いシミュレーション計算を大量に,毎月1,000〜2,000ものケースを解くという「キャパシティコンピューティング」に特徴があり,そこが注目されています。
この点は悩んだことでもありますが,3ヵ月かけてマスク1枚のシミュレーションを超高精度に実行するよりも,実生活で遭遇する場面に対して,条件を変えて多数のケースを解析して最適な対応を提案することのほうが重要であると考えました。
このコロナ下では,社会全体のいろいろな方が多くの不安を抱えているわけで,そういうさまざまなケースを「見える化」したのが価値あることですね。
またこれらの研究成果の公表にはかなり気を使われているのではないでしょうか。
飛沫の飛散状況を可視化すると,かなりショッキングな映像となることもありますが,恐れを抱かせることが目的ではありません。必ず,対策とのセットで発信するとメンバーで決めました。科学的に正しく飛沫感染のリスクを理解し,対策を個人レベルでも考えられるきっかけにしたい,つまり啓発です。
鹿島の大きな役割
プロジェクト参加にあたり,当社に期待された役割や評価をお聞かせください。
今回,鹿島さんがいなければこのプロジェクトは成り立たなかったと言っても過言ではありません。
さまざまな室内環境の計算モデルの作成と境界条件設定といった地道な仕事ではとくに挾間貴雅さん(KaTRIS**主任研究員),弓野沙織さん(技研研究員)の協力の賜物でした。また,室内環境シミュレーションに関するノウハウ,結果に対する検証や感染リスク低減策の提案まで,経験をもとに鹿島さんからアドバイスをたくさんいただきました。
**Kajima Technical Research Institute Singapore,当社技術研究所シンガポールオフィス
統合的なシステムに向けて
今後の見通しをお教えください。
残念ながら見通しが立ちにくいのが,このコロナの悩ましいところです。感染拡大期には正直なところ,場当たり的に感染リスク評価と低減策提言を続けていくしかありません。ただ,第三波が明けた後の社会経済活動の再開に向け,音楽イベントやスポーツ観戦など,大人数の集まる環境での評価をしていきたいです。
その一方,今の手法では限界もあります。どのサイズの飛沫がどのように拡散し,人に届くかまでは評価できても,その後感染するかどうかのリスクを評価することはできません。今後は,感染者からのウイルス飛沫の発生から,室内への拡散,被感染者への取り込み,気道を経て粘膜への付着,そして粘膜内でのウイルスの動態と免疫反応を数理モデル化し,定量的に感染リスクを評価できるような,統合的飛沫感染リスク評価システムを構築したいですね。
非常に素晴らしいと思います。空間の評価で終わらず,人間への影響までをリスク評価する点,これはたとえば防災の考えにも通じるところです。社会に共通するリスクは統合的なシミュレーションと評価が必要です。まさに富岳を活かしていくべきテーマですね。
最後になりますが,ポストコロナ時代の新しい生活様式の構築に向けて,われわれが取り組むべき課題についてご意見をお聞かせいただけますか。
難しい質問ですが,新しい生活様式に向け,マスクやパーティションなしで安心して暮らせる室内環境のあり方でしょうか。ウイルス感染にレジリエントな社会の構築に向け,より長期的な視点で感染リスクを低減した室内気流の制御や空調方式,空間設計などを,鹿島さん主導で一緒に考えていきたいと思っています。
社内外の関心が高いなか,お客様,そして社会のために安心安全な環境は考えるべきテーマです。現在,当社では技研を中心にシミュレーション技術や,インテリアを含むトータルの空間設計から感染対策,安全性の向上を社内横断チームで担い,提案している最中です。今後も是非ご一緒に検討をお願いいたします。